京都 六波羅蜜寺 平清盛公乃塚@義経
64歳で亡くなった清盛は、愛宕にて荼毘に附され、遺骨は摂津国大和田泊の経の島に埋葬したと伝えられます。
この愛宕とは洛東の愛宕念仏寺(大正元年に嵯峨野へ移転)の事とも、六道珍皇寺の事とも言われますが、この両寺にはとくに言い伝えは残っていないようです。その代わりというわけでもありませんが、すぐ傍の六波羅蜜寺には、「平清盛公乃塚」と伝えられる石塔(写真左)があります。いずれの寺も平家の六波羅第の一角と言っても良い位置にあり、清盛葬送の地としてこれ以上ない場所であった事でしょう。
栄華を極めた清盛の墓というにはあまりに侘びしい石塔ではありますが、「盛者必衰の理をあらわす」にはふさわしい姿とも言えるかも知れませんね。ただ、この石塔自体は江戸期のものという説もあり、本当に清盛の墓かというと疑問があります。清盛の墓と伝えられるものは、ここ以外に京都嵯峨野のほか、福原のあった神戸市にも複数あって、正確にはどことも判らないようですね。
ちなみに、隣りある石塔はこれも平家に縁があって、平家の家臣悪七兵衛景清の想い人であった白拍子、阿古屋の供養塔と伝えられているものです。現地にある説明書によれば、壇ノ浦の戦いの後、行方の判らなくなっていた景清を捕らえるため、代官畠山重忠は阿古屋を捕らえ、取り調べを行います。重忠は阿古屋が景清の所在を知っていると勘づいていましたが、彼女が奏でた三味線、琴などの調べに一点の乱れのないことに感動して、これを解放してやったのでした。(浄瑠璃、壇ノ浦兜軍記 三段目 「阿古屋の琴責め」)
この白拍子と清盛が並んで供養されているというもの面白いと言えば面白いですが、やはり仏の前には人は平等という思想の現れなのでしょうね。
平家物語に描かれた清盛は、権力欲に取り憑かれ、あまたの殺生や大仏を焼き払うという大罪を犯し、遂には仏罰を受けて苦しみ抜いて死ぬという救いがたい人物です。しかし、実際には、ドラマにもあったように、武家という新興勢力を背景に、航路を開いて港を築き、交易を盛んにして富を産み、それまでの公家政治とは一線を画した時代を拓こうとした一大政治家でした。ただ、あまりに身内ばかりを重用しすぎたために人々の恨みを買い、さらには「平家にあらずんば人にあらず」という言葉に代表されるような一門の奢りを招き、自らを窮地に陥れてしまったのでした。良くも悪くも、素晴らしく魅力に富んだ人物だった事は間違いないと思います。
そして、そんな清盛像を、渡哲也は見事に演じきってくれました。ある意味、義経以上にこのドラマの主役だったと言って良いのかも知れません。これから先はもう見ることが出来ないのかと思うと、ちょっと寂しいですね。
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