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2005.05.06

義経 17の3

義経 第17回 「弁慶の泣き所」その3

各地で頻発する反乱を鎮めるために、出陣を繰り返す知盛とその軍勢。
南都を攻撃し、興福寺から東大寺まで焼き払ってしまった重衡。
重衡が大仏殿を焼き払ったと知り、仏罰が恐ろしいと時子の前で嘆き悲しむ妻の輔子。

盛知が鎮圧に向かったという反乱は、近江の山本一党の挙兵の事でしょうか。山本氏は、近江に勢力を持っていた源氏の一統で、八幡太郎義家の弟、義光の流れを汲んでいます。この当時の当主は義経。同じ名前である事から九郎義経と混同される事が多く、九郎義経が反っ歯であったと言われるのは実はこの山本義経の事だったのだそうですね。

この山本一党が平家に反旗を翻したのは、1180年(治承4年)11月20日の事です。彼らは、伊勢に向かう平家一族の一行を襲ってこれを殺害し、反平家の立場を明らかにしました。そして、琵琶湖の通航を遮断して北陸道から京への物流を止め、平家に打撃を与えます。これに対して平家は、12月1日に知盛を主将とした追討軍を近江に派遣しました。知盛は山本一党の拠点を次々と攻略し、山本一党の挙兵に呼応した園城寺をも攻めて、僧兵400人余を殺害します。山本義経は馬淵城(近江八幡市)にまで退きましたがここも破られ、多数の戦死者を後に鎌倉まで逃れて行きます。

余談ですが、山本義経は、この後北陸道を攻め上ってきた木曽義仲に加勢し京に入り、以後義仲と行動を共にしています。しかし、義仲の死後は消息が途絶え、その後どうなったのかは判っていないようです。

重衡による南都焼き討ちは、平家が犯した大罪の一つに取り上げられる事件です。平家物語では清盛自ら出陣した事になっていますが、実際に軍を指揮したのは重衡でした。1180年(治承4年)12月、興福寺の僧兵が京に攻め上るという知らせが清盛の下にもたらされます。清盛は興福寺に対して使者を出し、騒ぎを静めようとしますが、興福寺側ではかえってこの使者達を殺し、首を晒すという挙に出ます。

12月28日、清盛は南都攻略を決意し、重衡に命じて4万という大軍を奈良へと派遣しました。迎え撃つ興福寺側の兵力は7千。彼らははじめ寺を出て、二つの街道に掘を切って平家軍を防ごうとしましたが、衆寡敵せず寺へと引き上げます。重衡軍は勢いに乗って興福寺へと攻め掛かりますが、地の利を生かした僧兵達の抵抗は頑強で、戦いはやがて夜戦へともつれ込みます。夜の闇に紛れては勝手を知った僧兵達の方が有利と判断した重衡は、部下に命じて民家に火を放たせます。

家に火を放って明かりとする事はこの当時の戦においてはよくあることであり、後に義経も三草山の戦いの時に民家に火を付けています。重衡が民家に火を付けたのも、戦を有利に戦うために明かりが欲しかったからであり、興福寺を焼き払うという意図はありませんでした。しかし、このとき季節は北風の厳しい冬であり、風に乗った火はあっという間に奈良の町中に広まって行きました。やがて、興福寺の伽藍にも燃え移り、東大寺にも火の手が迫ります。

火の手と平家の軍勢を逃れた人々の多くは、大仏殿の二階へと避難していました。ここなら、平家にも攻め込まれる事はないと思ったのでしょうね。そしてさらに、平家の軍勢が上って来られないように梯子をはずしてしまいます。しかし、興福寺を焼き払った火の手は衰えることなく大仏殿にも迫り、ついには燃え移ってしまいます。このとき、二階に居た人達は千余名。そのことごとくが逃げ場を失い、業火の中で焼け死んでしまったのでした。

南都焼き討ちは、結果として平家滅亡を早める一因となりました。まず、興福寺は藤原氏の氏寺であり、これを焼き払われた藤原氏の嘆き様は尋常ではありませんでした。元々反平家色の強かった藤原氏でしたが、この事件によって完全に平家に対して背を向けてしまう事になります。また、大仏を焼き払うという暴挙は、反平家勢力に対して平家を攻撃する格好の口実を与えた事となり、さらなる動揺が広まる事となります。南都の僧兵という勢力の一掃には成功した平家でしたが、引き替えに失ったものの方がずっと大きかった様です。


西八条第。蓬を前庭に植えた「蓬壺」でくつろぐ清盛。すっかり精力の消えた清盛は、飾りの無い蓬のすがすがしさに安らぎを見いだしている様です。その清盛近くに侍る五足は、清盛が身につけていた菩提樹の数珠が無くなっている事に気づきます。平家にとって不吉な事が頻発しているのはその数珠を無くしたせいではないかと心配する五足は、福原まで取りに行こうかと申し出ますが、清盛はいずれ福原に戻るときもあると言って五足を止めます。


清盛が菩提樹の数珠を福原に忘れ、それを五足が気にして取りに行こうとする話は、宮尾本平家物語に出てくるエピソードです。原作ではこの数珠が五足を襲う悲劇の元となるのですが、このドラマではどうなるのでしょうね。
この下りの清盛は夢破れて好々爺となってしまった観がありますが、渡哲也が良い感じを出していました。実際の清盛は、平家一門の仕置きに追われてそれどころでは無かったでしょうけど、こういう清盛を見せられると平家物語で描かれた人物像とは違った、憎めない人だったのかなあという気がして来ます。


鎌倉、夜の義経邸。政子の侍女の手古奈が駆け込んで来ました。義経が事情を問い質すと、政子の下を飛び出して来たと言います。このところ頼朝から何かと誘いを受けており、それが政子に知れたらどんな仕打ちを受けるか判らないと、恐れて逃げてきたのでした。京に戻るという手古奈に、義経は静を同行する様に頼みます。

明日、京に帰ると義経に別れを告げる静。形見を渡したいが、何も持っていないと嘆く義経。そんな義経に、ここに残れと言ってくれた義経の思いを抱いて帰ると答える静。

手古奈と二人して、鎌倉の海岸を行く静。それを遠くから見送る義経と家来達。弁慶が呼びかける声に振り向いた静は、義経が見送りに来てくれた事に気づきます。手を振って別れを告げる義経を背に、都へと向かう静。

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