義経 19の2
義経 第19回 「兄へ物申す」その2
京、西八条第。手古奈が侍女として奉公に上がり、時子の下へあいつに来ています。手古奈が以前は頼朝の妻政子に仕えていたと知り、驚く時子。手古奈が鎌倉から出奔してきたのだと聞き、これを褒める領子。
そこへ、宗盛がやってきます。宗盛は時子に、後白河法皇の下にご機嫌伺いに行ってくれるよう頼みます。領子もまた宗盛に賛成し、時子が法皇の下へ行く事を勧めます。
手古奈が時子の侍女になるのは、原作にあるとおりです。原作では鎌倉の事がほとんど出てきませんので、手古奈が政子の事を読者に伝える語り部になっているのですね。ちなみに原作では、手古奈に頼朝の手が付き、それが政子にあやうくばれそうになって、ほうほうの体で逃げてきた事になっています。この手古奈がドラマではどういう役目を果たすのか、興味を持って見ているところです。
法住寺御所。後白河院の下に、頼朝からの書状が届いています。兵を動かしてはいるが法皇には敵意がなく、あくまで法皇をないがしろにしている平家を討つためである。もし、平家を討ってはならないというのであれば、昔日のように平家と共に朝廷をお守りしたいという内容でした。あわよくば東国の支配を確立したいという頼朝の深謀遠慮でしたが、法皇はそんな事よりも京が戦場にならないかという事の方が心配な様子です。
そこに、時子がご機嫌伺いにやってきました。法皇は、頭痛がすると言って時子と会うのを避け、代わって丹後の局と平知康が時子と対面します。その席で時子は、頼朝から和議の申し入れがあった事を知らされます。
夜の西八条第。時子が宗盛、知盛、重衡を集め、源氏から提案のあった和議について伝えています。時子は法皇の思し召しとも付け加えますが、宗盛は言下にこれを拒否します。重衡も宗盛に同調しますが、知盛は法皇の意向とあらば無碍には出来ないと異議を唱えます。しかし宗盛は、自分と法皇には格別の絆がある、もし法皇の意向なら直接自分に対して話があるはずと一蹴します。あまりに法皇に頼りすぎる宗盛に危うさを感じた知盛は、武門として自ら立とうとした清盛を見習うべきではないのかと詰め寄りますが、宗盛には通じません。そしてついには、頼朝の首を取る事が清盛の遺言であるとして、和議を受け入れない事を決めてしまいます。自らついた嘘の影響が大きくなっていく事に、不安を隠せない様子の時子。
頼朝から和議の申し入れを断った宗盛。およそ武将らしくない人と評価される人ですが、実際には意外と骨がある人でもあった様です。宗盛が断固とした姿勢を見せたのはこの時だけではなく、後に屋島において、御神器と引き替えに和議を結んではどうかという法皇からの申し出があつたのですが、これをきっぱりと断っています。平家を滅亡に導いた人であり、またその最期があまりに潔く無かったことから低い評価しかされていませんが、もう少し見直してあげても良いのかなという気もしますね。
宗盛は法皇に近づきすぎると知盛に批判されていましたが、この頃の平家には既に往年の勢いはなく、平家の命令では誰も動かないという事態に至りつつありました。事をなそうとすれば法皇の院宣に頼らざるを得なく、宗盛が法皇に阿ったというのも、ある程度はやむを得ないところがあった様です。
鎌倉、大倉御所。平家が和議を断って来た事も想定のうちと、余裕を見せる頼朝。平家と源氏を天秤に掛けている法皇の胸の内をも見抜いています。尾張にあって平家と戦う為に加勢をと頼んできた行家に、一千の軍勢を差し向ける事を決めます。
治承5年3月。美濃国墨俣で戦う平家軍と行家の軍勢。平家は行家軍を蹴散らし、京へと凱旋してきます。
京、西八条第。喜々として戦勝報告をする維盛ですが、何故戦果を拡大する事なく帰ってきたかと宗盛に咎められます。鎌倉の頼朝と木曽義仲が同時に動くという噂があり、挟み撃ちに遭うのを避ける為に引き上げたと説明する知盛ですが、宗盛の不機嫌は収まりません。
頼朝が行家に差し向けた援軍を率いていたのは、義経の同母兄の乙若でした。乙若は母常磐と分かれて出家し、その後八条宮円恵法親王(後白河天皇の皇子)の坊官となり、円成と名乗っていました。そして、頼朝の挙兵を聞くと八条院を飛び出し、鎌倉へと駆けつけたのでした。円成は鎌倉で義円と名を改め、頼朝から一千騎を預かって行家の救援に向かいます。
一方、平家軍を率いていたのは重衡で、維盛、忠度などがこれに従い、兵力は1万3千でした。対する行家の軍勢は尾張あたりで掻き集めた5千。数で劣るにも係わらず、行家は平家軍に対して決戦を挑みます。墨俣川を挟んで対峙した両軍でしたが、行家は無謀にも川を渡って攻め込みます。夜の内に渡河を敢行し、そのまま攻め掛かるのならまだしも、夜明けを待って堂々と平家軍に挑戦したのでした。前面には自軍に倍する大軍、背後には川を背負っての戦いで、行家は完膚無きまでの敗北を喫します。このとき、義円と行家は仲違いをしていた様で、二人で先陣争いをしたあげく、義円は全くの単騎で敵陣に飛び込んでいます。義円は頼朝の弟であると名乗りを上げて散々に暴れましたが、最期は平家軍の手に掛かって討たれてしまいました。
行家はからくも戦場を脱出し、熱田神宮にて再度平家軍を迎え撃ちますがここでも破れ、矢作川の東でかろうじて踏みとどまります。平家軍はここへも襲いかかったのですが、頼朝の大軍が攻め寄せてくるという噂を聞き、これ以上攻める事をあきらめて兵を西へと引いたのでした。
平家が軍を引いた理由には諸説あって、平家軍の大将は重衡でなく知盛で、その知盛が病になったために引き上げたとする説、兵糧が続かずそれ以上の進撃は無理だったからとする説などがあります。
以下、明日に続きます。
| 固定リンク
「義経・平清盛」カテゴリの記事
- 平清盛 第50回 「遊びをせんとや生まれけむ」(2012.12.23)
- 平清盛 第49回 「双六が終わるとき」(2012.12.16)
- 平清盛 第48回 「幻の都」(2012.12.09)
- 平清盛 第47回 「宿命の敗北」(2012.12.02)
- 平清盛 第46回 「頼朝挙兵」(2012.11.25)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント