鹿ヶ谷の変@義経
平家全盛の世にあって、その膝元で湧き起こった平家覆滅のはかりごと。それが鹿ヶ谷の変と呼ばれる事件です。
1177年(治承元年)6月、多田行綱の密告により事件は発覚しました。それによれば、京都東山山中「鹿ヶ谷」にあった俊寛僧都の別荘に、藤原成親、西光法師、平判官康頼といった後白河法皇の近臣達が何度も集まり、平家を滅ぼさんとする陰謀を話し合ったと言います。多田行綱もこの席にあり、摂津源氏を率いる行綱は、平家打倒のための戦力として最も期待された武将でした。しかし、平家の武力の強大さを知る彼は計画の無謀さを悟り、いち早く平清盛に訴え出て、身の安全の保証を願ったのです。
ここで、関係する人物の整理をすると、次の様になります。
藤原成親(1138-1177)
鳥羽上皇の寵臣であった藤原家成の三男。「芙蓉の若殿上人」と称され、後白河法皇の寵愛を受けました。権大納言正二位。清盛の嫡男重盛の正室経子は妹、重盛の嫡男維盛は娘婿にあたります。さらに、成親の嫡男成経には、清盛の弟である教盛の娘菊子が嫁いでいます。このように、平家一門とは非常に濃い繋がりを持った人で、平治の乱では藤原信頼に連座して罪に問われたのですが、重盛にすがってって死罪を免れています。
この成親が何故平家打倒の謀議に加わったのかと言えば、官職を巡って平家と争い敗れた事が直接の原因とされます。成親は空位となった右近衛大将の地位を望んだですが、これを清盛の次男である宗盛に奪われてしまいます。この事を恨みに思い、さらに普段からの平家の増長ぶりも腹に据えかねていたのでしょう、反平家の中心人物となるに及びます。事件発覚後は、重盛のとりなしにより死罪一等を免ぜられて備前国に配流になりますが、のち配流地において殺害されてしまいした。
西光法師(生年不詳 -1177年)
俗名は藤原師光。麻殖為光の子で、藤原家成の養子。成親とは義理の兄弟にあたります。保元の乱の後に権力を握った信西の家来となり、左衛門尉にまで昇りましたが、平治の乱で信西が死ぬとそれをきっかけに出家して、後白河法皇に仕えました。非常に優れた才覚の持ち主で、法皇の側近としては第一人者の地位を占めるに至ります。
鹿ヶ谷の変では、成親と並んで打倒平家の首謀者となりますが、その理由は朝廷から平家を排除し、法皇の権力を旧に復するためだったと言われます。
この西光については、鹿ヶ谷の変に先立ち、子の藤原師高が所領の加賀国を巡って比叡山と紛争を起こしています。師高の振る舞いに怒った比叡山の大衆は朝廷に強訴するに及び、その圧力に屈した朝廷は師高を尾張国に配流させてしまいます。しかし、父である西光は収まらず、後白河法皇に直訴して天台座主明雲の天台座主職を停止させ、伊豆国に流罪とさせます。ところが、明雲は配流される途中で叡山の衆徒に奪回されるという事態に発展し、法皇は事件の処理を清盛に一任します。
こうした中、多田行綱の密告により、鹿ヶ谷の陰謀が発覚するのですが、その謀議もさりながら叡山との争いをこじらせた事も清盛の怒りを買う一因となったようです。一説には、西光の企てにより朝廷と叡山の板挟みになった清盛が、鹿ヶ谷での集会をことさらに言い立てて西光を罪に陥れ、これを処分する事によって叡山の怒りを鎮め事態の収拾を図ったのが、鹿ヶ谷の変の真相ではないかとも言います。
清盛の西光に対する怒りは凄まじく、尋問にあたってはその顔を蹴り上げたと言います。西光も負けてはおらず、清盛に対する悪口雑言を並べ立てましたが、ついには拷問の末、五条西朱雀で斬首に処せられてしまいました。
俊寛僧都 (1143年-1179)
