義経 21の2
義経 第21回 「いざ出陣」その2
1183年(寿永2年)4月、信濃依田城。信濃、越中、越後を制した義仲は、いよいよ京を目指して進軍を開始します。義仲が採った道は、越後から北陸道を通るルートでした。
京、平宗盛邸。義仲軍の動きに対抗すべく、軍議が開かれています。越後に兵を派遣せよと命ずる宗盛ですが、総大将は誰にするのかと問われ、答えに詰まります。知盛は宗盛が自ら軍を率いる事を進言しますが、宗盛は京の守りこそ大事とその意見を退けます。そこで時忠が嫡流の維盛を推薦しますが、宗盛は維盛のこれまでの戦ぶりを上げて難色を示します。しかし、時忠、資盛、知盛の強い勧めを受けて維盛が総大将として名乗りを上げたため宗盛も折れて、通盛、知度らを補佐に付け、10万の軍勢を授けます。
身内とて容赦しない頼朝と、身内でかばい合う平家との鮮やかな対比が描かれたシーンですね。維盛がもし鎌倉方だとしたら、富士川の合戦での大敗よって身分を剥奪されていたでしょうし、ましてや名誉挽回のために総大将を仰せつけられる事などあり得なかった事でしょう。でも、甘い仕置きなのかも知れませんが、鎌倉の張りつめた空気の後に、平家の一門の思いやり溢れる雰囲気に触れると、ほっとした気分になるのは私だけでしょうか。実際には、維盛は富士川の合戦や墨俣川の合戦でしくじった訳ではなく、それぞれ戦略的な理由から戦場を引き上げたと思われるのは以前に書いたとおりです。
鎌倉、大姫邸。義高に竹とんぼの作り方を教える義経。そこに、弁慶がやってきます。弁慶は義仲が京を目指して動き出したという事を伝えに来たのでした。弁慶と義経は、義仲が動いた事で頼朝との関係が緊張し、義高の立場も微妙になってくるのではと気遣います。
越中で対峙する平家方と義仲。維盛率いる平家軍7万は砺波山に布陣し、義仲軍4万はその東に布陣しました。5月11日、平家軍を倶利伽羅山に誘い込んだ義仲は、火牛の計を用いて平家軍を混乱に陥れ、大いにこれを破ったのでした。
大敗を喫した維盛は、わずかな兵と共に山中を彷徨っていました。戦傷と空腹の為に息絶える武者。維盛達は兵糧を得るために、倒れた武者の鎧を外す事にします。
ドラマでは一方的に敗れた維盛軍でしたが、実際には倶利伽羅峠に至るまでは、越前、加賀における義仲方の軍勢を破竹の勢いで破っています。10万の軍勢は、決して虚仮威しではなかったのですね。そして越中に迫った維盛は、万全を期して軍を7万、3万、5千の3手に分けています。このうち、まず越中前司盛俊が率いる5千の兵を先遣隊として越中国般若野に布陣させ、通盛が率いる搦め手3万の軍勢には、能登方面を迂回して越中に侵攻する様に命じます。そして、維盛が率いる本隊7万の軍勢は倶利伽羅峠を越えて、正面から越中に進撃する構えを取りました。これに対して義仲は、今井兼平に6千の軍勢を与えて越中に急行させ、自らは5万の兵を率いてこれに続きました。5月9日、般若野で先遣隊同士が激突します。戦いは朝から夕刻まで続いたのですが、激戦の末今井軍が勝利を収め、平家方は倶利伽羅峠を越えて加賀へと撤退します。維盛は敗走してきた軍勢を吸収し、再び越中を目指して進軍を開始しました。兵力に劣る義仲は倶利伽羅峠でこれを迎え撃つ事を決意し、一計を案じます。彼は兵を二手に分け、樋口兼光に3千の兵を与えて峠を迂回させ、山頂に陣取る平家軍の背後へと送り込みます。そして夜陰に乗じて、突如として鬨の声を上げさせました。来るはずのない方向から上がった声に驚いた平家方は大混乱に陥り、間髪を入れずに義仲率いる本隊が峠を目指して攻め上ります。寝込みを襲われた平家軍はもはや戦うどころではなく、暗闇の中を逃げまどううちに、次々と谷底へと墜落していったのでした。翌朝義仲が谷底を見ると、「火焔にわかに燃え上がる」状態だったと言います。谷に落ちたおびただしい数の平家の赤旗が目に入ったのでしょうか。
ドラマで義仲が使った火牛の計は、「源平盛衰記」に出てくる有名な戦法ですが、これは事実ではなく、おそらくは中国の「史記」にある斉の将軍田単の逸話を引用したものだろうと考えられています。牛の角に松明を付けたとしたら、牛は怯えて暴れるばかりで、走り出したりはしないという説もありますね。しかし、寡兵で大軍を破ったとされる義仲の戦いぶりを飾るのには、ふさわしい逸話だと思われます。
倶利伽羅峠で大敗を喫した平家軍でしたが、全滅した訳ではありませんでした。維盛は軍勢を立て直し、加賀国篠原で義仲軍を迎え撃ちます。6月1日に激突した両軍でしたが、勝ちに乗る義仲軍の勢いは止まらず、力戦はしたものの再び維盛の軍は打ち破られてしまったのでした。
この後、都に帰り着いた平家の軍勢は3万に過ぎず、北陸路において7万もの兵力を失ってしまった事になります。義仲追討軍に投入可能な全兵力をつぎ込んでいた平家には予備兵力もなく、もはや義仲の軍勢を迎え撃つ術を無くしてしまったのでした。
以下、明日に続きます。
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