義経 24
義経 第24回 「動乱の都」
義仲との会見を終え、帰途に付く義経。義仲の気持ちを変える事が出来なかったせいか、元気がありません。物思いに耽っていた義経ですが、ふと背後を付ける人物の気配に気付きます。その人物とは、巴御前でした。
出迎えに来た弁慶と落ち合った義経。そのとき、背後から数人の武者が現れます。問答無用で斬りかかってくる武者達を、得意の長刀で押し返す弁慶。武者達の背後から現れ、鎌倉の手先を討ち取れと命ずる巴。襲いかかる武者達をあしらいながら、殺してはいけないと弁慶に命ずる義経。そこへ現れた騎馬武者姿の義仲。彼は武者達に引けと命じ、馬から下りると巴の横面を殴り飛ばします。そして、義経は義高の守り役で、伝言を頼んだ相手だと巴に諭します。それに納得しかねつつも、黙って引き上げる巴。義仲は詫びる様に、無言で義経に頭を下げて去っていきます。
ますます狼藉を重ねる義仲の軍勢。それを憂う後白河法皇は、義仲と亀裂の生じてきた行家を使う事を考えます。
寿永2年10月、勢いを盛り返して来た平家追討のために西国に向かう義仲。西国を平らげた暁には、朝廷をも飲み込んでくれると意気盛んです。
西国の陣で、後白河法皇から三種の神器を返す様に催促する書状を読む宗盛。神器が無い事で新帝の正式な即位が出来ず、焦っている法皇の胸の内を喝破してみせる知盛。珍しく、決然と法皇の要求をはねつける宗盛。
安徳帝に、神器が手元にある以上、正統性は自分たちにあると奏上する知盛と重衡。
近江の陣。平家の巻き返しとそれを迎え撃つべく出陣した義仲、なぜか都に残っている行家という情勢について報告を受けている義経。そこに、鎌倉に向かうという平頼盛が現れたという知らせが入ります。
別室で頼盛と対面する義経。一門の中で、頼朝の命を救った池禅尼の息子として疎外され、ついに頼朝の庇護を求める気になったと話す頼盛。彼は、法皇が義仲を見限り、頼朝の下へ密書を下したらしいと義経に告げます。
義経の陣所に現れた手古奈。彼女は西国に落ちる二位尼から暇を出され、頼盛の侍女として仕えていたのでした。鎌倉に戻る事を心配する義経の郎党達ですが、当人は、鎌倉では自分の事など皆忘れているはずと屈託がありません。
頼朝への書状を書きかけて、筆を止める義経。義仲の行状を知らせる事にためらいを覚えたのでした。しかし、弁慶から義仲の動向を知らせない事はお役目怠慢にあたると諭され、ようやく決意を固めます。
備中で平家方の武将を破り、意気上がる義仲。さらに一気に屋島を襲おうとしますが、法皇が頼朝に東国のみならず北国の支配を任せるらしい、また行家が法皇に接近しているらしいとの知らせを受け、急ぎ都へと引き返します。
都で法皇に謁見している行家。法皇は義仲の非を鳴らし、行家に対して平家追討を命じます。
院宣を受け、播磨で平家軍を迎え撃った行家。彼は知盛と重衡が率いる軍と戦いますが、あっという間に打ち破られ、和泉の国へと逃亡してしまいます。
都に戻った義仲。法皇の振るまいに激怒した義仲は法住寺殿御所に押しかけ、法皇に詰問しようとしますが、法皇は身を隠して会おうとはしません。
ドラマでは、順調に勢力を回復した様に見える平家ですが、実際にはそう簡単な情勢ではありませんでした。平家は都を落ちた後、九州の太宰府を本拠として勢力を回復する予定でいました。しかし、途中で平家に敵対する勢力に阻まれ、都を落ちてから一ヶ月以上も経った8月末頃に至ってようやく太宰府に入る事が出来ています。しかし、そこも安住の地ではありませんでした。平家に従っていたはずの九州の武士達が次々に離反し、さらにはかつての家人であった緒方氏が太宰府を襲撃するに及んで、遂に九州の地を追われてしまう事になります。このとき緒方氏が裏切りを鳴らす平家に向かって言った台詞が、「昨日は昨日、今日は今日。」という有名なもので、平家の凋落を象徴する言葉として知られます。そんな落ち目の平家を救ったのが瀬戸内沿岸の諸勢力で、忠盛、清盛と代々この地に勢力を扶植してきた効果が、ここに来て救いとなって現れたのでした。彼らの援助により、瀬戸内から四国にかけてをその勢力下に置く事に成功した平家は、ようやく東に向かうだけの力を得たのでした。
その平家を討ちべく西国に向かった義仲ですが、ドラマのように連戦連勝だった訳ではなく、備中水島の戦いで平家軍に敗れています。この戦いは平家が得意とし、義仲には経験のなかった船戦さであり、義仲の有力な武将であった海野彌平四郎が討ち取られるなど大敗を喫しています。この戦に敗れた義仲でしたが、なおも屋島へ渡ろうと試みています。しかし、都で行家が法皇に取り入って居るという報に接して都へ帰る事を決意したのでした。そして義仲帰るの報に接した都では、周章狼狽の極みに達したと言われます。
義仲と入れ替わる様に平家追討に出た行家は、播磨国室山にて平家軍と衝突します。このとき、平家軍を率いていたのは知盛と重衡で、その数は2万騎に達していました。対する行家はわずかに500騎だったのですが、彼は委細構わずに戦いを挑みます。平家軍は突進してくる行家軍を陣中深く誘い込み、これを包囲殲滅しようと試みます。必死で抵抗した行家でしたが衆寡敵せず、味方はわずか30騎程にまで討ち減らされてしまいました。しかし、彼自身は無傷のまま脱出に成功し、播磨国高砂より船に乗り、和泉国吹飯の浦にたどり着いたとされます。行家はその後さらに河内国に入り、長野城に依ったのでした。
以下、明日に続きます。
| 固定リンク
「義経・平清盛」カテゴリの記事
- 平清盛 第50回 「遊びをせんとや生まれけむ」(2012.12.23)
- 平清盛 第49回 「双六が終わるとき」(2012.12.16)
- 平清盛 第48回 「幻の都」(2012.12.09)
- 平清盛 第47回 「宿命の敗北」(2012.12.02)
- 平清盛 第46回 「頼朝挙兵」(2012.11.25)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント