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2005.04.13

義経 14の2

義経 第14回 「さらば奥州」その2

1180年(治承4年)5月30日。西八条、清盛邸。一門を前に、都を福原に遷すと宣言する清盛。それを聞き、それぞれの想いを胸に浮かべる平家の人々。

時子の呼び出しを受け、妻の部屋を訪れた清盛。そこで、時子から遷都を思いとどまるよう訴えられます。平家を守る為と言う清盛に、都を守る神々の祟りが恐ろしいと怯える時子。いずれ判る時が来ると、清盛は時子の訴えを退けます。

福原に都が遷されたのは6月2日の事。最初は6月3日とされていたのが急遽一日早められ、混乱に拍車が掛かったと言います。

この遷都がいかに慌ただしい出来事だったかと言えば、平家が以仁王を宇治で討ち取ったのが5月26日、翌27日には王に力を貸した園城寺を焼き討ちにしています。この乱による騒ぎが静まらない内に遷都を言い出した訳で、数日の準備期間しか与えられなかった人々は、ほとんど身一つで福原へ移らなければなりませんでした。この遷都はは人々の怨嗟するところとなり、平家が行った悪事の中でも最大のものとして数えられています。

ただ、このとき実際に福原に移ったのは平家一門のほか、法皇、上皇、天皇と、それに付き従う一部の公家だけであり、遷都と言うより行幸と言うべき規模だったようです。では何を目的とした行幸だったのかと言うと、ドラマで清盛が言っていた様に、京は平家に敵対する事を明らかにした南都北嶺の寺院に囲まれた位置にあり、軍事的に見てあまりに危険であっために、急ぎ天皇や法皇を安全地帯に移そうとした緊急避難だった様ですね。

ならば平家は遷都を考えていなかったのかと言えばそうでもなく、最終的には福原に隣接した和田に都を築き、平家を中心とした政権を確立しようとしていた様です。しかし、和田には都を築くには十分な広さが無かった事から、これに替わるものとして昆陽野(伊丹市)や印南野(明石市)といった土地が候補に上げられました。しかし、調べてみるといずれの土地にも支障があって却下され、新都を作る工事が一向に進まないまま、遷都は遂に挫折に終わってしまいます。

この遷都に時子が反対したというのは、原作本である宮尾本平家物語にある設定です。そこでは、時子は平家が人々の怨嗟を受ける事を憂いて清盛を諫めるのですが聞き入れられず、かえって弟の時忠から余計な口を挟むなと叱責を受ける事になっています。

ドラマで時子が言っていた四神、東の青龍、西の白虎、南の朱雀、北の玄武とは、陰陽道でいう東西南北を守る神の事です。陰陽道では地形をそれぞれの神に見立て、東に川、西に道、南に池、北に岡と定め、この四神に囲まれた土地は繁栄するとしています。これに倣って京都盆地の周囲を眺めると、東の鴨川、西の山陰道、南の巨椋池、北の船岡山がそれぞれ四神に当てはまります。これによってこの地は四神相応の地とされ、平安京が置かれたのでした。平安京にはこれ以外にも、大将軍神社など都を守護する様々な神が祀られており、それぞれ霊験あらたかであると同時に、もし禁忌を犯すような事があれば、強力な祟りをなすと恐れられてもいました。時子は、これらの神々の祟りを恐れたのですね。

奥州平泉、伽羅の御所。福原遷都の報はここにももたらされ、秀衡以下藤原家の一門がその真意を測りかね、憶測を語り合っています。その場に同席しながら、一人別な事を考えている様子の義経を見て訝る秀衡。義経は、かつて清盛から聞かされた、福原に築くという夢の都の事を思い出していたのでした。

以下、明日に続きます。

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コメント

この頃、あまり見られないので、こちらであらすじを拝見させていただいております。
テレビを見るよりおもしろいです。ためになりますし。ありがとうございます。

投稿: mononoke | 2005.04.14 19:25

mononokeさん、コメントありがとうございます。
以前の様なセリフ起こしは差し障りがあるとの事で出来なくなったのですが、その分、時代背景の分析に力を入れていこうと思っているところで、少しでも参考になったとしたら嬉しいです。
ドラマもいよいよ動き出し、これからだんだんと佳境に入っていくところです。いわゆる源平合戦のハイライトが始まろうとしているところであり、ここから暫くは面白い場面が続きそうですよ。


投稿: なおくん | 2005.04.14 20:48

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