義経 14
義経 第14回 「さらば奥州」
奥州平泉、伽羅の御所。その庭で、親子の様に草笛に興じる秀衡と義経。秀衡は、義経に嫁を娶り、この地に根を下ろしてはどうかと勧めます。言葉では胸に止めると応えた義経ですが、心の内は、平家と源氏の争いの行く末の事でいっぱいです。
ドラマでは誰とも所帯を持たない義経ですが、宮尾本平家物語では、忍(しのぶ)との間に女の子を設けるという設定になっています。原作上の忍は佐藤兄弟の姪で、ドラマの様に忠信の想い人と言う訳ではありません。もっとも忍を妻として迎えた訳ではなく、身の回りの世話をしている内に子をなしたという事になっています。史実においては、奥州時代にどのような女性と関係があったかは、判っていません。
京、西八条、清盛邸。頼政の謀反が明らかになり、衝撃を受けている清盛。源氏とは言え平家に忠誠を誓い、清盛としても目を掛けてきた頼政だっただけに、その裏切りは信じられないものがあった様です。そしてその分、頼政に対する怒りもより強いものがありました。
京の南を流れる宇治川。頼政追討軍を率いる知盛と重衡。宇治橋の橋板がはずされていて渡れないとためらう重衡に、川を押し渡れと下知する知盛。
平家物語では、橋板がはずされていた事に気付かなかった平家軍の先鋒がそのまま宇治川に突っ込み、急流に飲み込まれてしまったとあります。そして、それに怖じ気づいてしまった平家軍の中で、板東武者である足利忠綱というものが手勢を率いて川に飛び込み、見事に渡河してみせたとあります。そして、それを見た全軍が一斉に川に飛び込んで押し渡り勝利を得る事ににるのですが、ドラマではそのきっかけを知盛が作ったという設定にしてあるのですね。
宇治、平等院。頼政の陣。知盛軍が押し寄せてきた事を頼政に知らせる仲綱。以仁王を南都まで落ち伸びさせる為に、踏みとどまる事を決意する頼政。しかし、圧倒的な兵力差の前に、頼政軍は平家軍の攻撃を支えきる事が出来ません。そんな中、頼政の姿を見かけ、降伏を勧める知盛。戦で倒れる事こそ本望なりと叫ぶ頼政。知盛は矢を引き絞り、頼政の胸を打ち抜きます。致命傷を負いながら、さらばじゃと叫んで屋内に退く頼政。息を引き取った頼政を前に、自害して果てる仲綱。頼政77歳の生涯でした。
一方、以仁王は、奈良に向かって逃げる途中、矢に当って命を落としてしまいます。享年30歳。
京を逃れて園城寺に拠っていた頼政達でしたが、以仁王と共に立ち上がってくれると見込んでいた南都北嶺の寺院のうち、まず延暦寺が平家の調略によって平家方に付いてしまいます。これは、当時の延暦寺座主であった明雲が清盛と親しく、座主に対していちはやく働きかけた事が効を奏したようです。そして、もう一つの原因として、園城寺から延暦寺に宛てた通牒に、両寺が同格であるかのような記述があり、これに延暦寺が反発したのだとも言います。園城寺は延暦寺の別院にあたる寺なのですが、以前から両者の間で争いが絶えず、本家にあたる延暦寺としては、園城寺に同格扱いされるのは耐えられる事では無かったのでしょうね。でも、もしこれが事実だったとしたら、園城寺も随分と無神経な外交を行ったものですね。
延暦寺の援軍という望みを絶たれた頼政達でしたが、園城寺の内部でも平家方を支持する勢力があり、決して一枚岩では無かったようです。そして、奈良の興福寺は味方を約束してくれたのですが、遠方のため急場には間に合いませんでした。これらの事情のため、頼政は園城寺に立てこもる事を諦め、興福寺へと向かいます。しかし、その途中、以仁王が6度も馬から落ちる程疲れが激しく、やむなく平等院に陣を張ったのでした。そこへ追いついてきたのが、知盛率いる総勢二万八千騎と言われる平家の大軍です。これに対する頼政軍は一千。数で圧倒的に劣る頼政は、宇治川の板橋を外して、川を防御戦とした事は先に書いたとおりです。
ドラマでは知盛の矢で倒れた頼政でしたが、平家物語に依れば、頼政は膝頭を射られて身体の自由を失ない、最期の時が来たのを悟って平等院の奥へ入ります。そして、子の兼綱が奮戦して時間を稼ぎ、その間に自害して果てたのでした。兼綱は討ち死にし、仲綱もまた自害して果てました。頼政の首は家来が宇治川深く沈めたため、平家方には渡らずに済んだと言います。現在、平等院には頼政の墓と、自害して果てた場所という「扇の芝」が残っています。
一方、以仁王はいち早く平等院を逃れたのですが、平家方も早くにこれを察知しており、飛騨守景家が宇治川での戦いを余所に、以仁王を追っていました。そして、光明山(現在の山城町)の鳥居の前で王の一行に追い付き、矢を射掛けて王を倒してしまったのです。このとき、興福寺から援軍が出ていたのですが、以仁王が襲われた場所まであと5kmというところまで迫った時に、王が討たれたとの知らせを受け、やむなく奈良へと引き上げています。現在、山城町の高倉神社に隣接して、以仁王の墓が残されています。
鳥羽殿にて、丹後局に抱かれながら震えている後白河法皇。何も知らなかった事にすれば良いという局の言葉に、子供の様に頷く法皇。
ドラマでは鳥羽殿に居た法皇ですが、平家物語ではこの乱の直前に宗盛の取りなしにより幽閉を解かれ、美福門院御所に移ったとあります。そして、史実としては、以仁王の乱の背景には、法皇の意思が働いていたのではないかという説もあります。ここまで平家に尽くす事でその地位を得てきた頼政が、俄に打倒平家に立ち上がった事を考えると、法皇からの強い働きかけがあったと考えるのが妥当なのかなという気もしないではありません。
以下、明日に続きます。
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