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2005年5月

2005.05.31

義経 21

義経 第21回 「いざ出陣」

大倉御所を訪れている義経以下、弁慶、次郎、三郎の3人。彼らは政子のお召しにより参上したのでした。政子の用とは、大姫がどうしても弁慶達に会いたいと願っているというものでした。

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2005.05.30

新選組続編決定、嬉しいな~京都 洛東 金戒光明寺~

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京都洛東の地に佇む金戒光明寺。その正式名よりも、通称の「黒谷」と言ったほうが通りの良い寺です。

koumyouji12黒谷は、知恩院、清浄華院、百万遍知恩寺と共に浄土宗四ケ本山の1つ。比叡山を降りた法然が、1175年(承安5年)に師の叡空からこの地にあった比叡山の白河禅房を譲られ、念仏道場を構えた事がその始まりとされます。山頂の石の上でお念仏をされた時、紫雲全山にみなぎり光明があたりを照らしたことから 、山号を紫雲山、寺名を光明寺とされました。そして法然の没後、後光厳天皇在位中に(1352年~70年)金戒の文字を賜り、金戒光明寺と号するようになっています。
koumyouji25そして、大河ドラマ「新選組」のファンなら、この門を見ると「ラ、ラ、ラ、ラ、ラララ~。」と歌が聞こえて来るのではないでしょうか。1862年(文久2年)12月24日、会津藩主松平容保が京都守護職として上洛し、本陣を構えたのがここ金戒光明寺でした。元々徳川幕府は京都で有事が発生した場合に備えて、知恩院とこの金戒光明寺を城郭造りに仕立ててあったと伝えられます。まさにその備えが物を言う時が来た訳で、会津候の指揮の下、会津藩兵1千名がこの地に駐屯する事となりました。そして、1863年(文久3年)3月16日に壬生浪士組の芹沢鴨と近藤勇が会津候に拝謁し、後の新選組へと繋がる足掛かりとなっていきます。この門は1860年に再建されたもので、芹沢と近藤が潜った時は、まだ真新しい門だった事でしょうね。
aizubochi11その会津藩士の多くが京洛の治安を守る為に命を落とし、鳥羽伏見の戦いで散って行った事は周知のとおりです。その会津藩士達352名の魂が眠っているのがこの会津墓地。北隣の真如堂へ通じる道沿いに位置し、浄土宗の寺ではありますが、神道を奉じる松平家の家臣であった事から、その7割は神霊として祀られているとの事です。

koumyoujitou11その会津藩と金戒光明寺の因縁を感じずにいられないのは、この三重の塔です。この塔は、二代将軍秀忠を供養する為に建立されたのですが、会津松平氏はその秀忠を家祖とする家系です。恐妻家で知られた秀忠が、生涯で唯一妻以外の女性に産ませた子が会津藩初代藩主となった保科正之でした。妻の目を恐れて密かに保科家へ養子へ出された正之でしたが、家光の代に実弟として認められ、以後徳川宗家の為に尽くす事を家訓として代々続く事になります。そして幕末に至り、その家訓ゆえに、破滅を承知の上で京都守護職を引き受けるに至ったのです。容保は朝な夕なにこの塔を見上げて、何を思い祈った事でしょうね。


金戒光明寺ホームページ

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2005.05.25

義経 20の3

義経 第20回 「鎌倉の人質」その3

京、平宗盛邸。宗盛の長男清宗と頼盛の娘との婚姻披露の宴が行われています。東国の憂いを忘れて和やかに談笑する平家一門の人々でしたが、その中から宗盛が荒々しく飛び出して来ました。その宗盛を懸命になだめる頼盛ですが、宗盛はその手を振りほどいて時子の下へと急ぎます。

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2005.05.24

義経 20の2

義経 第20回 「鎌倉の人質」その2

信州で頼朝と対陣した義仲。頼朝軍が10万の大軍であると聞き、さすがに顔色を無くします。和議に反対する行家を押し切って、義仲は頼朝と和議を結ぶ事を決めます。

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2005.05.23

義経 20

義経 第20回 「鎌倉の人質」

1183年(寿永2年)2月、都を出発する平家の大軍。これを迎え討つ和田義盛を総大将とする3万の軍勢。しかし、頼朝自身は、信州の義仲と常陸の志田義広に牽制されて、鎌倉を動く事が出来ません。

