« 義経 28 | トップページ | 京都 祇園祭 宵山残照 »

2005.07.19

義経 28の2

第28回 「頼朝非情なり」その2

鎌倉、大姫の館。大姫に義仲が討たれた事を漏らしてしまったかえでとそれを責める女房。そこに現れた大姫は、義高が頼朝に殺される事もあるのかと問いかけ、女房達が否定するのも聞かず、義高は自分が何としても守ると言い切ります。

早朝、大姫の館。かえでが警護の者に、自分の父の命日の供養の為に寺に参ると告げ、供の小者と虫の垂れ衣を被った童女姿の義高を連れて外に出ます。

桜の木に向かって、一心に手を合わせて祈る大姫。女房が大姫に、義高の落ち着き先が決まれば知らせが入ると告げると、姫は黙ってうなずき再び祈りを続けます。

義経の館。義経が書き物をしていると、義高が出奔したという知らせが入ります。それを聞き、愕然となる義経。

大倉御所。義高を逃がした女房が、頼朝の前で懸命に申し開きをしています。そこに現れた時政が、すでに兵を四方に手配してあるので、間もなく捕まるであろうと知らせます。その間頼朝は終始無言で、表情には苦悩の色が浮かんでいます。

日が暮れ、薄暗くなった山中を行く義高の一行。その前後に松明を持った兵達が現れ、一行を取り巻きます。

夜の大倉御所の庭先に控える、連れ戻された義高の一行。泣き崩れるあかねとは対照的に、懸命に感情を押し殺し、表情を消して黙って座っている義高。その前に現れた頼朝は義高を見据えて何かを言いかけますが、言葉になりません。

頼朝の居室。頼朝に向かって、義経が目通りを願っていると伝える政子。しかし頼朝は会わぬと突き放します。政子は頼朝に、大姫の為にも義高を助けてくれる様にと頭を下げて頼みますが、頼朝は困惑するばかりです。

別室で、頼朝の返事を待っている義経。そこに盛長が現れて、今は頼朝に会えないと伝えます。義経は強引に押し通ろうとしますが盛長に阻まれ、せめて頼朝に義高に対して寛大な処遇をして欲しいと伝えてくれる様に頼みます。

頼朝の居室。一人黙考する頼朝。彼は考え抜いたあげく盛長を呼び、義高の首を刎ねよと命じます。その頼朝の表情には、悲痛な色が浮かんでいました。

大倉御所の庭。頼朝の前に引き据えられた義高。彼は武士の子らしく怯むこともなく、無言で頼朝を上目使いに睨みつけています。その義高に向かって振り下ろされる、一筋の太刀。

義経の館。弁慶が義高が処刑された事を伝えてきます。

大姫の館。義高が殺されたと知り、惑乱する大姫。そこに現れた義経が大姫に声を掛けますが、大姫は義経を父と同じだと非難し、顔も見たくないと罵ります。後に残り、悲しみの表情を浮かべる義経。悄然として自分の館に戻ろうとした義経の前に盛長が現れ、頼朝が呼んでいると伝えます。

頼朝の居室。憔悴の色を浮かべ黙考していた頼朝は、義経が入ってきた気配に気付き、目を開けます。黙って頼朝の前に控える義経を見て、頼朝から声を掛けます。頼朝は、かつて義高を斬れと言った御家人を斬首にした事があると告げ、それほどまでに買っていたにも係わらず逃げ出した事は自分への大いなる裏切りであると、義高を斬首にした理由を説明します。義経は義高は若年であり、思案の及ばぬところもあると言い返しますが、頼朝は義高はかつて清盛に命を助けられた自分たち兄弟と同じであり、いつかは親の敵を討とうと考える時が来ると答えます。なおも義経は、義高は源氏の一族であり、身内で争い事をしていては源氏一門が結束出来ないと言い張りますが、頼朝は身内の情に頼りすぎた平家の例を挙げ、身内でなくとも結束は可能だと答えます。そして、頼朝の目指す新しい国は、源氏の世ではなく、自分に従うもののふの国だと義経を諭します。源氏や平家はどうでも良いと言い切る頼朝の言葉を、どうにも理解しかねる様子の義経。そんな義経に、頼朝は京都守護を命じます。

