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2005.06.23

義経 24の2

義経 第24回 「動乱の都」その2

摂津国一ノ谷に陣を敷いた平家一門。室山で行家を破った事で意気が上がっています。時子は福原に本拠を置いて京を窺うのが上策と言い出しますが、福原に良い印象を持っていない宗盛は気が進まない様子です。しかし、かつての栄華をしのぶ時子とそれに同調する知盛を見て、宗盛は複雑な表情を隠せません。

近江、義経の陣。郎党達の情報を聞きながら情勢の分析をする義経ですが、義仲が孤立無援に陥りながら、なおも都での狼藉を止めないと知り、再び義仲と会って話をしようとします。しかし、今度都に入れば無事に済むとは思われず、郎党達は義経を守るべく行動を共にすると言い張ります。彼らを連れて行けば戦になる事は必定であり、義経はやむを得ず都行きをあきらめます。

義経の宿所を訪れている鼓判官知康。法皇の使いとして来ている知康の前で、義仲は酒を飲み、無礼の限りを尽くします。軍勢の狼藉を止めよという法皇の言葉に、行家、あるいは頼朝を頼られよと皮肉をもって答える義仲。ついには、高坏を肩にかついで鼓とみなし、鼓判官と呼ばれる知康を侮辱する様に、鼓を打つ真似をして見せます。

後白河法皇に、義仲の答えを伝える知康。そのあまりの愚かぶりに、法皇も義仲追討を決意します。しかし、義仲を討てる武力を持つ頼朝は、理由を構えて鎌倉から動きそうにはありません。そこで法皇は、義仲追討の院宣を頼朝に下すと同時に、叡山の僧兵や、無頼の徒を御所に集めて、義仲の襲撃に備える事にします。

鎌倉、大倉御所。都の情勢を語り合う頼朝、時政、政子の三人。頼朝は、遠からぬうちに法皇は自分を頼ってくるだろうと見通しを付けます。

義仲の宿所。追いつめられた義仲は、法皇の変幻自在な変わり身を呪い、ついには平家との和睦すら口にします。そのとき、法皇が戦支度を始めているとの報が入りました。法皇が自分を討つ意思を固めたと悟った義仲は、法住寺殿御所を襲う事を決意します。

法住寺殿御所。攻め入った義仲の軍勢に僧兵達が立ち向かっていますが、義仲軍は強く蹴散らされてしまいます。そして勢いに乗った義仲は御所に火を掛け、法皇をあぶり出す作戦に出ます。煙にいぶり出される様に義仲の前に引き出された法皇は、義仲に命乞いをします。義仲は法皇の命を救う代わりに法皇を監視下に置き、いざとなれば北国に連れて行くと宣言し、五条内裏に法皇を幽閉したのでした。

義仲はさらに、天台座主明雲を初めとする人々の首を刎ね、六条河原に晒すという暴挙に出ます。そして、法皇の近臣49人の官位を解き、基房の娘を娶り、法皇に迫って朝日将軍と名乗ります。これらの所業を見るに及んで、義経も遂に義仲を見捨て、討伐する事を決意します。

やがて、範頼を大将とする10万の軍勢が関東から近江に到着しました。頼朝の言葉として、逆賊となった義仲を討てと命ずる範頼と、それに答える義経。一手の大将を引き受けた義経が、いよいよ歴史の表舞台に躍り出る時が近づきます。

義仲が公家流の礼儀をわきまえなかったという逸話は、平家物語の「猫間」という挿話に描かれています。猫間とは中納言藤原光高卿の事で、七条坊の猫間に住んでいた事から猫間中納言と呼ばれていました。この光高卿が用事があって義仲の下を訪れたのですが、義仲は京では猫が人に会うのかと驚き、それが通称であると知っても光高を猫殿と呼び続けます。そして、丁度食事時であったことから光高に食事を勧め、合子に飯をうず高く盛り上げて差し出しました。さらに、京では塩干しをしていない魚の事を無塩と言うのですが、義仲はそれを新鮮な食べ物全てに使う言葉だと誤解して、生のヒラタケを無塩のヒラタケだと言って汁に入れて光高に勧めます。光高は合子のあまりの汚さに辟易して手を付けかねていたのですが、義仲からそれは自分の精進合子であると聞かされ、やむなく箸を付けました。しかし、いやいやだったのでほとんど口には入らず、飯が口元からこぼれてしまいます。それを見ていた義仲は、やれ猫こぼしをなさる、ちゃんと掻き込みなされと光高を責めました。遂には光高は肝心の用事も忘れ、這々の体で逃げ帰ったとあります。

知康が義仲の下に法皇の使者として訪れた事は、平家物語に書かれています。このとき知康は兵士の狼藉を鎮める様にという法皇の言葉を伝えたのですが、義仲はそれには答えず、鼓判官と呼ばれるのは、沢山の人に張られたからか、それとも打たれたからかと問い返しました。知康は何も答えずに法皇の下に立ち帰り、義仲は朝敵となった、直ぐに討たれよと法皇に告げます。これを聞いた法皇は、天台座主明雲の助けを借りて、叡山、三井寺の僧兵を御所に呼び寄せ、さらに都中の無頼の徒を集めて義仲に備えました。

義仲が法皇の信頼を失った事を知った畿内の武士達は、こぞって義仲の下を去り、御所方へと付いてしまいました。この情勢を見ていた今井兼平は、十善帝王に戦を仕掛ける事は出来ないとして、義仲に降伏を勧めます。しかし常勝を誇って来た義仲は降伏などもってのほかである、これは知康が仕掛けた陰謀に違いないとして、御所に攻め掛かります。このとき義仲軍は脱落が相次いでおり、わずかに6、7千騎が残っているに過ぎませんでした。対する御所には2万人が詰めていたと言います。

御所の軍勢を指揮していたのは鼓判官知康でした。彼は赤地の錦の直垂に、鎧は付けずに甲だけを被るという出で立ちで、その甲には四天が書かれていたとあります。知康はその姿で御所の西の築垣の上に登り、片手には鉾を持ち、片手には金剛鈴を持って打ち振り、時々は舞さえも踊りました。そのあまりの異様さに、若い公卿殿上人に「風情なし。知康には天狗ついたり。」と笑われる始末でしたが、知康は大音声を上げて、「昔は宣旨を下せば、枯た草木も花が咲いて実が生り、悪鬼悪神も従った。末代だからといって、十善の帝王に向い參せて、弓を引いて良いものか。汝等が放つ矢は、返ってその身にあたるだろう。挑む太刀は、その身を切るだろう。」と木曽勢を罵ります。

木曽勢は鬨の声を上げてこれに答え、鏑矢に火を点けて御所内に射込みました。折からの強風に煽られて、火はたちどころに広がり、総大将であるはずの知康は真っ先に逃げてしまいます。これを見た寄せ集めの官軍は俄に崩れたち、われ先に逃げ初めてしまいました。義仲は労せずして御所内に攻め込み、わずかに抵抗する僧兵達を蹴散らしつつ法皇を捜し求め、遂に捕捉に成功したのでした。

義仲が解官した人数は49名で、平家が解官した43人を6人上回っています。これをもって、義仲の悪行は平家を上回ったと平家物語には書かれていますが、わずか6人の差をもって平家以上というのもどうかという気がしますけどね。

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