義経 17の2
義経 第17回 「弁慶の泣き所」その2
福原、清盛邸。京へ帰る知盛があいさつに来ています。すでに一門の主立った者達は京へ帰っており、知盛が最後でした。知盛が去った後も、一人福原に止まる清盛。その手には、菩提樹の数珠が握られています。
清盛の下に、京へ帰るあいさつに訪れた時子。明日戻るという時子ですが、清盛はまだしばらく福原に止まると言います。時子相手に、異国との交易で賑わう新しい都を作ろうとした夢を語る清盛。挫折を味わう清盛に、時子は黙って寄り添います。やがて清盛は後白河院の幽閉を解き、院政が復活する事になります。
清盛が福原から京へ戻ったのは、1180年(治承四年)11月29日の事でした。それから間もなく清盛が後白河院の幽閉を解いたのは、安徳天皇の父である高倉上皇が亡くなった事が直接の原因とされます。高倉上皇は、時子の妹建春門院滋子が産んだ子であり、その中宮は清盛の娘徳子でした。平家一門と縁の深い高倉上皇は、後白河院が幽閉された後を受けて朝廷を取り仕切っていましたが、1181年(治承五年)1月に病を得て崩御されました。安徳天皇はまだ幼少であり、高倉上皇に代わって朝廷を切り盛りできる適任者は、後白河院をおいて他に居なかったのです。やむなくという形で院政の復活を認めた清盛でしたが、このことが後に平家を滅亡へと追いやる一因となった訳ですから、歴史の皮肉としか言いようがありません。
鎌倉。新しい都市計画の下、御家人達の屋敷の建築ラッシュで大いに賑わっています。そんな中、政子から呼び出しを受けた義経。政子の用件は、義経の縁談でした。急な申し出にとまどい、猶予を願い出る義経。
政子の用件が義経の縁談だった事を知り、密かに集まって話し合う家来達。それを偶然聞いてしまう静。
義経にとって、自分が負担になりつつある事を知り、海を眺めながら一人思い悩む静。
頼朝邸。義経に頼朝の意向として縁談を持ちかけた事を報告する政子。義経が猶予を願い出た事を聞き、静の事があるためかと義経の気持ちを思いやる頼朝。しかし政子は、平家に従って関東に下りながら、今は源氏の義経の下に身を寄せる静を節操の無い女だと責めます。そして、自分の侍女である手古奈を、独り立ちした立派な女だと持ち上げます。そんな政子と手古奈を、複雑な表情で見つめる頼朝。頼朝は、鎌倉の風に従い、義経にはふさわしい妻を持たせようと政子に告げます。
夜、義経邸。家来達との酒宴から離れ、一人端座して月を眺める義経。それを気遣わしげに見守る家来達。そこへ現れた静。彼女は義経に京に帰ると告げます。引き留めようとする義経達ですが、静は頼朝の薦めに従う事が義経の為であると言い、京で待つ母の下に戻ると別れを告げます。
弁慶の下へ怒鳴り込んできた杢助。弁慶が千鳥に会わないと言った事が気に入らなかった様です。弁慶にその訳を問いただす義経。弁慶は義経が静と離ればなれになる事を気遣い、自分だけが幸せでいる事は出来ないと考えたのでした。それを聞いた義経は弁慶の心得違いを正し、千鳥と縒りを戻すように諭します。そして静は千鳥に、自分が居なくなった後の義経達の世話をしてくれるように頼みます。
史実では、静が鎌倉で義経と暮らしたという事実が無いのは以前に書いた通りです。また、政子が静を平家から臆面もなく源氏に乗り換えた節操の無い女だと責めていましたが、白拍子は金で雇われた存在であって平家の家人ではなく、節操がどうのと言うのはおかしな話ですよね。このあたりは、政子の性格と、後の義経と頼朝の確執を描く為の伏線になっているのかも知れません。
政子の侍女として登場した手古奈は、宮尾本平家物語に出てくる女性です。ドラマでは控えめな女性という印象でしたが、小説では非常にてきぱきと動く、働き者の女性として描かれています。手古奈という名は、千葉県に伝わる真間の手古奈の伝説から取ったもの。真間の手古奈は万葉集にも歌われた伝説上の女性です。彼女はたいそう美しく、あまたの男性から言い寄られていました。しかし、自分を巡っての争いが原因で傷つくものが耐えない事を苦にした手古奈は、自ら海に身を投げたと伝えられます。なんとも悲しい伝説ですが、頼朝から言い寄られながらも身を引いた彼女を、手古奈の故事になぞらえて付けた名前なのでしょうか。
以下、明日に続きます。
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