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2005年6月

2005.06.30

朝日将軍木曽義仲塚@義経

yosinakazuka11

朝日将軍と称された稀代の武将木曽義仲の最期は、盟友今井兼平と共にありました。

義経によって宇治の陣が破られた時、京に居た義仲は法皇に暇乞いをする為に六条御所へと向かいました。しかし門前まで来た時に、鎌倉軍が既に六条河原まで迫っている事を知り、これを迎え撃つべく兵を返します。ところが、六条高倉に差し掛かると、義仲はかねて懇意にしていた女房の屋敷に立ち寄り、最後の名残を惜しむあまり、いたずらに時を過ごしてしまいます。この有様を見た越後中太家光という家臣が義仲を諫めますが、なおも動こうとしない義仲に、「先に死出の山で待つ。」と言い残して自害してしまいます。さすがに心を動かされた義仲はようやく立ち上がり、軍勢を率いて六条河原へと討って出ました。

義仲が六条河原で戦っている間に、義経は六条御所へと駆けつけます。その様子を見ていた御所内では、「木曽勢が来た。」と恐れおののいたのですが、義経が名乗りを上げるのを聞いて大いに喜び、門を開けて義経達を迎入れました。法皇が謁見する中、義経以下五人の武将が次々に名乗りを上げ、法皇から御所の警備を命じられたのはドラマにあったとおりです。

義仲は、万一の時が来れば法皇を連れて西国へ逃げ、平家と共に戦うつもりで法皇の輿を担ぐ20人の力自慢を連れていたのですが、既に御所が義経に押さえられたと知るや、わずかな手勢を率いて一万騎に及ぶ鎌倉軍に討ち入り、危うい所を切り抜けて、包囲網を突破してしまいます。義仲は涙を流して、「こんな事になるのだったら、兼平を瀬田にやるのではなかった。別々に死ぬのは残念だ。兼平の消息を聞きたい。」と言って、河原から駆け上がります。さらに、三条まで進む間に、何度も襲いかかってくる鎌倉軍を五、六度までも押し返し、鴨川を渡って粟田口松坂にまで来た時には、主従わずか七騎にまで減っていました。かつて五万騎を率いて入京した事を振り返り、義仲は今の境遇を儚み悲しんだと言います。

この七騎の中に巴も残っていました。義仲は兼平の消息を求めて近江に入り、琵琶湖畔の打出浜にまで至った時、瀬田で範頼軍と戦っていた兼平と再会を果たします。兼平もまた瀬田の防戦をあきらめ、義仲の消息を求めて都へと向かう途中なのでした。喜んだ義仲は、兼平に命じて旗を揚げさせたところ、方々から味方が集まり、300騎ほどになりました。義仲はこの兵を率いて最後の戦をするべく、近くに居た鎌倉方の甲斐の一條次郎の兵六千騎に向かって戦いを挑みます。そして、これを散々に打ち破りますが、味方も50騎にまで減ってしまいました。さらに、次々に現れる敵兵を打ち破っていく内に、ついには五騎になってしまいます。この中になおも巴が残っていたのですが、義仲は「最後に女を連れていたと言われては後世の恥となる。どこへなと落ちていけ。」と巴に命じます。巴は初めは渋って言うことを聞かなかったのですが、義仲から再三に渡って言い含められたため、遂に「最後の戦をお目に掛ける。」と言い捨てて、そこに現れた武蔵野国の住人御田八郎師重の手勢の中へと駆け入りました。巴は師重に並び掛けると、彼を馬から引きずり下ろして自分の鞍の前輪に押つけ、その首をねじ切ってしまいます。そしてその後、巴は具足を脱ぎ捨てて、東国目指して落ちていきました。

義仲主従は、さらに二騎が減って兼平と2人きりになってしまいます。義仲は「何時になく鎧が重い。」と漏らし、それを聞いた兼平は「自分が時間を稼ぐので、粟津の松原に入って自害されたし。」と勧めます。そこに新手の五十騎が現れたので、兼平は共に戦おうとする義仲を、名も無き雑兵に討たれては恥となると言って引き留め、彼の自害の時間を稼ぐ為に敵に向かって行きます。義仲はやむなく松原を目指したのですが、途中で誤って深田にはまってしまい、身動きが取れなくなってしまいました。そして、兼平の様子を気にして振り向いた時に、飛んできた矢に額を射抜かれてしまいます。あまりの深手に馬の背にうつぶせになったところを、敵兵に首を掻かれて果てたのでした。これを知った兼平は、「もはや守るべき人は居なくなった。これぞ自害の見本とせよ。」と叫ぶなり、太刀を口に含み、馬から真っ逆さまに飛び降り、太刀に貫かれて最期を遂げました。


