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2005.02.24

激怒する重盛~殿下乗合事件~@義経

okazaki11

我が子維盛と資盛が公家から辱めを受け、激怒する平重盛。普段思慮深い彼に似合わぬ所作ですが、それだけに怒りの激しさが伝わってきます。

史実でもこれに似た事件があります。それが殿下乗合事件。1170年(嘉応2年)の出来事です。この事件には「平家物語」と「玉葉」の二通りのパターンがあり、それぞれ微妙にシチュエーションが異なります。

まず平家物語。そこでは、10月16日の出来事として、次の様に語られています。
資盛(当時13歳・越前守)は、まだ10代の若い侍ばかりを連れて鷹狩りに出かけます。そしてその帰り道、大炊御門猪熊という所で、参内途中であった摂政藤原基房の行列と鉢合わせになります。本来なら格下の資盛が下馬の礼を取るべきであったのですが、若くて礼儀知らずの彼らは、基房の家来達が「馬から降りよ。」と言うのも聞かず、平家の威光を笠に着て行列を駆け破って通り抜けようとします。あまりの無礼に怒った基房の家来達は、暗くなっていたこともあって相手が清盛の孫とは気づかず、また薄々は知りながらも気づかぬ振りをして、資盛達を馬から引きずり落とし、大いに辱めました。
六波羅に逃げ帰った資盛は、事の次第を祖父清盛に訴えます。清盛は大いに怒り、これは平家に対する侮辱であるとして報復の為に基房の屋敷に兵を差し向けようとしました。しかしこれを聞いた重盛が清盛邸に駆けつけ、「相手が頼政などの源氏ならともかく、殿下の前で下馬の礼を取らない資盛の方に非がある。」と言って清盛を諫め、資盛と一緒にいた供の侍達にも「こちらから無礼を謝らなければならないくらいだ。」と説諭して帰らせました。
しかし、清盛の怒りは収まらず、重盛に内緒で侍を集め、21日、300騎の兵に命じて参内する基房の一行を襲撃させました。兵達は基房の家人を捕まえては引き倒し、それぞれのもとどり(髪の毛)を切り落としてしまいます。さらに、基房の牛車の簾を落とすという狼藉まで働き、鬨をあげて六波羅に引き揚げて行きました。
後から事の次第を知った重盛は大いに驚き、まず基房を襲った侍達を罰します。そして、13歳にもなりながら分別もわきまえずに狼藉を働き、いたずらに清盛の悪名を立ててしまったとして、我が子資盛を伊勢国に追いやり謹慎させてしまいます。これを聞いた人々は重盛の振る舞いに大いに感心したという事です。

次いで、後に摂政を務めた藤原兼実の日記「玉葉」にある記述。
七月三日、基房は当時岡崎の地にあった法勝寺に参ろうとしていました。その途中、彼の行列は女車に乗った資盛と出会います。ここで理由は良く判らない(書いていない)のですが、基房の舎人居飼等が資盛の車を襲い、うち破るなどの恥辱を与えます。基房は屋敷に帰るとすぐに、乱暴を働いた舎人や居飼を重盛に引き渡すべく使者を出しますが、激怒した重盛はそれを拒否します。報復を恐れた基房は自ら関係者を処分しますが、重盛の怒りはなおも収まりません。
基房は三ヶ月もの間外出を控えていたのですが、10月21日、高倉天皇の元服の儀式の打ち合わせために参内しようとした基房の行列を、何者かが襲撃します。基房の家人のうち前駈5人が馬から引きずり落とされ、4人がもとどりを切られました。基房は参内を中止せざるを得ず、朝議は延期になります。玉葉では襲った者は重盛だとは書かれていないのですが、「愚管抄」に「小松内府(重盛)は不可思議の事を一つしたり。」とあり、暗に重盛が襲撃者だと指摘しています。

平家物語では、無礼を働いたのは資盛達の方で、直接報復したのは清盛。重盛はむしろなだめ役に周り、至らぬ我が子をも罰しています。対して玉葉では、故無く襲われたのは資盛の方で、これに激怒した重盛が執拗に報復の機会を狙い、遂に復讐に成功するという筋書きになっています。どちらが正しいかというと、同時代資料である玉葉の方に軍配が上がるのでしょうね。そして、ドラマでも怒りに駆られた重盛が兵を動かすという筋書きになりそうです。

ただ、ここで良く判らないのが、史実ではその場に居なかった維盛が言った「先年の騒ぎ」と、重盛が言った「またしても」という言葉です。そして、喧嘩の相手は基房ではなく三位でした。この三位って誰の事?

素直に受け取れば、この出来事は史実にある殿下乗合事件の後再び起こった同様の事件で、我慢に我慢を重ねていた重盛もついに堪忍袋の緒が切れ、あえて暴挙に走ったという筋書きになるのでしょうか。そして、うがった見方をすれば三位とは頼政の事?いくら何でも、それはないかな。

なぜ史実を曲げてあえてこういう筋書きにしたのかは、次の回を見てみないと何とも言えませんね。でもこれ以降、驕る平家というシチュエーションが鮮明になってくるのだけは間違いないでしょう。平家物語でも、これが平家の悪行の始まりとされていますからね...。

上の写真は事件の舞台となった岡崎の現状。正面は平安神宮、基房が参内しようとしていた法勝寺は、この右手の京都市動物園のあたりにあったとされます。法勝寺は1077年(承暦元年)に白川法皇の御願寺として立てられた寺で、岡崎の地にはこの寺を中心に尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺の6ヶ寺が建ち並び六勝寺と称されていました。中でも法勝寺は最大の規模を誇り、広大な池に囲まれた小島に、高さ20mを越す八角九重の塔が建っていたと言います。のち、落雷や火災で六勝寺は全てが失われ、今ではわずかに石碑にその名残を留めているに過ぎません。

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