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2005年3月

2005.03.30

義経 12の3

義経 第12回 「驕る平家」その3

1179年(治承3年)7月29日に、42歳の若さでこの世を去った重盛。

平家物語に描かれた重盛の死は、ドラマとはかなり様子が違っています。熊野詣に出かけた重盛は、父清盛の悪行により平家一門に災いが及ぶ事を恐れ、その行いが改まる様に祈願しています。そしてそれが叶わないなら、自らの命と引き替えに、来世での苦しみを助けてくれるようにと願いました。程なく病に罹った重盛は、病は願いが叶った結果であるとして治療や祈祷を拒否し、清盛が遣わそうとした宋人の医師も、異国人を都に入れては国の恥だとして断ってしまいます。そして、出家した数日後にこの世を去ったのでした。

清盛に意見を言える唯一の存在であった重盛の死は、栄華を極めていた平家に暗い影を落とす事となります。

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2005.03.29

義経 12の2

義経 第12回 「驕る平家」その2

盗賊として捕らえたむじなの手首を落とせと命じる時忠。

時忠は、検非違使の別当を3度に渡って勤めており、そのつど都の警備の責任者となっていました。彼の武勇伝の一つとして、都を騒がせていた盗賊団を捕らえ、その全員(12名とも)の手首を切って落としたという話が伝えられています。公家の出であり、策謀家として知られる時忠としては、珍しい逸話と言えるのかも知れません。

清盛の耳役となった五足。

五足は、「宮尾本 平家物語」に出てくる創作上の人物です。五足とは、「何事も半分で満足せよ」という意味を込めて、職人だった彼の父親が付けた名前です。その父親が病で死に、そのすぐ後に母と妹は鴨川の水害で亡くなり、孤児となりました。彼は生きるために盗人となり、お徳の店の組紐を盗りに入った所を捕まって、以後お徳の下で働く様になります。
原作での年齢はドラマよりずっと若く、10代の前半という設定になっています。そしてドラマと決定的に違うのは、最初から親平家の人物として描かれている事ですね。彼はお徳の推薦で平家の禿童の一人となり、特に優秀な実績を上げた事が買われて、清盛の耳役に抜擢されるという筋書になっています。この耳役というのも、宮尾本の創作でしょうね。
このドラマのくだりは徹底した平家嫌いだった五足を、あっという間に自分の下に惹き付けてしまう清盛の大きさと人間的魅力が上手く表現されていたと思います。

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2005.03.28

義経 12

義経 第12回 「驕る平家」

越後の国で、木曽義仲と邂逅した義経の一行。

義経と義仲が出会ったというのは、宮尾登美子、村上元三のどちらの原作本にも無く、このドラマオリジナルの創作ですね。村上元三の「源義経」では、義経が同姓の義仲を討つ事にためらいを覚えるという設定になっています。

義仲を追い回していた女武者とは巴御前。頼朝の兄義平に父親を討たれた義仲を、木曽谷において庇護した中原兼遠の娘です。義仲とは幼い頃から共に育った中で、長じては事実上の夫婦となったのですが、子が出来ない事から巴の兄の今井兼平の娘である甲(きのえ)を義仲の正妻に迎えたと、宮尾本「平家物語」にあります。ドラマはこの原作本の設定に依っているのですね。
ただ、義仲の正妻が誰であったかについては、巴御前とする説、山吹御前とする説など諸説があり、はっきりした事は判っていないようです。

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2005.03.27

鹿ヶ谷の変@義経

sisigatani11平家全盛の世にあって、その膝元で湧き起こった平家覆滅のはかりごと。それが鹿ヶ谷の変と呼ばれる事件です。
1177年(治承元年)6月、多田行綱の密告により事件は発覚しました。それによれば、京都東山山中「鹿ヶ谷」にあった俊寛僧都の別荘に、藤原成親、西光法師、平判官康頼といった後白河法皇の近臣達が何度も集まり、平家を滅ぼさんとする陰謀を話し合ったと言います。多田行綱もこの席にあり、摂津源氏を率いる行綱は、平家打倒のための戦力として最も期待された武将でした。しかし、平家の武力の強大さを知る彼は計画の無謀さを悟り、いち早く平清盛に訴え出て、身の安全の保証を願ったのです。