義仲の首は京に運ばれ、都大路を渡された後、六条河原に晒されます。そしてその後、義仲の家来(妻の一人、山吹御前とも)の手によって、洛東の地にある八坂郷に葬られたと伝えられます。写真の石碑はその首塚を示すものとされ、以前は高台寺近くの旅館にあったものです。そして、1997年に旅館の廃業に伴い、八坂の塔で知られる法観寺の境内に移されました。

源平争乱の世を駆け抜けた義仲の霊は、今では塔の東にあたる境内の片隅で、法観寺の御仏達に見守られながら静かに時を過ごしています。

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2005.06.29

義経 25の2

義経 第25回 「義仲最期」その2

後白河法皇の御前で、次々に名乗りを上げる鎌倉軍の武将達。義経は、丹後の局が自分と母常磐の事を知っていた事に驚きと感激を隠せません。そして、法皇は義経に御所の警備を任せます。名誉な役目を仰せつかり、喜び勇む義経とその郎党達。

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宇治川の戦い@義経

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義経の初陣であり、その不敗伝説の始まりとなった宇治川の戦い。その割には、ドラマの中ではあっさりと描かれていたのですが、平家物語においては、全編の中でも白眉とされる有名な場面が繰り広げらています。それが佐々木高綱と梶原景季による先陣争いです。

UJIGAWASENJIN12ドラマでは浅くて狭い川に過ぎませんでしたが、実際の宇治川は大河であり、当時は日本有数の急流として知られていました。左の写真は、現在の宇治橋の様子ですが、今でも水量は豊富であり、かなりの急流である事が伺えます。
義経を迎え撃つ義仲軍は、まず橋板を外して渡れない様にした上で、馬に依る渡河を防ぐ為にこの流れの中に乱杭を打ち、大綱を張り、そこに逆茂木を繋いで流していました。平家物語に依ると、この戦いのあった日は治承3年1月20日とあり、今の2月末頃にあたるのでしょうか。宇治川は上流にある琵琶湖畔の比良山の雪解け水で増水しており、白波が逆巻く様な凄まじい流れとなっていました。義経はこの流れを見て、わざと弱気を装って「淀の一口(いもあらい)へ回わり、水の勢いが落ちるのを待つべきではないか。」と家臣に問いかけます。すると義経の思惑通り若い畠山重忠が進み出て来て、「この流れは待っても収まる事は無い。自分が瀬踏みをして見せよう。」と言って、手勢の500騎と共に川の中に入ろうとします。そのとき、重忠よりも早く、橘の小島が崎より2騎の武者が川の中へ飛び出して行きました。佐々木高綱と梶原景季の2人で、高綱が「生ずき」、景季が「する墨」というそれぞれ頼朝から与えられた名馬に乗っていたとされます。最初、前を行っていたのは景季の方でした。しかし、後ろから高綱が景季に「馬の腹帯が緩んでいるぞ。」と声を掛け、それを聞いた景季が帯を締め直している隙に高綱が先を越し、遂に先陣争いを制してしまいます。この2人に引きずられる様に義経の軍勢は次々に渡河を初め、数で劣る義仲軍を圧倒してしまったのでした。

上の写真は宇治川の中の島にある「宇治川先陣之碑」。高綱と景季の先陣争いにちなんで1931年に建てられた石碑です。中の島は橘島と塔の島の二つのからなる島ですが、平家物語にある「橘の小島が崎」はここから少し下流寄りにあった中州で、今はその姿は消えてしまっているとの事です。

高綱は「生ずき」を頼朝から賜った時に、宇治川の先陣を取って見せると大見栄を切っており、何が何でも先陣を果たさなければ面目が立たないと考えていたのでしょうね。それがちょっとずるいとも言える声掛けに繋がったのでしょう。ドラマでは何故このエビソードを出さなかったのかは判りませんが、あくまで義経とその郎党達を活躍させたいという意図があるのかも知れませんね。それにしても、もう少し迫力のあるシーンにして欲しかったなあ...。

