義経 28
第28回 「頼朝非情なり」
一ノ谷から凱旋し、一躍時の人となった義経。宿所に帰ると、急ぎ出迎えに出た静が、義経主従の無事な姿を見て涙を流して喜びます。
範頼の宿所。生け捕りにした重衡の処遇を巡って評定が開かれています。頼朝の裁定を仰ごうと言う範頼に対して、敵の大将の首を刎ねるのは戦の定法であると譲らない軍監の景時。意見を求められた義経は、重衡から宗盛に宛てて、その身柄と引き替えに三種の神器を引き渡して欲しいという旨の手紙を書かせてはどうかと答えます。その意を受け、文をしたためる重衡。
屋島、平家の陣。重衡の手紙を読み、重衡が生きていたと狂喜する妻の輔子と女人達。しかし、宗盛の決断は、重衡を見放し、三種の神器は返さないという非情なものでした。輔子から助けを求められた知盛ですが、彼もまた神器を返しても重衡の安全が保証されるとは限らないと宗盛の決断を支持します。ただ唯一の救いは源氏方には義経が居る事だと付け加えますが、宗盛は一ノ谷での奇襲を行ったのは他ならぬ義経であり、恩を忘れた所業であるとこれを一蹴します。
京、範頼の宿所。平家方の返辞を読み、重衡の首を刎ねると決意する範頼と、渋々ながら同意する義経。そこに頼朝から、重衡を鎌倉に送る様にとの知らせが届きます。それを聞いた義経は、護送の役目を買って出ます。
義経の宿所。静に重衡の護送の役目を自ら買って出たと、再び留守にする事を詫びる義経。京は自分の故郷であり、何も心配は要らないと答える静。
重衡を連れて、鎌倉に向けて出立する義経主従。駿河国に入った頃、宿所で重衡に話しかける義経。自分を恨んでいるかと問いかける義経をいぶかる重衡。義経は重衡に、清盛から聞いた誰も苦しむ者が居ない新しい国作りを、世の乱れを招いた平家に代わって続けようとしている頼朝の為に戦うのだと告げます。それを聞き、自分にも弟が出来たと喜んでいたと幼い頃を思いだす重衡。平家を恨んで戦えたらどんなに楽だったかと答える義経。重衡はそれを宿命と呼びました。
鎌倉、大倉御所。一ノ谷で、三種の神器を取り戻せなかった事を、頼朝に詫びる義経。しかし、頼朝はそれを咎めず、義経の働きを褒めてやります。そして、都より招いた2人の学者、大江広元と善信を義経に紹介します。頼朝は、武家の為の政を始める為に必要な知恵を出して貰っているのだと義経に告げますが、義経は頼朝の言葉の意味が飲み込めない様子です。
頼朝に続いて、時政と政子にあいさつに訪れた義経。一ノ谷の戦勝を激賞する時政ですが、政子はそれを半ばで遮り、義高に会う前に、大姫はまだ何も知らないと注意を促します。義高に会うために席を立った義経を見送った後、時政と政子は、義経の能力と、都人や御家人の間で高まっている評判に危惧を唱えます。
義高と大姫に拝謁した義経。無邪気に義経との再会を喜ぶ大姫と、悲しみを内に秘めたまま、義経と相対する義高。義経は、義仲から頼まれた伝言、「すまぬ。」という一言を、義高に伝えます。
重衡と対面する頼朝。その側近から、重衡に次々と詰問が飛びます。三種の神器を返さない平家の趣意は何かと問われた重衡は、そもそも自分たちが奉じている帝こそが正統であり、返す謂われなどないと答えます。そして南都焼き討ちについて、清盛の命であったのか戦の弾みであったのかという問いに対しては、平家に敵対する僧兵を滅ぼすために、自らの判断で行ったと返答します。頼朝は何か言いたい事は無いかと聞いてやりますが、重衡は敵の手に掛かって死ぬことはもののふにとっては恥ではないと嘯き、自分の首を刎ねよと答えます。
