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2005.05.23

義経 20

義経 第20回 「鎌倉の人質」

1183年(寿永2年)2月、都を出発する平家の大軍。これを迎え討つ和田義盛を総大将とする3万の軍勢。しかし、頼朝自身は、信州の義仲と常陸の志田義広に牽制されて、鎌倉を動く事が出来ません。

義経の館。足音も荒々しく、弁慶が義経の居室にやってきます。ずけずけと上がり込んだ弁慶でしたが、そこに梶原景季が居る事を知り、礼を失した事を謝ります。しかし、彼はこれ幸いとばかり、義経に出陣の沙汰が下されぬ理由を、景季に問い質します。景季は常陸の情勢が不穏な事を義経に伝え、出陣の触れがあればいつでも発てる様にしておく様にと忠告を与えます。しかし、自らの出陣よりも、叔父・甥の間で争う事に、心を痛める義経。

いよいよ出陣かと期待された義経でしたが、常陸には範頼が向かい、志田氏内部での離反もあって義広は勢力を失い、いずこへともなく姿を消してしまったのでした。

雨に振り込められながら、義経に出陣の触れが無かった事を嘆く郎等達。そこへ現れた義経に、佐藤兄弟は秀衡の家来であった自分たちのせいで、出陣の機会が巡ってこないのではないかと謝ります。義経は、それは過ぎた事だとしかりつけ、雨の中へと出て、郎党達を誘います。主従共に雨に濡れながら、わだかまりを水に流していきます。

志田義広は源為義の三男で義朝の弟にあたり、元は義憲といいました。常陸国南部の志田に居住したことから、志田義広と改名しています。行家とは違って頼朝とは同調せず、義仲と気脈を合わせて頼朝を牽制する動きを見せていました。1183年2月、下野国の足利忠綱を誘って兵を進め、鎌倉に対して反旗を翻えしました。義広は、足利氏と並んで下野で勢力を持っていた小山氏にも誘いを掛けますが、小山朝政は頼朝に従う事を決意しており、義広に加勢すると伝えて油断させておき、居館を出て野木神社付近で志田勢に襲いかかり、これを破りました(野木の宮の戦)。破れた義広は関東を後にし、義仲を頼って落ちていく事になります。


義仲の館。頼朝の下を出奔した行家が来ています。平家を討ち、京に上って、源氏の頭領となれと義仲を焚きつける行家。頼朝を気にする義仲に、頼朝は義仲にとっても自分にとっても父の敵の息子であると言い、頼朝を討つぐらいの気概を持てと煽ります。

行家について話し合う、今井兼平達兄弟と義仲。義仲は、元服の折りに京に上り、石清水八幡宮に参拝して、いずれは京を我が物にすると誓った事を思い出し、いよいよ京に向かう事を決意します。

義仲の動きに対応すべく、自ら大軍を率いて信州に向かう頼朝。しかし、義経にはここでも出陣の機会は巡ってこないのでした。

義経邸。範頼と景季が来ています。景季は、頼朝に背いた行家と義広が共に義仲を頼った事を伝え、頼朝は義仲が反旗を翻したと判断したのだと推量します。そして、父景元は自分たちの事は眼中に無い平家を見限り、関東を良く知る頼朝に賭けたのだと語り、自分たちを受け入れた頼朝の懐の深さを賞賛します。


以下、明日に続きます。

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