義経 23
義経 第23回 「九郎と義仲」
近江に陣を張る義経。義仲がどう出るかと軍議を開いているところに、くせ者を捕まえたと注進が入ります。その声に応じて義経達が陣幕の外に出てみると、くせ者とはうつぼの事でした。朱雀の翁の手下から義経が近江に来ていると聞き、わざわざ訪ねて来たのです。久しぶりの再会に、口々に歓迎する義経とその郎党達。
うつぼから、平家が都落ちをすると聞いて驚く義経。彼は自ら都に入り、平家の様子や義仲の動向を探る事に決めます。
平家の都落ちにより、大騒ぎとなっている京。そんな中、平家と共に西国に赴くはずの後白河法皇の返事を聞くために、法住寺殿を訪れた宗盛。ところが、法皇は不在という事を聞き、激高した宗盛は女官が止めるのも聞かずに玉座へと向かいますが、そこにも法皇の姿はありません。女官達にも知らせず、密かに御所から居なくなったと聞き、ようやく法皇に裏切られた事に気付く宗盛。
丹後の局と共に、比叡山延暦寺に逃れている後白河法皇。院を西国へ連れて行こうとする平家を、思い上がりが過ぎると非難する丹後の局。 同じ山内には、義仲の軍勢も陣を敷いていたのでした。自らは逃れたものの、安徳天皇と三種の神器が平家の下にある事を懸念する法皇達。
法皇が姿を消したことを、安徳天皇と建礼門院に報告する宗盛と知盛。宗盛は法皇に裏切られた衝撃で、声も途切れがちです。建礼門院は、天皇と三種の神器を守る様にと仰せになり、宗盛に代わって知盛が女院も共にお守りすると力強く答えます。その横で、涙を流す宗盛。
能子を連れて時子の下を訪れた領子。時子は能子に、その兄義経を頼って都に止まる事も出来るがと尋ねますが、能子は自分は平家の娘であり、どこまでも平家に従って行くと答えます。
安徳帝と三種の神器と共に、都を落ちていく平家一門の列。群衆に紛れて、それを見送る義経。
義経が都の情勢を探っていた郎党達から、次々と報告を受けています。法皇が木曽勢と共に比叡山に居ると聞き、頼朝との関係がこじれるのではないかと懸念する義経。そして、平家は一旦は福原に集結している様子でした。
そこへ、うつぼと共に現れたお徳。懐旧のあいさつもそこそこに、七条の家に誘うお徳ですが、義経は物見に来ているのだからと言ってその誘いを断ります。代わりに、都の様子、特に木曽勢の動向を近江の陣にまで知らせてくれる様に頼みます。それを聞いて、自ら使者になる事を買って出るうつぼ。
義経が物見の為に都に入ったというのは、史実にも原作にもないこのドラマオリジナルの設定です。いくらなんでも、一軍を率いる大将自らが敵陣深く潜入するというのはあり得ない事なのですが、神出鬼没という義経のイメージがあるためか、そう不自然に見えないのも不思議ですね。
ドラマではいきなり比叡山に逃れた法皇ですが、平家物語に依れば一旦は鞍馬寺へ逃れた事になっています。その時供として連れて行ったのは按察使大納言資方卿の子息右馬頭資時ただ一人で、常に側にあった丹後の局すら置いてけぼりにされてしまったのでした。それほど俄な出奔だった訳で、後に残った者は誰も法皇の行方は知らされていませんでした。法皇はその後、鞍馬寺では都に近すぎて危険であるとの寺僧達の勧めによって延暦寺へと移り、初めは横川、次いで東塔の南谷圓融房御所に入ったのでした。
次に、ひたすら都を落ちていった平家の一門でしたが、平家物語には様々なドラマが描かれています。
まず、ドラマではなぜか描かれなかったのですが、都落ちに際しては、六波羅及び西八条にあった平家の館群に火を掛けて、ことごとくこれらを焼き払っています。これを画面に出さなかったのは、後で出てくる福原の炎上を印象づけたかったからなのでしょうか。
そして、一行が鳥羽のあたりまで来た時、清盛の弟である平頼盛が、「忘れたる事あり。」と言って都の方へと引き返してしまいます。これを見た越中次郎兵衛が矢を射かけようとするのですが、宗盛は相手にするなと言って、これを止めました。頼盛は、その母池禅尼に命を助けられた事を恩に着た頼朝から帰参の誘いが来ており、それを頼りに都に止まる事にしたのでした。宗盛は、元々頼盛は一門の中で孤立した存在であり、そして頼朝との縁がある事から、必ず裏切るであろうと予測していたようですね。
このとき、維盛を初めとする小松一門もまた、姿を現してはいませんでした。これを知った知盛は、わずか一日で人の心は変わってしまうものかと涙を流したと言います。実は、小松一門が離反するのではないかという噂は以前から流れており、宗盛も知盛も不安を感じていたものと思われます。維盛達は、父重盛亡き後、嫡流の自分たちに代わって一門の総帥の地位に就いた宗盛とは折り合いが悪く、また平家の中では後白河法皇寄りの立場を取っていたことから、都落ちには同道しないかも知れないと見られていたようです。事実、維盛の弟資盛は、その家臣である貞能を伴って叡山にいた後白河法皇の下を訪れ保護を求めたのですが、取り次ぐ者が居なかったためにやむなく平家一門と合流しています。
また維盛は、都落ちに際しては、ほとんどの人々が妻子を伴ったの対し、その妻と息子の六代及び娘を都に置いていく事にします。西国に落ちて行くのはあまりに危険が多いためという理由でしたが、妻と子は別れを悲しみ、維盛にすがって離れようとしないのでした。その説得に時間を取られている内に都落ちが始まり、合流するのが遅れたのだと平家物語にはあります。
以下、明日に続きます。
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