重衡との対面を終えて、話し合う頼朝とその側近達。頼朝は、南都焼き討ちについては、重衡が清盛を庇ったのだろうと見抜きます。そして、重衡を鎌倉に呼んだのは、直に人物を見たかったからだと側近達に説明し、たとえ平家であったとしても良き人物なら鎌倉に迎え入れ自分に力を貸して欲しいからだと告げます。頼朝は重衡の器量を高く評価し、殺すには惜しい人物であり、今後は丁重に扱う様に命じます。
千鳥の家を訪れている義経主従。一ノ谷の奇襲の事で、話が弾んでいます。その中で、一人静かな弁慶。皆は弁慶と千鳥に気を遣い、早々に席を立ってしまいました。後に残った2人。千鳥は弁慶に、都に行っても良いかと言い出します。弁慶が訳を聞くと、熊野の湛増を訪ねて行くついでだと答えます。以前助けた船乗りが湛増の配下の者で、以来繋がりが出来たのでした。湛増の名を聞き、複雑な様子の弁慶。
義経が都でいかに評価を受けたかについては、九条兼実が残した玉葉で、「一番は九郎」、「次に蒲冠者」と記している事からも窺えます。これに対して鎌倉では、特に義経に対する評価は無かった様ですね。このあたりのギャップが、後の悲劇へ繋がって行く事になります。
重衡を一ノ谷で捕らえたのはドラマでは義経になっていますが、平家物語では梶原景季と庄の四郎高家とされています。重衡は一ノ谷では知盛と共に生田の森を守っていたのですが、味方が総崩れになった時には、乳母子の後藤兵衞盛長と2人だけになっていました。重衡の乗馬は童子鹿毛という名馬で脚が速く、盛長と共に西を指して逃げ始めると、源氏勢はなかなか追いつく事が出来ません。後を追っていた梶原景季は、一か八かで遠矢を射ってみます。するとその矢は見事に重衡の乗馬に命中し、さしもの名馬も見る見る内に衰えていきます。このとき盛長は、このままでは自分の馬を重衡に取り上げられてしまうと考えて、主を見捨てて自分一人で逃げてしまいましす。重衡は長年親しみ、共に育ってきた乳母子に裏切られた事に衝撃を受けますが、なおも馬を操って海に逃れようとします。しかし、馬は弱る一方で、後から追ってくる源氏勢に追いつかれそうになり、遂には鎧を脱ぎ自害して果てようとしました。その時、庄の四郎高家という者が重衡に追いつき、自分の馬へと力づくで乗り換えさせ、鞍の前輪にしめ附て自陣に連れ帰ったとあります。
都に連れ帰られた重衡は、都大路を引き回された後、土肥実平に預けられます。その重衡の下に後白河法皇の使いとして、藏人左衞門權佐定長という者が現れました。定長は法皇の言葉として、屋島に帰りたければ三種の神器を返すように申し送れと重衡に伝えます。重衡は、「どう考えても平家一門が、自分と引き替えに三種の神器を返す事は無いだろう。ただ、母の二位の尼ならそういう事を言うかも知れない。もしかしたら院宣をそのまま突き返して来るという恐れもあるが、それでも良いなら送れば良い。」と答えます。
院宣の使いは、平三左衞門重國、御坪の召次花方という2人の人物でした。彼らは屋島に赴き、平宗盛に院宣を伝えます。そして二位尼に対しては、重衡の手紙を渡しました。果たして宗盛は三種の神器を返すことに反対しますが、二位尼は泣いて宗盛に頼み込み、重衡を見捨てるなら自分を殺せと迫ります。しかし、知盛が神器を返したとしても重衡が帰ってくる保証はどこにもないと言い、宗盛もそれを支持したため、遂に院宣をはねつける事に決します。このとき平時忠が使いの花方を呼び、はるばる浪を越えてきた記念にしてやると言って、浪方と記した焼印を顔に押し当ててしまいます。
