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2005.06.02

義経 21の3

義経 第21回 「いざ出陣」その3

越前の国府にまで陣を進めた義仲ですが、あまりに上手く行きすぎた事にかえって不安を感じています。その義仲に、行家は都で孤立しない為にと叡山と結ぶ事を薦めます。

ドラマでは描かれていませんが、義仲は闇雲に都へ向かって攻め上った訳ではなく、ちゃんとした大儀名分を用意していました。それが北陸宮という存在です。北陸宮は平家追討の令旨を下した以仁王の息子で、「木曽宮」、「加賀宮」などとも呼ばれますが、その本名は伝わっていません。以仁王が14歳の時の子で、母は八条院の女房とされます。父の元服前の子であり、また母の身分も低かったため、冷遇されて育ったようですね。そして、父が戦死した後は罪を得て出家させられましたが、後に寺から脱走し、平家の目を逃れて義仲の下に現れます。義仲は自分を頼ってきたこの宮を奉じる事によって、北陸道の武士達の指示を得る事が出来たのです。一説によれば、この宮の動きの背後には、祖父である後白河院の意思が働いていたとも言います。

また、義仲と叡山の仲立ちをしたのは行家ではなく、義仲の祐筆を務めていた大夫房覚明という人物でした。覚明は元は蔵人道広という下級貴族で、叡山で出家した後に興福寺へ移っています。そして、平清盛を罵倒する文書を作成した事から平家の恨みを買い、奈良を脱出して義仲の下へと走ったとされます。覚明は義仲の祐筆という以上に、義仲を政治面から支える唯一の参謀というべき存在でした。


鎌倉、大倉御所。頼朝を中心に、義仲の動きに対する対応策が検討されています。義仲に都を先に押さえられてしまうと、うかつに軍を動かせば賊軍とされる恐れがあると憂慮する頼朝。そこで景時は、後白河法皇に貢ぎ物をする事を進言します。その貢ぎ物の護衛としてなら、都に向かって軍を進める名目が立つという策でした。そして、それに先だって、偵察の為の小部隊を送ってはどうかと付け加えます。

先遣隊として範頼を派遣しようとした頼朝でしたが、政子は義経を向かわせよと進言します。政子は、奥州の秀衡と義経が気脈を通じているかも知れないという疑いを持っていたからでした。政子の言葉に従い、頼朝は義経に都へ向かう様に命じます。

500騎を率いて都へ向かう事を命じられ、喜び勇む義経。その任務はあくまで義仲に対する牽制と偵察で、範頼が率いる大軍が到着するまで都付近で止まるように指示を受けます。

義経から出陣を知らされ、感激のあまり泣き出す弁慶。躍り上がって喜ぶ次郎、三郎、喜三太。祝辞を述べる佐藤兄弟。

出陣にあたり、千鳥に別れを告げる弁慶。帰れるかどうか判らないと言う弁慶に、いつまでも待つと答える千鳥。

大姫と義高に、出陣のあいさつをする義経。義経は、義高から父に会ったら自分は元気にしていると伝えて欲しいと告げられ、複雑な思いで引き受けます。後から現れ、大姫達に別れのあいさつをする弁慶達。寂しそうな大姫に、再会を約して義経達は邸を辞します。

頼朝の御前で出陣の儀式を行う義経と景季。頼朝は義経を近くに呼び寄せ、万が一の時には、義仲に情は無用であると告げます。

鎌倉の人々が見送る中、都を目指して出陣する義経一行。その中に弁慶を見送りに来た千鳥の姿がありました。


義経の出陣は、ドラマでは寿永2年の夏とされていましたが、実際にはそれよりもう少し後の事で、この年の10月になってからでした。これに先立ち、頼朝は法皇から東国の公領、荘園に対する管理権を授与されています(10月宣旨)。この「10月宣旨」とは、義仲の横暴に耐えかねた法皇が、義仲追討と引き替えに頼朝に与えた権利で、荘園や公領からの租税の取り立てや京への輸送を円滑にするために管理を委任するというものでした。頼朝は、この管理権に基づいて関東の米を京に送る為と称し、その護衛として義経が率いる軍勢を派遣したのです。
この「10月宣旨」は、法皇としては租税の取り立てを委任しただけのつもりでしたが、結果として頼朝の東国の支配権を認めた事になり、やがて鎌倉幕府を開くための足掛かりとなっていく事になります。

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