京都三条 「弁慶石」@義経
京都の三条通を寺町京極から西へ入った所にあるビルの一階に、場違いな感じで据え付けられた巨石があります。それがこの弁慶石。弁慶が比叡山(あるいは五条橋)からここまで投げた石だとも、洪水で鞍馬から流れ着いた石だとも言われますが、当地に伝わる話はまた違うようです。
弁慶は、幼少の頃、三条京極のあたりに住み、この石を熱愛していました。弁慶が死んだ後、奥州高館にあったこの石が発声鳴動して、「京都三条へ往かむ。」と言い出します。それと時を同じくして在所では熱病が蔓延したため、土地の人は恐れてこの石を三条京極寺へと移し、以後このあたりを弁慶石町と呼ぶ様になりました。(以上、石の脇にある説明文からの要約)
この話があったのは1454年(享徳3年)の事とありますから、弁慶の死後265年後、鎌倉幕府もとうに滅び去った足利義政の治世の出来事ですね。「義経記」の成立から暫く経ってますから、その影響を多分に受けて作られた伝説なのでしょう。
「義経記」によれば、弁慶は熊野の別当「弁せう(昌)」の嫡子とあります。母の胎内にある事18月、生まれた時には既に2、3歳児並の体格があり、髪は長く伸び、歯も生えそろっていました。これを見た父弁せうは、「これは鬼の子である。長ずれば仏敵となるので、今の内に水に沈めるか山で磔にせよ。」と命じますが、生みの母と叔母のとりなしによって助けられ、「鬼若」と名付けられました。そして叔母に預けられて、京都で育てられる事になります。
「義経記」では京都のどこに住んだとは書かれていないのですが、弁慶石の伝説はそこを逆手に取って、幼少期をここで過ごしたと主張したのでしょうね。それにしても、今でも地名として残っているとはただ事ではありません。弁慶という名には、それほどの重みが伴っているという事なのでしょうか。
大河ドラマ「義経」もいよいよ序盤のクライマックス、義経と弁慶の橋上の戦いです。「義経記」においては、義経をも凌ぐ主役として扱われている弁慶をこれからどう描いていくのかが、このドラマの今後の見所の一つとなっていきそうです。
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コメント
地名にもなり、童謡にも出てくるぐらい弁慶という人物は人々に親しみのある人なのでしょうね。
小学生で「京の五条の橋の上~♪」と歌ってた時は牛若丸=義経とは知らず。。。(笑)
意外と弁慶の方が有名なのかもしれません^^
投稿: 修子 | 2005.02.07 13:05
修子さん、コメントありがとうございます。
弁慶石というのは、ここだけではなく全国各地にあるようですね。またベンケイソウやベンケイガニといった生物は居ますが、ウシワカソウとかヨシツネガニというのは聞きません。語呂の問題もあるでしょうけど、大きくて強いという判りやすいイメージが、義経より親しみを持ちやすいのかも知れませんね。
投稿: なおくん | 2005.02.07 18:07