ここで、関係する人物の整理をすると、次の様になります。

藤原成親(1138-1177)
鳥羽上皇の寵臣であった藤原家成の三男。「芙蓉の若殿上人」と称され、後白河法皇の寵愛を受けました。権大納言正二位。清盛の嫡男重盛の正室経子は妹、重盛の嫡男維盛は娘婿にあたります。さらに、成親の嫡男成経には、清盛の弟である教盛の娘菊子が嫁いでいます。このように、平家一門とは非常に濃い繋がりを持った人で、平治の乱では藤原信頼に連座して罪に問われたのですが、重盛にすがってって死罪を免れています。
この成親が何故平家打倒の謀議に加わったのかと言えば、官職を巡って平家と争い敗れた事が直接の原因とされます。成親は空位となった右近衛大将の地位を望んだですが、これを清盛の次男である宗盛に奪われてしまいます。この事を恨みに思い、さらに普段からの平家の増長ぶりも腹に据えかねていたのでしょう、反平家の中心人物となるに及びます。事件発覚後は、重盛のとりなしにより死罪一等を免ぜられて備前国に配流になりますが、のち配流地において殺害されてしまいした。

西光法師(生年不詳 -1177年)
俗名は藤原師光。麻殖為光の子で、藤原家成の養子。成親とは義理の兄弟にあたります。保元の乱の後に権力を握った信西の家来となり、左衛門尉にまで昇りましたが、平治の乱で信西が死ぬとそれをきっかけに出家して、後白河法皇に仕えました。非常に優れた才覚の持ち主で、法皇の側近としては第一人者の地位を占めるに至ります。
鹿ヶ谷の変では、成親と並んで打倒平家の首謀者となりますが、その理由は朝廷から平家を排除し、法皇の権力を旧に復するためだったと言われます。
この西光については、鹿ヶ谷の変に先立ち、子の藤原師高が所領の加賀国を巡って比叡山と紛争を起こしています。師高の振る舞いに怒った比叡山の大衆は朝廷に強訴するに及び、その圧力に屈した朝廷は師高を尾張国に配流させてしまいます。しかし、父である西光は収まらず、後白河法皇に直訴して天台座主明雲の天台座主職を停止させ、伊豆国に流罪とさせます。ところが、明雲は配流される途中で叡山の衆徒に奪回されるという事態に発展し、法皇は事件の処理を清盛に一任します。
こうした中、多田行綱の密告により、鹿ヶ谷の陰謀が発覚するのですが、その謀議もさりながら叡山との争いをこじらせた事も清盛の怒りを買う一因となったようです。一説には、西光の企てにより朝廷と叡山の板挟みになった清盛が、鹿ヶ谷での集会をことさらに言い立てて西光を罪に陥れ、これを処分する事によって叡山の怒りを鎮め事態の収拾を図ったのが、鹿ヶ谷の変の真相ではないかとも言います。
清盛の西光に対する怒りは凄まじく、尋問にあたってはその顔を蹴り上げたと言います。西光も負けてはおらず、清盛に対する悪口雑言を並べ立てましたが、ついには拷問の末、五条西朱雀で斬首に処せられてしまいました。

