義経と弁慶 遭遇の地@義経
「京の五条の橋の上~♪」という唱歌の歌詞で知られた義経と弁慶の出会いの場である五条大橋。そこには、昨日の記事に掲げた様に牛若と弁慶の石像が飾られているのですが、義経当時の五条大橋が現在の松原橋だった事は、ドラマの最後の史跡紹介にあったとおりです。
こうなった原因は、義経からずっと時代が下った安土桃山時代に、豊臣秀吉が行った京都の都市改造にあります。秀吉は京都を城下町として作り直そうと考え、城壁と堤防を兼ねた御土居で洛中と洛外を区切り、平安京から続いていた坊城制町を改めて、鰻の寝床と呼ばれる町割りを作りました。町中の寺を集めて寺町を作ったのもこの時です。そして、新たに作った町割りに応じて通りの名を変え、元の五条通を松原通とし、六条坊門小路だった道を五条通としたのです。
では、松原橋で義経と弁慶が出会ったのかというと、必ずしもそうとは言い切れないようです。そもそも、義経と弁慶がどこで出会ったのかは、正史には出て来ません。諸説ある中で最初に書かれたのが義経記で、そうである以上伝説の域を出ないのですが、そこでは五条天神の近くで出会った事になっています。千本の刀を集める事を願掛けて999本まで集めた弁慶は、千本目の相手を待つ内に義経と出会います。義経は挑んできた弁慶を軽くあしらい、その胸を蹴って築塀の上に飛び上がり、持っていた太刀を足で踏みつけ折り曲げてしまってから弁慶に投げ与えます。そして、塀から飛び降り様に斬りかかってきた弁慶の太刀を、空中で止まって再び舞い上がるという六韜の秘術を使って交わします。
そして二人が次に出会うのが清水寺です。弁慶は清水寺の門前で義経を待ち伏せし、先夜の仕返しをしようと参拝に来た義経めがけて長刀で斬りかかるのですが、義経にまたも軽くあしらわれてしまいます。弁慶はなおも義経を追って本堂へ行き、その縁側(舞台?)でさんざんに戦うのですが、ついに義経に取り押さえられ、臣従を誓う事になります。
写真は、清水寺に伝わる弁慶の錫杖。大人でも持ち上げるのがやっとという重さと大きさがあります。これを軽々と振って迫ってこられたら、さぞ怖かった事でしょうね。
そして、こちらが弁慶の鉄下駄。普通の下駄より二回りは大きく、並の人なら歩く事は出来ないでしょうね。実際には、どちらも明治期に修験者が清水寺に寄付したもので、弁慶とは縁もゆかりもないものなのですが、そう信じたくなるような迫力があります。
ここで、牛若あるいは遮那王とせずに義経と書いたのは、「義経記」では弁慶と出会ったのは、遮那王が義経となって奥州に下った後、都の様子を見に来た時の話として描かれているからです。これが謡曲の「橋弁慶」では鞍馬入山以前、御伽草子「橋弁慶」では鞍馬時代とされています。場所は共に五条橋(松原橋)。また、御伽草子では千人斬りを行っていたのは弁慶ではなく牛若の方となっており、その評判を聞き込んだ弁慶が牛若退治に現れて返り討ちに合うというストーリーになっています。
まだ他にもいくつかのパターンがあるようですが、この様に弁慶の出会い一つとっても様々なストーリーが語り継がれ、しかもその全てが伝説であり、どれが最も正しいとは言い切れないところに「義経」の特長の一つがあると思います。言い換えれば、どう描いたとしても間違いにはならず、ドラマの様に陰陽師の技を使うのもありと言う事になりますね。
このドラマは、そういったケレン味もそのまま受け入れて、演出を素直に楽しむのがコツの一つかなという気がします。
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