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2005.06.28

義経 25

義経 第25回 「義仲最期」

1184年(寿永3年)正月、近江の鎌倉軍の陣。義仲を討つべく、軍議が開かれています。鎌倉軍10万に対し、義仲軍はわずか5千にまで減っていました。義経の献策に依り、瀬田を渡る軍と宇治川を渡る軍の二手に別れて京を目指す事に決まります。そして、瀬田は範頼が本隊を率いて攻める事とし、宇治川を渡る軍を指揮する大将には、義経が指名されました。

戦に備えて、武具の手入れに余念の無い義経の郎党達は、軍議を終えて現れた義経から搦め手を任されたと聞き、喜び勇みます。自らの手で義仲を討つと決意を固める義経。

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2005.06.27

時は今...@紫陽花BLOG

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本能寺の変で明智光秀が織田信長を倒して天下の主となったのは、1852年(天正10年)6月2日の事でした。そして、そのわずか11日後には、天王山の戦いに敗れて命を落とす事になります。

ここ京都白川のほとりには、その光秀の首塚と伝えられる祠があります。説明書きに依れば、小来栖で討たれた主君の首を持って逃げた家臣が、ここまでたどり着いた時に夜が明けたために、やむを得ずこの地に首を埋めたのだとか。

来年の大河ドラマは、「功名が辻」。その物語にも天王山の戦いは出てきます。ドラマの中で光秀の最後は、どんな風に描かれるのでしょうね。

祠の近くでは、無念に倒れた光秀の魂を慰めるかの様に、赤い紫陽花が綺麗な花を咲かせていました。

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2005.06.23

義経 24の2

義経 第24回 「動乱の都」その2

摂津国一ノ谷に陣を敷いた平家一門。室山で行家を破った事で意気が上がっています。時子は福原に本拠を置いて京を窺うのが上策と言い出しますが、福原に良い印象を持っていない宗盛は気が進まない様子です。しかし、かつての栄華をしのぶ時子とそれに同調する知盛を見て、宗盛は複雑な表情を隠せません。

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2005.06.22

義経 24

義経 第24回 「動乱の都」

義仲との会見を終え、帰途に付く義経。義仲の気持ちを変える事が出来なかったせいか、元気がありません。物思いに耽っていた義経ですが、ふと背後を付ける人物の気配に気付きます。その人物とは、巴御前でした。

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祇園囃子@夏ちゃんぶろぐ

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7月になると、京都の町に溢れる祇園囃子。でも大半は録音されたもので、生の演奏は宵山にならないと聴く事は難しいです。しかし、運が良ければ今でもそれを聞くことが出来る場所があります。その場所とは八坂神社の斎殿。境内の東南隅にある能舞台と繋がった建物です。

丁度今頃、この場所で祇園囃子の稽古が行われる事があり、たまたまその場に居合わせると一足先に祭りの雰囲気に浸る事が出来ます。大抵の場合夜である事が多いですけどね。

一口に祇園囃子と言っても鉾や山ごとに独自のものがあり、さらにその中で巡航の行きや帰りといったシチュエーションに応じて、何十通りもの曲があります。ですからちょっと聞いただけでは、どの鉾のどういう時のお囃子なのかは全く区別が付きません。全部把握している人って、居るのかしらん?

お囃子の編成はごく単純で、「コンコンチキチン」と最も良く聞こえてくる鉦、主旋律を奏でる笛、そしてあまり聞こえて来ないのですが、リズムを刻む太鼓の3つで成り立っています。では、この中で一番重要なパートはどこかというと、実は一番目立たない太鼓なんですね。一度お囃子が八坂神社で奉納されているところをじっくりと聴く機会があったのですが、全体をリードしているのは笛でも鉦でもなく、太鼓のリズムでした。微妙な間の取り方やテンポの変化によって、鉦や笛の調子を巧みに操っているのですね。そして場合によっては太鼓の方が、目顔で各パートの入るタイミングを指示しているのが判りました。おそらくは全体で最も技量に優れたベテランが、太鼓役を任されているのでしょうね。祇園囃子は一見単純な様に見えますが、実は結構奥深い世界の様です。