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2005.05.19

法住寺殿跡@義経

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後白河法皇の院政の舞台となった法住寺殿は、当時は京洛の外とされた洛東の地にありました。六波羅からはすぐ南隣にあたり、平家と法皇の親密な関係を伺わせる位置関係ではあります。四方10余町に及ぶという広大な広さを持ち、不動堂・念仏堂・北斗堂・五重塔などの堂塔伽藍が建ち並んでいたと言います。

houjyuujidenato15石碑があるのは、現在の三十三間堂の境内。奥州に発つ遮那王が、清盛と別れを告げるシーンの舞台となったのを覚えている方も多いのではないでしょうか。ドラマでは、従者を連れた清盛が、丁度階段のあるあたりの廊下を歩いていました。
三十三間堂は正式名を蓮華王院といい、1164年(長寛2年)に、千一体の観音像を祀るための堂を作るという後白河上皇の発願により、法住寺殿の一角に清盛が造進したものです。清盛が建てた当時の蓮華王院は、法住寺殿が木曽義仲の焼き討ちに遭った時には危うく難を逃れたのですが、1249年(建長元年)に洛中に起こった火事によって類焼しており、現在の建物は1266年(文永3年)に再建されたものです。
内部には、ドラマで清盛が拝んでいた中尊を中心に、左右に500体づつの「十一面千手千眼観世音」が並んでおり、荘厳な世界が広がっています。その観音像の顔は一つ一つが違っており、その中に会いたいと願う人の顔が必ずあるという伝説もあるようですね。

houjyuujidenato12三十三間堂から、道を挟んだ東側にある法住寺。現在の法住寺は、背後にある後白河天皇の御陵を守護するために建立された寺です。
ここは、「身代わりさん」と親しまれる「身代わり不動明王像」で知られています。法住寺殿が義仲の軍勢に襲われたとき、法皇は危うく敵の手に掛かって命を落としかけたのですが、本尊の不動明王が身代わりになって敵の矢を受けて法皇を救ったという伝承があり、今でも病気平癒の祈願などに訪れる人が跡を絶たないと言います。

時代が下って、赤穂浪士の大石内蔵助がこの不動明王に大願成就を祈り、この寺を同士との連絡場所にも使ったとも伝えられます。このことから、ここには四十七士と浅野内匠頭の木像が安置されており、毎年12月14日には義士会法要が行われています。


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2005.05.18

義経 19の3

義経 第19回 「兄へ物申す」その3

鎌倉、大倉御所。頼朝の下を行家が訪れています。行家は墨俣で破れたのは、頼朝の援軍が先陣争いをして勝手に敵陣に飛び込んだためであるとし、自分の軍勢を養うための領地が欲しいと迫ります。しかし頼朝は、領地は自分の才覚で切り取るものであると、行家の申し出を一蹴してしまいます。なおも、平家が西へと引き返したのは自分の手柄だと言い張る行家ですが、大庭景親は、平家が去ったのは頼朝の大軍が来るという流言のせいである。すなわち頼朝の威光のおかげであって、行家の働きによってではないと行家をやりこめます。立場を失ない、返す言葉もなく部屋を出て行く行家。

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2005.05.17

義経 19の2

義経 第19回 「兄へ物申す」その2

京、西八条第。手古奈が侍女として奉公に上がり、時子の下へあいつに来ています。手古奈が以前は頼朝の妻政子に仕えていたと知り、驚く時子。手古奈が鎌倉から出奔してきたのだと聞き、これを褒める領子。

そこへ、宗盛がやってきます。宗盛は時子に、後白河法皇の下にご機嫌伺いに行ってくれるよう頼みます。領子もまた宗盛に賛成し、時子が法皇の下へ行く事を勧めます。

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2005.05.16

義経 19

義経 第19回 「兄へ物申す」

五足の死の知らせを聞き、悲しみに打ち震える義経。その義経の心痛を気遣って、家来達も沈んでいます。義経は家来達の心遣いを感謝し、強いて笑顔を見せて彼らを安心させてやろうとします。

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2005.05.12

京都 六波羅蜜寺 平清盛公乃塚@義経

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64歳で亡くなった清盛は、愛宕にて荼毘に附され、遺骨は摂津国大和田泊の経の島に埋葬したと伝えられます。

この愛宕とは洛東の愛宕念仏寺(大正元年に嵯峨野へ移転)の事とも、六道珍皇寺の事とも言われますが、この両寺にはとくに言い伝えは残っていないようです。その代わりというわけでもありませんが、すぐ傍の六波羅蜜寺には、「平清盛公乃塚」と伝えられる石塔(写真左)があります。いずれの寺も平家の六波羅第の一角と言っても良い位置にあり、清盛葬送の地としてこれ以上ない場所であった事でしょう。