sisigatani12俊寛僧都 (1143年-1179)
後白河法皇の側近で法勝寺執行の地位にありました。僧都とは僧侶の階級の一つで、僧正の下、律師の上にあたります。また、僧都の中にも大・権大・中・権中・少・権少の6階級があって、俊寛はその中の大僧都でした。鹿ヶ谷にあった俊寛の山荘で平家打倒の密議が行われたことから、鹿ヶ谷の変と呼ばれる事になります。事件発覚後、俊寛は藤原成経、平康頼と共に鬼界ヶ島へと配流になり、その後、中宮徳子の安産祈願のための特赦として成経、康頼が許されて都に帰った際にも一人許されず、そのまま鬼界ヶ島で亡くなりました。俊寛は清盛に目を掛けられて大僧都にまでなったにも係わらず、首謀者の一人として密議の場所を提供していた事から、よほど清盛の深い恨みを買ったものと思われます。
同じ罪で流されながら、配流地に唯一人残された俊寛の悲劇は、世阿弥の「俊寛」、近松門左衛門の「平家女護島」、芥川龍之介の「俊寛」などに描かれ、世に広く知られるところとなっています。

平康頼(生没年不詳)
後白河法皇に仕えた北面の武士。検非違使左衛門尉を勤めた事から、「平判官」の通称があります。義経の「九郎判官」と同じですね。鹿ヶ谷の変で連座し、俊寛・成経と共に鬼界島に流されました。この途中、周防で出家して性照と号しています。鬼界島では、成経と共に熊野三所権現を勧請して帰洛を願ったと言います。また、京に住んでいる老母を偲んで「思いやれしばしと思ふ旅だにも なほふるさとは恋しきものを」と「さつまがた沖の小嶋に我ありと 親には告げよ 八重の潮風」という2首の歌を千本の卒塔婆に書き、都に届けと祈念して海に流したところ、その内の1本が安芸の厳島神社へ流れ着きました。たまたま厳島へ来ていた康頼と親しい僧がこれを拾って都へ持ち帰り、康頼の母の下に届けてやります。この話が法皇の知るところともなり哀れと思し召し、翌年に行われた大赦の際に、康頼を含めるきっかけとなったと言います。都に帰った後は、東山の双林寺にあった自分の別荘に住んで、仏教説話集「宝物集」を編纂しています。またさらに後には、源頼朝の推挙により阿波麻殖保の保司に補されました。
 

sisigatani15平家物語に描かれた鹿ヶ谷の変の様子は、謀略というほどのものではなく、瓶子を平氏になぞらえてこれを倒したり、首を取ったりしたという他愛もないもので、ほとんど酒の席の戯れ言に等しい内容です。打倒平氏の具体的な兵力としても多田行綱ぐらいなもので、とても平家を相手に戦えるようなものではありませんでした。このことから、西光法師の項で触れたように、叡山とのもめ事を収める為に清盛が仕掛けた罠だったという見方も出て来ます。
ただ、清盛にしてみれば法皇までが謀議に加わっていた事は大きな痛手だったに違いありません。この事件以前の法皇は、その権力を維持するために平家を頼りとし、また、平家の側もそれを利用して勢力を伸してきました。いわば持ちつ持たれつの関係にあったのですが、建春門院滋子の死をきっかけに、法皇が大きくなりすぎた平家を疎み、敵に回った事がはっきりとします。清盛にしてみれば魔法の杖を失った様なもので、この後の平家は迷走を繰り返し、破滅の淵へと追いやられる事になっていきます。「鹿ヶ谷の変」は、事件としては大したものではなかったのですが、平家滅亡のきっかけを作った歴史的な出来事だったと言えるのかも知れません。

左の写真は、上から順に、鹿ヶ谷山荘跡への登り口にある碑、石碑の近くにある道標、道標付近の様子を写したものです。上り口は哲学の道近くの霊鑑寺の横にあたり、山荘への道は大文字山へと続く急坂となっています。道の途中には民家もあり、大文字温泉という料理旅館もあったりしますが、道標のあたりから全くの山中となっています。私はここで引き返してしまったのですが、実際の石碑はさらにこの奥にあったようですね。もし行かれるのなら、しっかりとした運動靴を履いていかれる事をお勧めします。