後白河法皇の側近で法勝寺執行の地位にありました。僧都とは僧侶の階級の一つで、僧正の下、律師の上にあたります。また、僧都の中にも大・権大・中・権中・少・権少の6階級があって、俊寛はその中の大僧都でした。鹿ヶ谷にあった俊寛の山荘で平家打倒の密議が行われたことから、鹿ヶ谷の変と呼ばれる事になります。事件発覚後、俊寛は藤原成経、平康頼と共に鬼界ヶ島へと配流になり、その後、中宮徳子の安産祈願のための特赦として成経、康頼が許されて都に帰った際にも一人許されず、そのまま鬼界ヶ島で亡くなりました。俊寛は清盛に目を掛けられて大僧都にまでなったにも係わらず、首謀者の一人として密議の場所を提供していた事から、よほど清盛の深い恨みを買ったものと思われます。
同じ罪で流されながら、配流地に唯一人残された俊寛の悲劇は、世阿弥の「俊寛」、近松門左衛門の「平家女護島」、芥川龍之介の「俊寛」などに描かれ、世に広く知られるところとなっています。
平康頼(生没年不詳)
後白河法皇に仕えた北面の武士。検非違使左衛門尉を勤めた事から、「平判官」の通称があります。義経の「九郎判官」と同じですね。鹿ヶ谷の変で連座し、俊寛・成経と共に鬼界島に流されました。この途中、周防で出家して性照と号しています。鬼界島では、成経と共に熊野三所権現を勧請して帰洛を願ったと言います。また、京に住んでいる老母を偲んで「思いやれしばしと思ふ旅だにも なほふるさとは恋しきものを」と「さつまがた沖の小嶋に我ありと 親には告げよ 八重の潮風」という2首の歌を千本の卒塔婆に書き、都に届けと祈念して海に流したところ、その内の1本が安芸の厳島神社へ流れ着きました。たまたま厳島へ来ていた康頼と親しい僧がこれを拾って都へ持ち帰り、康頼の母の下に届けてやります。この話が法皇の知るところともなり哀れと思し召し、翌年に行われた大赦の際に、康頼を含めるきっかけとなったと言います。都に帰った後は、東山の双林寺にあった自分の別荘に住んで、仏教説話集「宝物集」を編纂しています。またさらに後には、源頼朝の推挙により阿波麻殖保の保司に補されました。
平家物語に描かれた鹿ヶ谷の変の様子は、謀略というほどのものではなく、瓶子を平氏になぞらえてこれを倒したり、首を取ったりしたという他愛もないもので、ほとんど酒の席の戯れ言に等しい内容です。打倒平氏の具体的な兵力としても多田行綱ぐらいなもので、とても平家を相手に戦えるようなものではありませんでした。このことから、西光法師の項で触れたように、叡山とのもめ事を収める為に清盛が仕掛けた罠だったという見方も出て来ます。
ただ、清盛にしてみれば法皇までが謀議に加わっていた事は大きな痛手だったに違いありません。この事件以前の法皇は、その権力を維持するために平家を頼りとし、また、平家の側もそれを利用して勢力を伸してきました。いわば持ちつ持たれつの関係にあったのですが、建春門院滋子の死をきっかけに、法皇が大きくなりすぎた平家を疎み、敵に回った事がはっきりとします。清盛にしてみれば魔法の杖を失った様なもので、この後の平家は迷走を繰り返し、破滅の淵へと追いやられる事になっていきます。「鹿ヶ谷の変」は、事件としては大したものではなかったのですが、平家滅亡のきっかけを作った歴史的な出来事だったと言えるのかも知れません。
左の写真は、上から順に、鹿ヶ谷山荘跡への登り口にある碑、石碑の近くにある道標、道標付近の様子を写したものです。上り口は哲学の道近くの霊鑑寺の横にあたり、山荘への道は大文字山へと続く急坂となっています。道の途中には民家もあり、大文字温泉という料理旅館もあったりしますが、道標のあたりから全くの山中となっています。私はここで引き返してしまったのですが、実際の石碑はさらにこの奥にあったようですね。もし行かれるのなら、しっかりとした運動靴を履いていかれる事をお勧めします。
この項は、別冊歴史読本「源氏と平氏」、宮尾登美子「宮尾本 平家物語」、義経デジタル文庫を参照しています。
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