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2005.06.16

義経 23の3

義経 第23回 「九郎と義仲」その3

法住寺殿御所。安徳帝の廃位を決めた後白河法皇。

義仲の宿所。新帝には、北陸宮を推すと意気込む義仲。

法住寺殿御所。法皇の前に集まった、藤原基房ら公卿の面々。皇位継承に口を挟んできた義仲を非難する基房と、それに同意する法皇。力を増す武門に脅威を感じた法皇は、武門同士でつぶし合いをさせる事を画策します。

8月20日、安徳帝の弟である尊成親王が即位し、後鳥羽天皇となりました。これにより、三種の神器を奉じて正統性を主張する安徳帝と、2人の天皇が並立する事となります。

近江、義経の陣。三郎が皇位継承の経過を報告しています。そして、北陸宮を推しながらそれを法皇にないがしろにされた義仲が、兵を引くと言って法皇に威しを掛けたと聞き、憂慮する義経。

激怒する義仲をなだめるべく、従五位下左馬頭兼越後守に任じた法皇ですが、越後はすでに自分の領地であると不満を露わにする義仲を目にして、改めて彼を伊予守に任じます。

法皇を意のままに操ったと有頂天になっている義仲。巴御前と共に踊り狂う義仲を見て共にはしゃぐ家臣達ですが、中には苦々しく思う者も居るようです。


安徳帝の皇位継承者の候補としては、故高倉上皇の子が3人いました。そのうちの一人は二宮である守貞親王でしたが、これは乳母であり、かつ知盛の妻である明子に連れられて、平家一門と共にありました。当時都に居たのは、三宮の惟明親王と四宮である尊成親王の2人で、法皇はこのどちらかに安徳帝の後を継がせようと考えます。法皇はまず5歳になった三宮を御所に呼び、「これへ、これへ。」と声をかけたのですが、宮はむずかって法皇に近づこうとはしませんでした。次いで4歳の四宮を呼び、同じように声を掛けたところ、四宮は怯える事無く法皇に近づいて、その膝の上に座わりました。法皇は宮をいたく可愛く思い、この子こそ実の孫であるとして、後継者に決めたのでした。

義仲が左馬頭兼越後守に任じられたのは8月10日の事で、合わせて朝日将軍という院宣も下されています。また、このとき行家も備後守に任ぜられました。左馬頭はかつて義朝が任じられていた官職であり、自分が源氏の棟梁として認められたようなものだと義仲も喜んだ様です。その一方で、越後も備後も共に下国であった事から義仲と行家の2人は不満を漏らし、それを知った法皇は改めて2人を伊予守と備前守にそれぞれ任じ換えました。最初の除目からわずか6日後の事で、朝廷の慌てぶりが伺える出来事です。そして、このとき同時に平家一門の官職が解かれており、彼らは賊軍の扱いを受ける事となったのでした。


鎌倉、大倉御所。頼朝の下に、法皇から上洛を促す書状が届いています。法皇は義仲を牽制するために頼朝を呼び寄せたかった様ですが、頼朝はその手には乗りませんでした。今は訳があって鎌倉を離れられないが、それが片づき次第上洛すると巧みに言い訳を作り、誘いを断ってしまいます。

京。庶民に対して乱暴狼藉を働く義仲の兵士達。食べ物を奪うばかりでなく、住んでいる家までも奪い取る始末です。その様子を見て、思わず飛び出そうとする義経ですが、弁慶に引き留められて自重します。しかしこの行状を見捨てて置けぬ義経は、従兄弟として義仲と会う決意をします。

密かに義仲の宿所を訪れた義経。越後で会った事を明かした義経に、義仲も親しみの情を見せます。しかし、義経が頼朝の下に居ると聞くと、義仲の表情は一変します。太刀を抜き、自分を討ちに来たのかと問いかける義仲に、ただの従兄弟として会いに来たと応える義経。その真摯な様子に太刀を納め、来意を聞く義仲。義経は木曽勢の乱暴狼藉を止める様に義仲に求めますが、義仲は困った様子で煮え切りません。義経はさらに、頼朝と手を携えよと勧めますが、義仲は京にあって法皇の信任を受けているのは自分であり、頼朝が自分の下に来れば良いと答えます。なおも、身内の情を訴える義経ですが、親をだまし討ちにされた義仲には通用しません。そこで義経は、自分が守り役を務めていた義高の言葉を伝え、義高の為にも頼朝と手を携えよと詰め寄りますが、源氏の棟梁となる事を目指す義仲は、何があっても頼朝と妥協する事は出来ないと義経を突き放します。傷心を抱いて帰る義経に向かって、義仲は義高に「すまぬ」と伝えてくれと伝言を頼みます。それを聞き、無言でうなずく義経。


木曽勢が乱暴狼藉を働いた事は、平家物語に描かれています。その様子はほぼドラマにあったとおりで、平家はただ恐ろしかっただけだが、他人の衣装を剥ぐような事まではしなかったと人々が嘆いたとあります。この狼藉を義仲が止められなかったのは、一つには木曽勢が寄せ集めの軍勢であり、義仲の威令が届く範囲は限られていたという事がありました。義仲の軍勢の大半は名も知らぬ雑軍であり、その素性は盗賊と変わらない者も多く居たようです。もう一つは、都付近は数年来の飢饉が続いており、軍勢を養うためには、兵達による収奪を黙認せざるを得ないという事情があった様です。

実は、この時代の軍勢というものは、その先々で徴発を行いながら進軍をするのが普通の事であり、この点は平家も鎌倉軍も木曽勢と大差はなかった様です。その中で木曽勢だけがことさらに悪し様に言われるのは、それを行ったのが都での事であり、またあまりに容赦がなさ過ぎたために、人々の記憶の中に特に悪い印象を残したのでしょう。そして、やがて木曽勢が敗亡の道を歩んだ事も関係しているのでしょうね。勝者が語る歴史の中では、敗者は常に貶められるという法則が、ここでも生きている様にも思えます。

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