この項は、別冊歴史読本「源氏と平氏」、宮尾登美子「宮尾本 平家物語」、義経デジタル文庫を参照しています。

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2005.03.25

義経 11の2

義経 第11回 「嵐の前夜」その2
中宮徳子の出産を前に、生まれてくる子がたとえ姫であっても、男子として育てる決意を示す時子。

時子が生まれてくる子を男子として育てようとした話は、宮尾本「平家物語」に出て来ます。他の物語等には無いと思いますので、原作本のオリジナルの設定と思われます。それともどかに原型があるのかな...。平家物語では、胎内の女子を男子に変える呪法を行ったとありますね。

平家の一門の女性達が総出で作り、後白河法皇までもが手を汚した五輪塔。

この五輪塔は実際に存在し、六波羅蜜寺の本堂の下から出土しています。「山槐記」などに徳子が懐妊した時に、男子の出生を祈願して六波羅蜜寺で泥塔が作られたという記録があり、ドラマではそれを平家の女人が作った事にしてあるのですね。出土した泥塔は8000基に上り、男子出生に賭けた平家の執念が感じられます。

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2005.03.23

義経 11

義経 第11回 「嵐の前夜」

しのぶ殿との縁談を断った義経にからむ佐藤忠信。

これは、細かい設定は異なりますが、村上元三の「源義経」に出て来ます。小説では、蝦夷の民との争いを収めた事で男を上げた事になっていますが、いずれにしろ義経の存在がにわかに認めらる様になったという事ですね。
史実では、奥州時代の事は何も判っていませんが、司馬遼太郎の「義経」では、奥州では都の血を欲しがったとあり、似たような事はあったかもしれませんね。
佐藤兄弟は、いずれも義経の股肱の臣となり、義経のために命を落とす事になっていきます。

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2005.03.17

義経フィギュア「義経風雲録」

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うなりを上げて襲う弁慶の長刀を、軽やかに宙を舞ってかわす遮那王。

大河ドラマのシーンを彷彿とさせるフィギュアは、カバヤから発売されている「義経風雲録」シリーズのうちの一体。色黒く、いかめしい顔が迫力満点の弁慶と、まるで少女と見紛う遮那王は、絵草紙から抜け出て来た様でもありますね。

義経のフィギュアのシリーズはもう一つあって、フルタから「新歴史浪漫 義経 -源平争乱-」が出されています。フルタがリアルな造形を打ち出しているのに対し、カバヤはご覧のとおりマンガチックな造り。どっちが良いかは、好みに依るでしょうね。ちなみに、カバヤはソフトビニール製です。

このフィギュア、写実的では無いにもかかわらず、五条大橋の対決シーンを見事に活写しており、手元に置いてみるとなかなかの出来ですよ。伝説の中の義経を見るには、良いシリーズかも知れません。


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2005.03.14

義経 10

義経 第10回 「父の面影」

奥州平泉に到着した義経の一行。

ドラマでは、吉次の判断で義経を奥州に連れてきた事になっていますが、これには義経の母常盤の再婚相手である一条長成が絡んでいるのではないかという説があります。長成の従兄弟に藤原基成という人物が居るのですが、基成は鎮守府将軍として奥州に赴き、そのままその地に居着いています。そしてその娘が秀衡の正室となり、泰衡を生みました。長成はその奥州藤原家と縁の深い基成と連絡を取り、秀衡に義経を庇護してくれる様段取りを付けたのではないかと考えられています。ドラマの原作の「宮尾本 平家物語」でも、ほぼこの説を採られていますね。ドラマではひたすら人が良いだけの長成ですが、実際には意外なやり手だったのかも知れません。

歓迎の宴の席で、居眠りをしてしまう義経。

この義経が宴の席で眠りこけたという話は、村上元三の「源義経」に出て来ます。ここで違うのは泰衡、国衡、忠衡と義経との関係で、村上義経では泰衡とは冷たい関係、国衡、忠衡とは親密な関係として描かれている点ですね。ちなみに、秀衡の長男は国衡で嫡男とされる泰衡は次男です。なぜか奥州藤原家では次男が家督を相続する事になっており、当主の秀衡もまた次男でした。秀衡は長男の国衡を納得させるために、泰衡の母、すなわち自分の妻を子の国衡の妻にしたと言います。これにより国衡は、泰衡の兄でありながら義父でもあるという位置に着いたという訳ですが、今から考えるとなんとも異常な世界ではありますね。以後、この兄弟達がどのように描かれていくかが、このドラマの見所の一つになると思われます。