栄華を極めた清盛の墓というにはあまりに侘びしい石塔ではありますが、「盛者必衰の理をあらわす」にはふさわしい姿とも言えるかも知れませんね。ただ、この石塔自体は江戸期のものという説もあり、本当に清盛の墓かというと疑問があります。清盛の墓と伝えられるものは、ここ以外に京都嵯峨野のほか、福原のあった神戸市にも複数あって、正確にはどことも判らないようですね。

ちなみに、隣りある石塔はこれも平家に縁があって、平家の家臣悪七兵衛景清の想い人であった白拍子、阿古屋の供養塔と伝えられているものです。現地にある説明書によれば、壇ノ浦の戦いの後、行方の判らなくなっていた景清を捕らえるため、代官畠山重忠は阿古屋を捕らえ、取り調べを行います。重忠は阿古屋が景清の所在を知っていると勘づいていましたが、彼女が奏でた三味線、琴などの調べに一点の乱れのないことに感動して、これを解放してやったのでした。(浄瑠璃、壇ノ浦兜軍記 三段目 「阿古屋の琴責め」)

この白拍子と清盛が並んで供養されているというもの面白いと言えば面白いですが、やはり仏の前には人は平等という思想の現れなのでしょうね。

平家物語に描かれた清盛は、権力欲に取り憑かれ、あまたの殺生や大仏を焼き払うという大罪を犯し、遂には仏罰を受けて苦しみ抜いて死ぬという救いがたい人物です。しかし、実際には、ドラマにもあったように、武家という新興勢力を背景に、航路を開いて港を築き、交易を盛んにして富を産み、それまでの公家政治とは一線を画した時代を拓こうとした一大政治家でした。ただ、あまりに身内ばかりを重用しすぎたために人々の恨みを買い、さらには「平家にあらずんば人にあらず」という言葉に代表されるような一門の奢りを招き、自らを窮地に陥れてしまったのでした。良くも悪くも、素晴らしく魅力に富んだ人物だった事は間違いないと思います。

そして、そんな清盛像を、渡哲也は見事に演じきってくれました。ある意味、義経以上にこのドラマの主役だったと言って良いのかも知れません。これから先はもう見ることが出来ないのかと思うと、ちょっと寂しいですね。

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義経 18の3

義経 第18回 「清盛死す」その3

鎌倉、頼朝邸。呼び出された義経は、頼朝から清盛の死を聞かされます。衝撃を受けつつもそれを隠し、承りましたとのみ答える義経。義理の父でもあったはずと気遣う頼朝達ですが、義経は清盛が亡くなった以上足かせは無くなり、源氏の武者として存分に働く覚悟と言い切ります。しかし、平家ももはやこれまでと言う頼朝の言葉に、複雑な思いを隠せない様子の義経。その義経の心の内を探るような目つきで、義経をじっと見つめる時政。

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2005.05.11

義経 18の2

義経 第18回 「清盛死す」その2

一門の宝を寺々に寄進して、平癒祈願をする時子。しかし、その甲斐もなく清盛の容態は日増しに悪くなっていきます。危篤状態に陥った清盛の周囲に集まった平家一門の人々。そこに、ふらふらになった五足がやってきました。耳役が無断で側を離れたのは何故かと知盛にとがめられ、福原に行っていたと言い訳をする五足。彼は、次々に起こる不吉な出来事は、清盛が肌身離さず持っていた菩提樹の数珠を福原に置いてきた為と考え、取りに行っていたのでした。五足から清盛が福原に戻るつもりであったと聞き、驚く知盛。なぜ早く取りに行かなかったのかと五足を責める宗盛。そんな宗盛を制して、五足からありがたく数珠を受け取る時子。

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2005.05.10

義経 18

義経 第18回 「清盛死す」

西八条第、蓬壺。青々と茂る蓬に、恍惚と見入る清盛。そこへやってきた時子は清盛の後ろ姿を見て、福原の海を見ている時の様だと言います。ここにいると煩わしい事を忘れさせてくれると答える清盛ですが、何を忘れたいのかは時子に聞かれても答えません。

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2005.05.06

平家 西八条第跡 若一神社@義経

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庭一面に広がった蓬を前に、心の安らぎを求める清盛。このとき清盛が座っていたのは、六波羅と並ぶ平家の拠点であった西八条第の一角でした。

源平盛衰記には、
「此所をば八条殿の蓬壺とぞ申ける。蓬壺とはよもぎがつぼと書けり。入道蓬を愛して、坪の内を一しつらひて蓬を植、朝夕是を見給へ共、猶不飽足ぞおぼしける。されば不斜造り瑩れて、殊に執し思ひ給ければ、常は此蓬壺にぞ御座ける。」
とあります。
「蓬壺」は「ほうこ」と読み、ドラマのように清盛は朝夕飽きる事なく蓬を眺めていたのですね。

