京都 黒谷 熊谷直実鎧かけの松@義経
京都の黒谷こと金戒光明寺の本堂脇に、立派な松が植わっています。これが「熊谷直実鎧かけの松」と呼ばれる木です。
熊谷直実は、鎌倉方の有力な御家人の一人でした。一ノ谷の合戦で平家方が崩れた後、手柄を求めて戦陣を駆け回っていた直実は、今まさに波打ち際から海に入り、沖合の船をめがけて逃れようとしている武者を見つけます。直実が、「あれなる大将軍、我らに背を向けて逃げるか。帰ってこい。」と声を掛け、扇で招き寄せたところ、その武者は馬を巡らせて取って返し、直実の方へと向かってきました。
直実は、その武者が海から上がるところを挑みかかり組み討ちになったのですが、力は直実の方がずっと上で、たちまちのうちに組み伏せて首を取ろうとします。しかし、その武者の顔を見ると思いのほか美しく、しかもまだ15、6の若者でした。相手が自分の息子と変わらない年頃と知った直実は怯み、若者の名を聞きますが、若者は名乗るまでもなく、自分の首を見せれば誰かが知っている、早く首を打てと答えます。直実は、自分の息子が怪我をしただけでも狼狽する程なのに、この武者が討たれたとなればその親の嘆き悲しみようはいかばかりであろうと考え、逃がしてやろうとします。しかし、背後を見ると梶原勢がすぐそこまで迫っており、ここで見逃したとしてもとても逃げ切れないと悟り、せめて自分の手で討ってやろうと決意し、その首を取りました。
このとき、直実はそのあまりの無惨さに嘆き悲しんだと言います。そして、若者の腰に笛がさしてあるのを見つけ、今朝がた城内で笛を吹いていたのは、この若者であったのかと悟ります。若者の名は敦盛と言い、その笛はその祖父の忠盛が鳥羽院から下げ渡された、「小枝」という名器なのでした。
敦盛を討った後、直実は血なまぐさい武士の生活に嫌気が差し、京都黒谷にあった法然上人の下を訪れ、その門に入ったのでした。写真の松は、直実が自分の鎧をここに掛け、武士の生活とは決別する決意を示したとされる木です。
直実が出家した理由については、鎌倉八幡宮での流鏑馬の的立ての役目を不服として辞退した事が頼朝の勘気に触れ、所領を減らされた事が第一点、さらに久下直光との間で領地を巡る争いが起こり、頼朝の面前で行われた裁判に敗れて面目を失った事が第二点とも言われます。しかし、仮にそうだとしても、その底流には世の無常を感じていたことは確かでしょうね。
熊谷直実は、情けを知る真の武士像として今に知られています。
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