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2005.03.11

義経 9の3

義経 第9回 「義経誕生」その3
次々に義経の家来となる伊勢三郎、駿河次郎達。

「蟹」と呼ばれながら、晴れて義経の家来となった伊勢三郎。彼は「吾妻鏡」にもその名が見える実在の人物です。その出自には諸説があり、
・伊勢に生まれ、上野国荒蒔郷に住んでいた。「源平盛衰記」
・父が伊勢二見のかんらひ義連という大神宮の神主。義連が罪を得て上野国に流され、その地の妻女の子として生まれた。「義経記」
・伊勢国の目代に付いて、上野国松井田に下った者。「平治物語」
・日光育の児。「長門本平家物語」
などが主なところです。「義経記」や「源平盛衰記」では、彼を盗賊としており、奥州下りの際に宿を取った義経と相知る様になり、その家臣となったとあります。また「平治物語」では盗賊とされておらず、彼を大剛の者であると見込んだ義経が烏帽子親となり、「義盛」の名を与えたとされています。平家物語や源平盛衰記では弁慶以上の活躍をしており、有能な家臣の一人だったと見る事が出来そうです。

義経を奥州まで送った駿河次郎。「義経記」や「源平盛衰記」にその名が見えますが、実在したかどうかは怪しいところがあります。これらの物語では捕虜を斬ったり、雑色として使者になったりする程度でほとんど活躍していないのですが、江戸期の歌舞伎や舞で活躍の場を与えられ、義経四天王の一人にまで出世?しています。

義経の馬取りを勤める喜三太。彼もまた「義経記」に登場する人物で、「下なき下郎」ながら、不意を討たれた義経を守って奮戦する勇者として描かれています。そして、後の歌舞伎などで取り上げられ、さらなる重要人物となったのも駿河次郎などと同じです。

このドラマにおける彼らのキャラクター設定や、いささか大時代がかった臣従の過程などは、概ね村上元三の「源義経」のストーリーに沿ったものです。このドラマにおいては、この下りのみならず、村上義経の設定はそこかしこに取り入れられており、たとえば、うつぼの存在や覚日の性格、弁慶が叡山を追われた際の設定など、かなりの部分にその影響が見られます。宮尾本「平家物語」は、その名のとおり平家を中心に描かれた小説であり、特に義経の前半生に触れた部分はわずかであることから、義経を主役とするドラマを作るには無理があったのでしょうね。これまでの展開を見る限り、宮尾平家と村上義経の合作というのがこのドラマの骨格となっている様です。


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2005.03.09

義経 9の2

義経 第9回 「義経誕生」その2

尾張の国で、自らの手で元服を行った義経。

元服は男子が成人する為の儀式で、取り分け武家においては最も重要なものとされていました。通常は、烏帽子をかぶせる烏帽子親の他、加冠役など複数の人数を必要とし、義経の様に自ら元服を行うのは異例中の異例です。特に、烏帽子親とは親子関係が結ばれ、将来に渡ってその庇護を受ける事となる大切な存在でした。ですから、誰でも良いという訳ではなく、一族縁者の中から有力者を選ぶのが常でした。後には、主君がなる事もあった様ですね。ドラマで吉次が秀衡に頼んではどうかと言っていたのは、これからは秀衡に後ろ盾になって貰えという謎掛けでもあった訳です。

