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2005.06.15

義経 23の2

義経 第23回 「九郎と義仲」その2

1183年(壽永2年)7月28日、叡山より京に入った義仲とその軍勢。頼朝に先んじたと得意の絶頂にある義仲と巴御前。

法住寺殿御所で、後白河法皇に謁見する義仲と行家。場慣れしない義仲は、なにやらそわそわしています。義仲は御簾内に現れた法皇に向かって名乗りを上げようとしますが、直答はならぬと行家にたしなめられてしまいます。そして、取り次ぎの平知康が、蔵人の官位を持つ行家を先に、無位無官の義仲を後にして法皇に紹介するのを聞き、義仲はむっとした様子です。2人は法皇から平家に代わって都を頼むと言われ、競う様に大声を張り上げてこれに答えます。さらに、行家が抜け目なく宿所をねだったのを聞き、自分にもと張り合う様に付け加える義仲。その様子を見て、哀れむ様な、あきれた様な様子の知康と、御簾内でほくそ笑む法皇。

陣に帰って、法皇に会ってきたと巴らに得意げに話す義仲。都を任せると言われたのは、源氏の頭領として認められたのと同然と有頂天になっています。その一方で、自分より先に宿所をねだった行家を激しく詰ります。早くも亀裂を生じてきた様子の2人。

法住寺殿御所。2人を謁見し終えた法皇に、丹後の局が2人の印象を聞いています。法皇は2人の粗野な様子に辟易した様子ですが、自分の意のままうごくのならと、とりあえず受け入れる事とします。その一方で、義仲が言うことを聞かなくなった時には、鎌倉の頼朝に討たせようと考えます。

義仲と行家が、法皇の前で主導権を争った事は、「玉葉」に出てきます。宮中では上位の者が先に歩くのが習わしなのですが、2人は先を争う様にして並んで御所に参入したとあり彼らの間には最初から亀裂が生じていたのでした。そして、彼らに与えられた宿所は、義仲が六條西洞院の大膳太夫成忠の屋敷だったのに対し、行家は法住寺殿の南殿と通称されている萱の御所でした。つまり、行家の方が法皇のすぐ近に置かれた訳で、これも義仲にとっては面白い事ではなかった様です。

なお、ドラマでは何も沙汰が無かった事になっていますが、平家物語ではこのとき平家追討を命じられたとあります。


福原。亡き清盛の供養のために、管弦講を催す平家の人々。それぞれの思いを胸に、青崖波を聞く安徳帝を初めとする平家の一門。

福原の海を見ながら涙に暮れる維盛に声を掛ける知盛。維盛は戦に負け続けた自分のせいで平家はかつての栄華を失ったと自らを責めますが、知盛は平家が武門ではなく公家になってしまった事が原因だと断言します。

一門の武将(経正?)が奏でる琵琶の音を聞く時子の目に、清盛の幻が映ります。心の中で清盛に詫びる時子ですが、幻の清盛は時子を責めずに管弦の宴の礼を言い、いつの日か都に帰れる日も来るであろうと答えます。そして、一匹の蛍と化した清盛の魂は、時子の手をすり抜け、虚空へと帰っていきます。

翌日、平家の人々の手によって火を掛けられた福原の都。かつての栄華の跡は、ことごとく灰燼に帰してしまったのでした。

近江の陣で、福原が燃えた事を聞く義経。かつて清盛が築いた夢の都が消え去った事を知り、一人悲しみます。その義経の前に蛍となった清盛の魂が現れ、別れを告げる様に義経の手をすり抜けて、闇の中へと飛び去って行きました。

平家の凋落は、平家が公家化した事により、戦に弱くなった事に依ると一般には言われますが、本当の原因は別にある様です。戦に関して言えば、確かに倶利伽羅峠の戦いや一の谷の合戦といった急所の戦いでは負けてしまいましたが、それ以外ではしばしば源氏の軍勢を破っており、必ずしも脆弱とは言い切れません。負けたのは義仲や義経と言った当代切っての戦上手と戦った時に限られており、むしろ相手が悪かったと言うべきなのでしょうね。

では何が原因かと言えば、平家を支えた武士層の支持を失った事にあると思われます。平家が栄華を迎えることが出来たのは、白川法皇や後白河法皇による引き立てがあった事は確かですが、それを支えたのは武力であり、その淵源は各地に勃興していた武士達にありました。当時の朝廷は直轄の軍事力というものを持っておらず、武力は自衛のために武装した農民である武士達の手にあったのです。各地の武士達は、収奪する事しか考えていない摂関政治の弊害から自らの所領を守る為に、平家や源氏を自分達の統領として立ててこれを頼りとし、所領を保護してもらう代わりに武力を提供して来ました。しかし、源氏を倒して天下を取った平家は、その武士達の利益を守る為の政権を作る事をせず、むしろ武士の天敵とも言うべき摂関家の真似をして朝廷に入り込み、これに取って代わったのでした。そして、自らの一門のみの繁栄を考え、力の根元であった武士達に配慮する事を忘れ、収奪する側に回ってしまったのです。

武士達にすれば笑止千万な振る舞いではありましたが、平家が武力を独占する世にあっては沈黙を守るしかありませんでした。ところが、やがて頼朝が伊豆で挙兵します。頼朝の祖先である義家は、戦の後で配下に下すべき恩賞がもらえなかった時でも、自らの財産を分け与えてその労に報いたという伝説を持つ武将でした。その嫡流たる頼朝に、平家に絶望していた武士達は一縷の望みを掛け、これを支持します。そして、平家の失敗を見ていた頼朝は、武士達の望みに応える形で政権を築き、その支持を確固たるものにする事に成功したのでした。

武士達の支持を得た源氏と、それを失った平家が戦えば勝敗は明らかであり、平家は滅びるべくして滅んだと言えるでしょう。仮に清盛が長く存命していたとしても大勢に変わりなく、さらに宗盛が有能であったとしても、維盛が常勝将軍であったとしても、結局は源氏の世の中が到来していたものと思われます。

以下、明日に続きます。

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