平家 西八条第跡 若一神社@義経
庭一面に広がった蓬を前に、心の安らぎを求める清盛。このとき清盛が座っていたのは、六波羅と並ぶ平家の拠点であった西八条第の一角でした。
源平盛衰記には、
「此所をば八条殿の蓬壺とぞ申ける。蓬壺とはよもぎがつぼと書けり。入道蓬を愛して、坪の内を一しつらひて蓬を植、朝夕是を見給へ共、猶不飽足ぞおぼしける。されば不斜造り瑩れて、殊に執し思ひ給ければ、常は此蓬壺にぞ御座ける。」
とあります。
「蓬壺」は「ほうこ」と読み、ドラマのように清盛は朝夕飽きる事なく蓬を眺めていたのですね。
清盛は、太政大臣になった頃までは六波羅の泉殿に居たのですが、その後出家して福原の別荘に移り住むようになります。そして、福原から上洛して来た時に入るのが、主としてここ西八条第だった様です。普段は清盛の妻の時子が住み、清盛の留守を守っていた様ですね。
その西八条邸があったとされる場所が、今でも京都に残っています。それがこの若一神社。若一と書いて(にゃくいち)と読みます。
平清盛がここに西八条殿を建てたとき、鎮守として紀州熊野の若一王子の御霊を祭ったのが始まりとされます。それ以後、清盛の勢威がますます盛んにになったというので、開運出世の神としても崇められているとか。現在の境内はごく狭いのですが、鳥居を潜ったすぐ横に、上の写真の清盛像が設置されています。
西八条第は八条壬生にあったとされ、概ね八条大路以北、大宮通以西にあったと考えられます。現在の京都に当てはめれば、梅小路公園のあたりに相当する様ですね。この梅小路公園が整備される前に、平成4年から5年の春にかけて発掘調査が行われ、柱跡や溝跡が確認されています。また、平安時代後期の土偶とともに焼土や炭化遺物が出土しており、西八条第が火災で燃えた事が裏付けられました。
それからすると、この若一神社の位置は西に寄りすぎており、本当にここが西八条第の跡地にあたるのかというと、疑問があるようです。おそらくは後世になってから、この神社がある御所の内という地名から作られた伝説ではないかと考える説もある様ですね。
その伝説の真偽はともかくとして、この神社には興味深いものが二つあります。
そのひとつがこの御神水。これは、清盛が熱病に罹った際に、その体を冷やしたとされる井戸水です。清盛の熱病はすさまじく、体を冷やすために水を掛けてもすぐに沸騰してお湯になってしまったと言われます。平家物語では体を冷やすために比叡山の清水を汲んで来たとありますが、ここが西八条第であったとすれば、邸内の井戸の水を汲んで冷やしたという話もあり得る事ですね。
ここは名水の一つとされ、一度は水位が下がって枯れかけたのですが、ボーリングをやり直すと復活したのだそうです。ポリタンクやペットボトル持参で、この水を汲みに来る人も多いようです。
そして、もう一つは、清盛手植えとされるこの大楠。伝説によれば、西八条第に火を掛けた時も焼け残り、以後若一神社のご神木として大切にされてきました。そして、この木を切ったり移し替えようとすると、必ず祟りがあったと伝えられます。
その祟りは、遠く平安、鎌倉の頃の事だけではなく、昭和の世になっても続きました。昭和9年、京都市電の建設工事が行われた際にこの楠を移そうとしたのですが、工事関係者に不幸が相次ぎ、地元の人はこれは祟りであると騒いだため、やむなく木はそのままに、道路の方を曲げて市電を通したといういわくが残っています。今でも現地に行くと、ここだけ道が曲がっている事がわかり、単なる噂ではない事を示しています。
この楠は昭和40年代半ばに一度枯れかけたのですが、手当の甲斐あって樹勢を盛り返し、今でも写真の様に青々と茂っています。
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