頼朝の考えに違和感を抱いたまま、京を目指す義経の軍勢。

義高の最後については、吾妻鏡に詳しく描写されています。義仲が討たれたのは1184年(寿永3年)1月20日の事でした。本来ならここですぐに首を刎ねられてもおかしくない義高でしたが、なぜか何の沙汰もなく済まされます。義高の身辺に動きがあったのは、1184年(元暦元年)4月21日の事でした。頼朝は、このままでは義高がいつか親の敵を討とうとするであろうと考え、側近に彼を殺すつもりだと漏らします。これを聞いた女房達が大姫に告げ、大姫からさらに義高に伝えられます。義高は一計を巡らせ、自分は女房姿に化け、大姫付きの女房達に囲まれて屋敷を抜け出します。そして用意してあった馬に乗り、逃走を図りました。この馬の足音を消すために、蹄に綿を巻くという周到ぶりでした。一方屋敷では、義高と同い年で、義高の相手役として鎌倉に来ていた海野小太郎幸氏が義高になりすまし、双六に興ずるふりをして時を稼ぎました。そのまま日中は周囲を欺き通したのですが、夜になって事が露見します。これを知った頼朝は激怒し、軍兵を方々の道路に派遣して義高を討ち果たす様に命じました。これを聞いた大姫は、周章狼狽して、魂を消してしまったと言います。

鎌倉から逃亡した義高は鎌倉街道を伝って武蔵国へと逃れますが、入間川に至ったところで追手に追いつかれ、ついに首を打たれてしまいます。その首が鎌倉に届いたは4月26日で、義高が逃亡してから5日目の事でした。

義高の死を知った大姫は、悲嘆のあまりに水を飲まなくなったと言います。そして、そのあまりの憔悴ぶりに、母の政子もまた嘆き悲しみ、殿中の人々もまた悲嘆に暮れたと言います。

以上が吾妻鏡の概要ですが、頼朝がすぐには義高を斬ろうとしなかった事については、大姫への配慮や頼朝自身も義高を可愛がっていた事もあって、処分を迷っていたのではないかと考えられます。そして4月に至って急に処分を思い立ったのは、誰かが義高を処分すべきだと主張したものが居たからなのでしょう。その人物とは、北条時政ではなかったかとも言われます。

一方、逃亡を図った義高の背後には、政子が居たのではないかとも言います。義高や大姫が女房達を指揮するには幼すぎ、またその女房達が勝手に動くとは考え難く、後の政子の嘆きぶりと併せて見ると、彼女が密かに糸を引いていたと考える事も出来そうですね。

義高が目指していた先は諸説がありますが、義仲の生まれ故郷と伝わる狭山市もその一つです。義高は後少しでそこにたどり着くという入間川で追手の藤内光澄に捕まり、首を刎ねられてしまいました。この事は秘密にされていたのですが、やがて大姫の知る所となり、悲嘆に暮れた彼女は水を飲まない事で頼朝に抵抗して見せます。その後大姫は日増しに弱っていき、その様子に周囲は騒然となっていきます。そこで頼朝は、義高を討った藤内光澄を処罰するという挙に出ますが、大姫の容態が良くなる事はありませんでした。それにしても、命令を忠実に実行したにもかかわらず、罪を着せられて処刑されてしまった光澄こそいい面の皮ですよね。

大姫はその後精神を病んでしまい、誰にも心を開くことなく20歳でその生涯を終えたと伝わります。


頼朝と義経の対面は、このドラマオリジナルの設定です。実際にこんな具合に2人が会って、頼朝が義経に政権構想を懇々と言って聞かせる機会があったとしたら、後に義経を襲った悲劇も起こらなかったかも知れないですね。しかし、実際には義経はずっと京にあり、頼朝とは文でやりとりするばかりでした。おそらくは、頼朝は命令を下すばかりで、自分の考えを義経に伝えるという事は無かったでしょうね。

この下りはどう見ても頼朝の人物の方が何倍も上で、その言葉を理解出来ない義経は、戦は強くても政治的には全くの無能者という様に映りました。実際の義経も平家を討つことだけに情熱を燃やしており、頼朝の様な政権構想などかけらも持っていなかった様です。しかし、ここまで2人の思想の違いを描き分けたのはこのドラマが初めての様な気がします。このままだと頼朝の真意を理解出来なかった義経が、やがて追いつめられていく事になるのは自業自得だったという事になりそうで、義経を扱った物語としては珍しい展開になりそうですね。

|

« 義経 28 | トップページ | 京都 祇園祭 宵山残照 »

義経・平清盛」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 義経 28の2:

« 義経 28 | トップページ | 京都 祇園祭 宵山残照 »