« 義経 27 | トップページ | 義経 27の3 »

2005.07.13

義経 27の2

義経 第27回 「一の谷の奇跡」その2

一ノ谷から戻り、対平家の戦略を練る義経。彼は単純に三草山の敵を討つだけではなく、一ノ谷の平家の軍勢をおびき出し、その勢力を殺ごうと考えます。そして、自らの兵力を温存するために、火矢と太鼓を使うと謎の様な言葉を吐きます。

まごめと鷲尾三郎に先導され、三草山周辺の民家を回る伊勢三郎と駿河次郎。彼らは、土地の者達に、家を立ち退いて貰う様頼んで回っていたのでした。

夜になるのを待ち、無人となった民家めがけて火矢を放つ義経。それに続いて次々と火矢を放つ郎党達。たちまちの内に民家は燃え上がり、紅蓮の炎となって夜空を焦がします。そして、同時に一斉に鬨の声を上げる義経軍。不意に現れた炎と鬨の声に驚く平家軍の耳に、おびただしい数の太鼓と鉦の音が聞こえてきます。事態が掴めず混乱するばかりの資盛は、源氏の大軍が夜討ちを仕掛けて来たと思いこみ、退却の下知を下します。大将が逃げ出した平家軍は一斉に崩れ立ち、我先にと退却してしまいました。

翌朝、無人となった平家の陣に入り、戦わずして勝利した事を喜ぶ義経達。義経の能力を危ぶんでいた安田義貞も、ようやくその力を認めた様子です。勝利の余韻に浸る暇もなく、義経達はさらに西を目指します。

一ノ谷、平家の陣。三草山の軍が夜討ちを受け、壊乱したという知らせが届いています。大将の資盛は使者を一ノ谷に寄越しただけで、自身は屋島まで逃げ去ってしまうという始末でした。弟のあまりの無様さに雪辱を申し出る維盛ですが、宗盛は相手にしません。三草山に向けて迎撃軍を出そうと言う重衡ですが、知盛がこれを止めます。兵力を分散させる事を避け、一ノ谷を固める事を優先させたのでした。そして宗盛は、主上と女院、さらに三種の神器を御座船に移す事を決めます。この時点で義経が立てた計略は、その目論見がはずれてしまった事になります。

この日の昼、法皇から源氏との和睦を勧める書状が届きます。そこには和睦の使者が8日に訪れるので、戦をせずに待つ様にとありました。これで都に帰れると喜色を浮かべる宗盛ですが、知盛は源氏の襲来に備える事も怠りません。

鎌倉、大倉御所。法皇から何の働きかけも無い事をいぶかる政子。法皇の心中を計りかねている頼朝。

京、六条御所。薬研で薬草を砕きながら、今様を歌う後白河法皇。灯りに照らされたその横顔は、自ら仕掛けた策略の効き目を楽しんでいるかの様です。

京、義経の宿所。義経の持仏である毘沙門天の前で、義経の事を案じながら笛を奏でる静。


三草山で陣を構えていた平家方は、平資盛を筆頭に、有盛、忠房、師盛という小松一門の兄弟達でした。平家物語に依れば、その兵力は三千余騎とあります。三草山は古来からの交通の要衝であり、道は狭く急峻で、攻めるに難く、守るに易いという地形でした。

対する義経の軍勢は一万騎であり、2月3日の夜に京を出て、5日の夜に三草山の東にある小野原に到着しています。「2日路を1日に打って」という強行軍でしたが、ここまで来た時に前方に平家軍が布陣している事を知りました。

ドラマでは一ノ谷まで平家の布陣を見に行った義経でしたが、実際にはそんな余裕はありませんでした。7日の矢合わせに間に合わせるためには、すぐにも三草山の敵を抜かなければなりません。しかし、これまでの行軍で将兵は疲れ切っており、普通に考えれば兵を休めるために一夜明かすのが適切な処置でした。

さすがの義経もここでは迷ったのでしょうか、軍監の土肥実平に対して夜討ちを掛けるべきか、明日攻め掛かるべきかと問いかけます。このとき、田代冠者という者が進み出て、明日に攻撃を引き延ばせば平家方も勢い付くであろう、敵は3千、味方は一万、このまま夜討ちを掛ければ味方が有利であると意見を申し述べました。これを聞いた実平は、よくぞ言った、ではこれから攻め掛かろうと同意し、夜討ちを決行する事に決まります。そして兵達が道が暗いと口々に言うのに、義経はかねて用意してあった大松明を出させ、小野原の在所の家々に火を掛けさせました。さらに、野山にも火を掛けさせたところ、道は昼の様に明るくなり、難なく三草山を越えていく事が出来たとあります。義経が家に火を点けたのは道の灯りとするためであり、ドラマの様に平家方を驚かす為ではありませんでした。

また、ドラマでは住民達に対して立ち退きをお願いして回った事になっていましたが、とてもそんな時間はあるはずもなく、いきなり火を点けた様ですね。住人こそ良い迷惑でしたが、当時の戦では兵糧にしても現地で徴発する事が普通であり、住民の生活の補償などという観点はかけらもありませんでした。平家物語では木曽義仲の乱暴ばかりが強調されていますが、実際には義仲にしても、平家にしても、そして源氏の軍勢にしても同じ事をしています。その中で敗者である義仲ばかりが悪事を働いた様に記録され、今に伝わっているのですね。そして義経のこの行為に至っては、軍事上機転の利いた賞賛されるべき処置として記録されています。このあたりは、今の常識をもって計るべきではない事なのかも知れませんね。

平家方は、源氏の軍勢が現れた事は知っていた様ですが、強行軍をさらに押しての夜討ちは無いと見て、前軍は警戒させていたものの、本軍は明日の戦に備えて寝入っていました。そこに突然鬨の声が響き渡ったため、平家軍は慌てふためき、源氏軍を押しとどめる事も出来ず、陣中深く進入を許してしまいました。源氏方は逃げまどう平家軍をあちこちで追いつめ、500余騎を討ち取ります。資盛、有盛、忠房の兄弟は播磨国高砂から船に乗って屋島に逃れ、師盛だけが一ノ谷に戻り、本陣に事態を伝えたのでした。ドラマの様に鉦と太鼓だけで追い払ったと言うのは大げさですが、それに近い様な一方的な戦いだった事は確かな様ですね。

資盛達が一ノ谷ではなく屋島を目指したのは、屋島には彼らの兄である維盛が居て、一ノ谷には自分たちを傍流に追いやった宗盛が居たからではないかと思うのですが、どんなものでしょうか。彼ら兄弟が、揃って本陣である一ノ谷を離れて三草山に布陣していた事が小松一門の孤立を証明している様に思われ、この敗走劇の背後には彼らと宗盛の対立の影が潜んでいる様な気がします。

以下、明日に続きます。


|

« 義経 27 | トップページ | 義経 27の3 »

義経・平清盛」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 義経 27の2:

« 義経 27 | トップページ | 義経 27の3 »