清盛は、太政大臣になった頃までは六波羅の泉殿に居たのですが、その後出家して福原の別荘に移り住むようになります。そして、福原から上洛して来た時に入るのが、主としてここ西八条第だった様です。普段は清盛の妻の時子が住み、清盛の留守を守っていた様ですね。

nisihatijyouteiato15その西八条邸があったとされる場所が、今でも京都に残っています。それがこの若一神社。若一と書いて(にゃくいち)と読みます。

平清盛がここに西八条殿を建てたとき、鎮守として紀州熊野の若一王子の御霊を祭ったのが始まりとされます。それ以後、清盛の勢威がますます盛んにになったというので、開運出世の神としても崇められているとか。現在の境内はごく狭いのですが、鳥居を潜ったすぐ横に、上の写真の清盛像が設置されています。 
 
nisihatijyouteiato11西八条第は八条壬生にあったとされ、概ね八条大路以北、大宮通以西にあったと考えられます。現在の京都に当てはめれば、梅小路公園のあたりに相当する様ですね。この梅小路公園が整備される前に、平成4年から5年の春にかけて発掘調査が行われ、柱跡や溝跡が確認されています。また、平安時代後期の土偶とともに焼土や炭化遺物が出土しており、西八条第が火災で燃えた事が裏付けられました。

それからすると、この若一神社の位置は西に寄りすぎており、本当にここが西八条第の跡地にあたるのかというと、疑問があるようです。おそらくは後世になってから、この神社がある御所の内という地名から作られた伝説ではないかと考える説もある様ですね。

nisihatijyouteiato21その伝説の真偽はともかくとして、この神社には興味深いものが二つあります。
そのひとつがこの御神水。これは、清盛が熱病に罹った際に、その体を冷やしたとされる井戸水です。清盛の熱病はすさまじく、体を冷やすために水を掛けてもすぐに沸騰してお湯になってしまったと言われます。平家物語では体を冷やすために比叡山の清水を汲んで来たとありますが、ここが西八条第であったとすれば、邸内の井戸の水を汲んで冷やしたという話もあり得る事ですね。

ここは名水の一つとされ、一度は水位が下がって枯れかけたのですが、ボーリングをやり直すと復活したのだそうです。ポリタンクやペットボトル持参で、この水を汲みに来る人も多いようです。

nisihatijyouteiato20そして、もう一つは、清盛手植えとされるこの大楠。伝説によれば、西八条第に火を掛けた時も焼け残り、以後若一神社のご神木として大切にされてきました。そして、この木を切ったり移し替えようとすると、必ず祟りがあったと伝えられます。

その祟りは、遠く平安、鎌倉の頃の事だけではなく、昭和の世になっても続きました。昭和9年、京都市電の建設工事が行われた際にこの楠を移そうとしたのですが、工事関係者に不幸が相次ぎ、地元の人はこれは祟りであると騒いだため、やむなく木はそのままに、道路の方を曲げて市電を通したといういわくが残っています。今でも現地に行くと、ここだけ道が曲がっている事がわかり、単なる噂ではない事を示しています。

この楠は昭和40年代半ばに一度枯れかけたのですが、手当の甲斐あって樹勢を盛り返し、今でも写真の様に青々と茂っています。

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義経 17の3

義経 第17回 「弁慶の泣き所」その3

各地で頻発する反乱を鎮めるために、出陣を繰り返す知盛とその軍勢。
南都を攻撃し、興福寺から東大寺まで焼き払ってしまった重衡。
重衡が大仏殿を焼き払ったと知り、仏罰が恐ろしいと時子の前で嘆き悲しむ妻の輔子。

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2005.05.04

義経 17の2

義経 第17回 「弁慶の泣き所」その2

福原、清盛邸。京へ帰る知盛があいさつに来ています。すでに一門の主立った者達は京へ帰っており、知盛が最後でした。知盛が去った後も、一人福原に止まる清盛。その手には、菩提樹の数珠が握られています。

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2005.05.03

義経 17

義経 第17回 「弁慶の泣き所」

冒頭、武術の稽古をする義経。鬼一法眼から受け継いだ技は、未だ健在の様です。

義経の館。近在の農民が作物を届けてくれました。それをありがたく受け取る静。三郎が子供達の面倒を見ているお礼だそうです。かいがいしく働く静を見て、都へはいつ帰るのかと問いかける弁慶。そう言われてとまどう静と気まずそうな義経。

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