この時の返書が吾妻鏡に残っている事は以前に書いたとおりですが、宗盛は後白河法皇に対して、「一ノ谷では、法皇が使者を遣わすと言うから我々は待っていた。それなのに源氏が攻めてきたのは、法皇の巡らした謀としか思えない。我々は都に帰ろうとしているだけなのに、その都度法皇が源氏を遣わしてそれを邪魔している。我々は源氏に対して遺恨は無く、法皇が真に和平を勧めてくれるというのならそれに従います。」と皮肉を込めて答えています。
この返辞を聞いて、重衡は一門の者が自分を悪く思ったであろうと考え、手紙を書いた事を後悔しました。その重衡の心を捕らえていたのは、南都焼き討ちをした報いとして仏罰が下るのではないかという事でした。そこで重衡は出家を思い立ちその旨を土肥実平に伝えます。実平はこれを義経に伝え、さらに義経から朝廷に伝えられますが、帰ってきたのは頼朝に対面した後に考えるというものでした。そこで重衡は、せめて師の法然に会いたいと願い、これは許されます。法然に会った重衡は、栄華にあった時の驕慢、そして南都焼き討ちをしたこと悔い、救いを求めます。法然はこれを慰め、ひらすら仏に縋れば救いがもたらされると説いてやります。重衡は布施の代わりとして、清盛が宋の都より賜った「松蔭」という硯を法然に差し出しました。
重衡が鎌倉に送られたのは、平家物語に依れば寿永3年3月10日の事でした。彼を送って行ったのは、ドラマのように義経ではなく、梶原景時です。ドラマでは、義経と重衡が幼なじみという設定であり、また義仲の伝言を義高に伝えるためもあって、義経を警護役に付け鎌倉に帰したのでしょうね。実際には義経は、平家追討に旅立った後は、一度も鎌倉に帰っていません。
鎌倉で重衡と対面した頼朝は、ドラマにあった様に「南都焼き討ちは、清盛の命に依るものか、その場に応じて重衡が命じたのか。」と問いかけます。重衡は、「南都焼き討ちは清盛の命でもなければ、自分が意図したものではない。南都の悪行を鎮めようとして出陣したのだが、図らずも伽藍を滅ぼす事になってしまた。これば自分の力の及ぶ所では無かった。」と答え、さらに続けて、「自分たちは代々朝廷をお守りし、その奉公の結果として20数年に及ぶ栄華の日々を迎える事ができ、60数人の殿上人も排出した。今またその運が尽き、西海に果てると覚悟していたが、こうして自分が鎌倉に下る事までは思いも寄らぬ事だった。ただ、先世の宿業とこそ悔しく思う。弓矢を取る者が敵の手に掛かって命を捨てる事は、なんら恥ではない。早く自分の首を落とせ。」と訴えます。これを聞いた景時は、「あわれ、大将軍や。」と言って涙を流し、頼朝もまた、「平家を自分の敵と思った事は無い。ただ、帝王の思し召しこそ重いのだ。」と言い、「南都の大衆から何か言ってくるかも知れない。」として伊豆国の住人狩野介宗茂に預けます。
この宗茂という人物は、情のある人で重衡を丁重に扱い、「頼朝からもよくよく慰め参らせよと言われている。何事に依らず奉公させて貰うので、何でも言って下さい。」と重衡に伝えます。そして、千手前という女房を重衡の世話役に付け、身の回りをさせます。この千手前は教養豊かな女性で、重衡の言葉にあるいは和歌で、あるいは今様で答え、重衡の心を捕らえます。重衡もまた琵琶を奏して千手の前の心づくしに答え、彼女もまた重衡が弓矢だけの武士では無い事を知ります。後に重衡が亡くなった後、千手前は信濃国善光寺に赴き、重衡の菩提を弔ったとあります。
千鳥の話に複雑な反応を示した弁慶でしたが、御伽草子の「橋弁慶」に弁慶の父親は熊野の別当湛増とあり、自分の父親が思わぬ形で千鳥と係わっていた事に驚いた様ですね。この設定は原作本の中には無く、このドラマオリジナルの設定の様です。
以下、明日に続きます。
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