義経 19の3
義経 第19回 「兄へ物申す」その3
鎌倉、大倉御所。頼朝の下を行家が訪れています。行家は墨俣で破れたのは、頼朝の援軍が先陣争いをして勝手に敵陣に飛び込んだためであるとし、自分の軍勢を養うための領地が欲しいと迫ります。しかし頼朝は、領地は自分の才覚で切り取るものであると、行家の申し出を一蹴してしまいます。なおも、平家が西へと引き返したのは自分の手柄だと言い張る行家ですが、大庭景親は、平家が去ったのは頼朝の大軍が来るという流言のせいである。すなわち頼朝の威光のおかげであって、行家の働きによってではないと行家をやりこめます。立場を失ない、返す言葉もなく部屋を出て行く行家。
行家が頼朝に知行地をねだった事は、源平盛衰記に出てきます。行家は「平家と八箇度合戦して、二度は勝ち六度は負た。家子郎等多く討たれ、彼等が孝養をも営むために、何にても一箇国相計給え。」と頼朝に訴えます。しかし、頼朝の返事は、「頼朝は十箇国を靡かす、木曾は信濃上野の勢をもって、北陸道五箇国を靡した、御辺も何れの国にても打ち靡せて、法皇に申し出て、打取の国として知行されればよかろう。」という行家を冷たく突き放すものでした。このあたりの台詞回しは、ほぼドラマと同じですね。
義経の部屋を訪れ、頼朝の冷たい仕打ちに対する憤りをぶちまける行家。しかし義経は、頼朝がやろうとしていることは単なる敵討ちではなく、新たな朝廷と武家のあり方を目指しているのではないかと、叔父を諭します。納得のいかない行家は、自分と組んで源氏の旗頭を目指そうではないかと迫りますが、義経は頼朝の家来で十分であるとして、行家の申し出を断ります。
1181年(治承5年)6月、信濃横田川原にて、越後の城資職と戦い、勝利を収めた義仲。かれの武勇を聞いた北陸の諸豪は、続々とその麾下へと集まってきます。「我こそが源氏の頭領!都へ上るぞ!」と雄叫びを上げる義仲。
横田河原は、長野市ノ井横田付近の千曲川の河原の事です。義仲は笠原頼直を討った後、上野や信濃国内を固め、勢力の増強を計っていました。平家は越後の城資職に義仲の討伐を命じ、これに応じた資職は、越後と出羽の兵を率いて信濃へと侵攻します。その兵力は4万とも6万言われ、先陣は先に義仲に信濃を追われた笠原頼直が勤めていました。対する義仲軍は、木曽党、佐久党、甲斐武田党の連合軍3千。数に劣る義仲軍は一計を案じます。すなわち、井上光盛に命じておびただしい数の赤旗を作らせ、それを押し立てて平家の軍勢に近づかせます。資職は赤旗を見て味方の大軍を得たとすっかり安堵して兵を休ませたのですが、光盛は頃合いを見てにわかに赤旗を下ろし、白旗を上げました。事態の急変に驚いた資職が陣を乱す内に、義仲の率いる軍が南北から攻め込み、散々にこれを破ったのでした。資職は命からがら、越後へと逃げ帰っています。この戦いの勝利で、義仲は信濃から北陸にかけて勢力を伸ばす足掛りを掴んだのでした。
京、西八条邸。城氏が義仲に破れた事で、北陸の武士達が次々に義仲へと下っている事に危機感を覚える宗盛達。北陸の事はともかく、関東は既に手に負えなくなっていると憂う重衡。知盛は奥州の覇者、藤原秀衡を陸奥守に任じて頼朝追討を命ずる事で、鎌倉を背後から牽制する策を進言します。
鎌倉、義経邸。義経に暇を乞う佐藤兄弟。秀衡が陸奥守に任じられた事で、元は秀衡の家臣であった彼らに、間者ではないかという疑いの目が向けられたのでした。そして、秀衡に匿われていた義経もまた猜疑の目で見られており、彼らはいたたまれなくなったのです。佐藤兄弟の話を聞き、黙って頼朝の下へと向かう義経。
頼朝に拝謁した義経。彼は侍所から疑いの目を向けられている佐藤兄弟、そして自らも秀衡から何の意も受けていないと申し開きをします。しかし頼朝は、秀衡の力を恐れるのは当然の事と侍所の判断を支持します。秀衡を知る義経は、決して奥州から出てくる事はないと言い切ります。そして、自分と郎党を疑う事の無いよう、頼朝に訴えかけます。
義経の一途さに感心した様子の頼朝。その一途さを警戒する政子。
佐藤兄弟に、暇乞いは許さぬと告げる義経。今までとおり側に居るよう言われた兄弟は、感激の涙を流します。その兄弟を祝福する弁慶ら郎等達。
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