宇治川の戦い@義経
義経の初陣であり、その不敗伝説の始まりとなった宇治川の戦い。その割には、ドラマの中ではあっさりと描かれていたのですが、平家物語においては、全編の中でも白眉とされる有名な場面が繰り広げらています。それが佐々木高綱と梶原景季による先陣争いです。
ドラマでは浅くて狭い川に過ぎませんでしたが、実際の宇治川は大河であり、当時は日本有数の急流として知られていました。左の写真は、現在の宇治橋の様子ですが、今でも水量は豊富であり、かなりの急流である事が伺えます。
義経を迎え撃つ義仲軍は、まず橋板を外して渡れない様にした上で、馬に依る渡河を防ぐ為にこの流れの中に乱杭を打ち、大綱を張り、そこに逆茂木を繋いで流していました。平家物語に依ると、この戦いのあった日は治承3年1月20日とあり、今の2月末頃にあたるのでしょうか。宇治川は上流にある琵琶湖畔の比良山の雪解け水で増水しており、白波が逆巻く様な凄まじい流れとなっていました。義経はこの流れを見て、わざと弱気を装って「淀の一口(いもあらい)へ回わり、水の勢いが落ちるのを待つべきではないか。」と家臣に問いかけます。すると義経の思惑通り若い畠山重忠が進み出て来て、「この流れは待っても収まる事は無い。自分が瀬踏みをして見せよう。」と言って、手勢の500騎と共に川の中に入ろうとします。そのとき、重忠よりも早く、橘の小島が崎より2騎の武者が川の中へ飛び出して行きました。佐々木高綱と梶原景季の2人で、高綱が「生ずき」、景季が「する墨」というそれぞれ頼朝から与えられた名馬に乗っていたとされます。最初、前を行っていたのは景季の方でした。しかし、後ろから高綱が景季に「馬の腹帯が緩んでいるぞ。」と声を掛け、それを聞いた景季が帯を締め直している隙に高綱が先を越し、遂に先陣争いを制してしまいます。この2人に引きずられる様に義経の軍勢は次々に渡河を初め、数で劣る義仲軍を圧倒してしまったのでした。
上の写真は宇治川の中の島にある「宇治川先陣之碑」。高綱と景季の先陣争いにちなんで1931年に建てられた石碑です。中の島は橘島と塔の島の二つのからなる島ですが、平家物語にある「橘の小島が崎」はここから少し下流寄りにあった中州で、今はその姿は消えてしまっているとの事です。
高綱は「生ずき」を頼朝から賜った時に、宇治川の先陣を取って見せると大見栄を切っており、何が何でも先陣を果たさなければ面目が立たないと考えていたのでしょうね。それがちょっとずるいとも言える声掛けに繋がったのでしょう。ドラマでは何故このエビソードを出さなかったのかは判りませんが、あくまで義経とその郎党達を活躍させたいという意図があるのかも知れませんね。それにしても、もう少し迫力のあるシーンにして欲しかったなあ...。
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コメント
こんばんは(^^) そそ、この景色(^^)
ついこの間(といっても、1ヶ月ほど前)
行ったので見覚えがあります♪
この間の「義経」観てるときも・・
「あっ、宇治川!!」って思わず
叫んじゃったです(笑) 橋の真ん中
あたりの出っ張ってるところで写真
撮りましたァ(笑)
投稿: そら | 2005.07.01 22:10
そらさん、コメントありがとうございます。
ドラマの宇治川は、ちょっと小さかったでしょう?
今は上流にダムが出来て流れを調節していますが、
かつては今以上の急流だったのでしょうね。
橋の出っ張りは、茶まつりの時に茶の湯の為の水を汲む場所です。
秀吉に由来する行事なのだそうですが、当時ならともかく、
今はこの川の水そのままでは、お茶用には使えないでしょうね。
投稿: なおくん | 2005.07.01 23:15