上の紫陽花は、斎殿の前で咲いていたもの。上品な紫色がいかにも京都らしい風情を感じさせてくれます。この紫陽花が終わる頃、祭りは最高潮を迎えます。


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2005.06.16

義経 23の3

義経 第23回 「九郎と義仲」その3

法住寺殿御所。安徳帝の廃位を決めた後白河法皇。

義仲の宿所。新帝には、北陸宮を推すと意気込む義仲。

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2005.06.15

義経 23の2

義経 第23回 「九郎と義仲」その2

1183年(壽永2年)7月28日、叡山より京に入った義仲とその軍勢。頼朝に先んじたと得意の絶頂にある義仲と巴御前。

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2005.06.14

義経 23

義経 第23回 「九郎と義仲」

近江に陣を張る義経。義仲がどう出るかと軍議を開いているところに、くせ者を捕まえたと注進が入ります。その声に応じて義経達が陣幕の外に出てみると、くせ者とはうつぼの事でした。朱雀の翁の手下から義経が近江に来ていると聞き、わざわざ訪ねて来たのです。久しぶりの再会に、口々に歓迎する義経とその郎党達。

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2005.06.12

2005 壬生詣

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一年ぶりに訪れた壬生界隈は、昨年の熱狂ぶりと比べると、とても静かになっていました。一時は時間待ちが常識だった八木邸も、この日(6月11日)は閑散とした様子。受付の人が手持ちぶさたに座っていました。雨のせいでもあったでしょうけどね。

後ろ向きにポーズを決めているのは、壬生寺に再来した新選組隊士、ではなくて、隊士の服装をしたパフォーマーです。どういう方なのか聞きそびれましたが、ずっと壬生界隈を練り歩いておられましたから、地元の振興策の一つなのでしょうか。

なんでわざわざ後ろ向きなのかというと、私の隣に居た中学生達が、後ろ姿の方が哀愁があって良いと注文を付けたから。その声に応じて、後ろ向きにポーズを決めたところがこの写真です。なかなかサービス精神旺盛なパフォーマーですね。

ブームは去りましたが、壬生界隈の雰囲気は変わりません。ずっと以前に比べれば、土産物店や看板が氾濫して、風情が壊れたと言う人も居るでしょうけど、私としては今ぐらいの感じが丁度良いと思ってます。昔は、カメラを持ってうろうろしていると、何をしているのかと言わんばかりに不審そうな目で見られたもんね。

新選組が本当に好きな人は、壬生を訪れるなら今ですよ。観光客は少なくなったけど、案内も整備されているし、土産物も揃ってます。心ゆくまで幕末に思いを馳せる事が出来ますよ。

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2005.06.11

京都 壬生 光縁寺@紫陽花.BLG

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紫陽花には雨がよく似合います。
雨に煙る光縁寺でも、ガクアジサイが綺麗に咲いていました。
花を濡らしているのは、無念に散っていった新選組隊士達の涙雨?


京都壬生、光縁寺にて。

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2005.06.07

義経 22の2

義経 第22回 「宿命の上洛」その2

延暦寺を味方に付ける事に成功し、いよいよ都を目指し軍を動かす義仲。

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2005.06.06

義経 22

義経 第22回 「宿命の上洛」

1183年(寿永2年)夏、京に向かう義経の500騎の軍勢。途中、平家が北陸路で敗走を重ねているという知らせが入ります。喜び勇み、自分達も京へと逸る郎党達ですが、義経は頼朝の下知が無い限り戦は出来ないと彼らを押さえます。そして、都近くの様子を探るために、三郎を物見に派遣します。

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2005.06.02

義経 21の3

義経 第21回 「いざ出陣」その3

越前の国府にまで陣を進めた義仲ですが、あまりに上手く行きすぎた事にかえって不安を感じています。その義仲に、行家は都で孤立しない為にと叡山と結ぶ事を薦めます。

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2005.06.01

義経 21の2

義経 第21回 「いざ出陣」その2

1183年(寿永2年)4月、信濃依田城。信濃、越中、越後を制した義仲は、いよいよ京を目指して進軍を開始します。義仲が採った道は、越後から北陸道を通るルートでした。

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