義経が元服した地として伝わるのは2カ所あり、一つは近江国鏡宿(竜王町)、もう一つが尾張国熱田神宮です。前者を採るのは平治物語、謡曲「烏帽子折」など、後者を採るのは「義経記」です。どちらも盗賊退治とセットになっていて、義経記だけが盗賊退治後に元服、他は全て元服後に盗賊退治をしたとされています。このドラマでは、義経記に近い設定になっているのですね。このほか、「吾妻鏡」の記述から、鞍馬寺を出てすぐに元服したとする説もあります。

源九郎義経。この九郎という名にも、ドラマにあった様に9番目の子だから九郎と名乗ったとする説と、実際には8番目の子だったのですが、武勇に優れた叔父の八郎為朝に遠慮して九郎と名乗ったとする説(義経記)があります。手元の資料に記載されている系図を見ると9番目の子になっており、現在では9男だから九郎とする説を採る方が有力な様ですね。

元服一つとっても様々な伝説に包まれているのが、いかにも義経らしいと言えるのかもしれません。

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2005.03.08

義経 9

義経 第9回 「義経誕生」

義経を襲った熊坂長範。

熊坂長範は、平安時代末期に、美濃、近江、伊勢の境あたりに居たとされる盗賊です。様々な伝説の中で語られていますが、実在したのかどうかは不明です。その中の一説として、このドラマの様に吉次の隊商を狙ったところ、その中にいた牛若の為に返り討ちにあったというものがあります。それを受けて作られたものか、能の「熊坂」では幽霊となった長範が現れ、吉次を襲って牛若に斬られた経緯を語るというストーリーになっています。昔から石川五右衛門と並んで日本史上最大の盗賊として知られており、中には金持ちばかりを狙い、貧乏人にその分け前を恵んでいたという義賊とする伝説もあるようですね。そう言えば、寅さんが使う口上に、「泥棒の始まりは熊坂の長範」というのが有りましたね。

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2005.03.04

京都 蹴上 義経地蔵@義経

yositunejizou11

京都の南禅寺の南にある京都疎水のインクライン。その船だまりのほとりにあるのが、この義経地蔵です。正しくは、「義経大日如来」。この地蔵には、義経の旅立ちに係わる伝説がまつわります。

遮那王が奥州に向かうため、吉次達と共に鞍馬を発ち、粟田口から九条山の坂に差し掛かった時の事でした。坂の上から馬に乗った平家の武者9人が駆け下りて来ます。すれ違い様、武者の乗った馬が水たまりの水を跳ね上げ、遮那王に掛けてしまいました。遮那王は無礼を詫びる様に迫りますが、武者達は平家の威光を笠に着て、返って居丈高な態度に出ます。怒った遮那王は、吉次の止めるのも聞かず、あっという間に9人の武者達を次々と倒してしまいました。全てが終わった後、冷静になってみると遮那王は、自分の倒した武者達が哀れになってきます。そこで遮那王は、街道沿いに9体の地蔵を建てて供養とし、彼らの菩提を弔いました。この地蔵はそのうちの一体と伝えられているものです。

この付近の地名を「蹴上(けあげ)」というのですが、武者の乗った馬が水を「蹴上げた」事からこの地名が始まったとも言います。よくよく義経と因縁が深い地ではありますね。

この地蔵がある場所は「インクライン疎水公園」となっており、インクライン沿いに桜が沢山植わっていて、花の名所の一つになっています。四月に京都を訪れる機会があれば、この地蔵を訪ねがてら歩かれると良いですよ。

本当に素敵な桜並木ですから。

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2005.03.02

義経 8

義経 第8回 「決別」その3

sanjyuusangendou

蓮華王院にて、清盛と別れを告げる遮那王。

史実では清盛と遮那王が会ったという事はなく、またどの物語にも現れない全くのフィクションなのですが、このドラマのコンセプトからすれば、最も重要な場面だったと言えるのでしょうね。清盛を慕う遮那王と、全てをわきまえた上で遮那王を見ようとしない清盛。両者の心情と立場の違い、清盛の大きな人間像と独り立ちする遮那王の姿が描かれた、見応えのあるシーンだったと思います。

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