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2005年2月

2005.02.25

京都・花灯路 お食事処あれこれ

徒然なるままに」のMilkさんも予定されている「京都・花灯路」。開幕まで後2週間に迫りましたね。うーん、楽しみ、楽しみ。そのMilkさんとのコメントのやりとりの中で出て来たのが、周辺のお食事処。お勧めの所はないかしらんとの事なのですが、コメントで返すには少々長くなりそうなので、新たな記事としてアップします。

正直言って、お勧め出来る店というのはそうないのです。なぜかというと、東山周辺の店は無闇と高いのですよね。家族で行って、気軽に楽しめる店となると数えるほどしか無い様な...。

そんな中で、私の知っている範囲で掲げてみます。

まず、円山公園。
ここで、最も有名な店は「いもぼう」の平野家。海老芋と棒鱈の炊き合わせなのですが、京都を代表する料理の一つです。こう聞くとなんだか今ひとつの様な気がしますが、食べてみると結構美味しいですよ。いもぼう御膳が2400円。ただ、娘さん好みではないかも知れませんね。

次に、まだ寒さは残っていますから、湯豆腐はどうでしょうか。平野家から西へ行ったところにある利久庵の湯豆腐はなかなか美味しいですよ。一人前1500円から。本にがりを使った豆腐だと1800円。この界隈では、割と安い部類に入ると思います。

昼間に行けるなら、石塀小路の「玉半」という手もあります。ここは高級料理旅館なのですが、12時から14時30分の間なら、「一汁三菜」が2500円で食べられます。ちなみに、昼の懐石料理は6000円。

玉半の近くの「ひさご」は親子丼が有名。ここは混んでいる事が多いですが、値段は850円と手頃です。

三年坂で有名なのが、湯豆腐の「奥丹」。ここの豆腐は自家製の手作り。田楽や精進揚げが付いて1人前3000円。

二年坂の「阿古屋茶屋」のお茶漬けバイキングも、流行っている事は流行っている様です。1200円。でも、いまいちだという人も居たなあ...。

三年坂を登り切ったところにある老舗小路にある「松葉」は、おそば屋さん。南座前にある店の支店ですね。にしん蕎麦が有名ですが、天ぷら蕎麦や丼ものもあったはず。この界隈では、値段と味のバランスを考えると、最も無難な店かも知れません。

わりとお勧めなのが、五条坂にある「ゆば泉」。湯葉ずくし「ゆば膳」は、ゆばご飯、湯葉の刺身、湯葉の佃煮など色々付いて1800円。こんな料理があるのかと、きっと驚きますよ。ただ、狭いのが難点なのですよね。もしかしたら、混んでいるかも知れません。営業は6時まで。

食事じゃなくておやつだったら、まず「文の助茶屋」。ここの甘酒は、酒粕ではなく米麹から造った本格的なものです。午後5時30分までですから、お早めに。

下河原にある鍵膳良房の「くずきり」もお勧めのひとつ。程よい甘さの蜜と歯触りの良いくずきりの組み合わせは絶妙ですよ。ここは午後6時まで。

二年坂の「かさぎ屋」は、以前に紹介したとおりぜんざいの美味しい店です。おやつにするなら、ここが一番のお勧めかな。

長楽寺の近くにある「紅葉庵」は、以前はあんみつの美味しかった店です。経営が長楽寺に移ったと聞いているのですが、店の雰囲気は変わっていないようですね。今は大納言付きの抹茶が出る様です。午後5時まで。

とりとめもなく、思いつくままに書いてみました。ここに上げたのは、主として花灯路の道筋にあるお店です。なるべくリーズナブルで、娘さんにも向きそうな店を選んだつもりですが、もう一つピンと来ないかも知れませんね。最初に書いたとおり、なにしろこの辺りは高いのですよね...。

他の人に聞くと、まだまだ私の知らない、安くて美味しい店があるかも知れません。ここに上げたのは、あくまで参考程度という事にして下さい。

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京都を駆ける静~京阪~@義経

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大河ドラマ「義経」に沸く京都。その町を駆け抜ける「静」。

実は、これは京阪電車のキャンペーン。「静」、「義経」、「弁慶」のキャラクターを施した特急電車が、京阪間を疾走しています。昨年は新選組の「誠」電車が走ってましたね。

京都へ行くたびにこの電車を撮ろうとチャンスを伺い、やっと四条駅で出会ったのがこの静号。あわててカメラを出したのですが、撮れたのはこれ一枚。両端の車両に描かれた顔は、残念ながらシャッターが下りなくて、撮る事が出来ませんでした。我が家のデジカメ、タイムラグが大きすぎ~!

絵が描いてあるだけで何という事もないのですが、こういう遊び心って結構面白いと思いません?

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2005.02.24

激怒する重盛~殿下乗合事件~@義経

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我が子維盛と資盛が公家から辱めを受け、激怒する平重盛。普段思慮深い彼に似合わぬ所作ですが、それだけに怒りの激しさが伝わってきます。

史実でもこれに似た事件があります。それが殿下乗合事件。1170年(嘉応2年)の出来事です。この事件には「平家物語」と「玉葉」の二通りのパターンがあり、それぞれ微妙にシチュエーションが異なります。

まず平家物語。そこでは、10月16日の出来事として、次の様に語られています。
資盛(当時13歳・越前守)は、まだ10代の若い侍ばかりを連れて鷹狩りに出かけます。そしてその帰り道、大炊御門猪熊という所で、参内途中であった摂政藤原基房の行列と鉢合わせになります。本来なら格下の資盛が下馬の礼を取るべきであったのですが、若くて礼儀知らずの彼らは、基房の家来達が「馬から降りよ。」と言うのも聞かず、平家の威光を笠に着て行列を駆け破って通り抜けようとします。あまりの無礼に怒った基房の家来達は、暗くなっていたこともあって相手が清盛の孫とは気づかず、また薄々は知りながらも気づかぬ振りをして、資盛達を馬から引きずり落とし、大いに辱めました。
六波羅に逃げ帰った資盛は、事の次第を祖父清盛に訴えます。清盛は大いに怒り、これは平家に対する侮辱であるとして報復の為に基房の屋敷に兵を差し向けようとしました。しかしこれを聞いた重盛が清盛邸に駆けつけ、「相手が頼政などの源氏ならともかく、殿下の前で下馬の礼を取らない資盛の方に非がある。」と言って清盛を諫め、資盛と一緒にいた供の侍達にも「こちらから無礼を謝らなければならないくらいだ。」と説諭して帰らせました。
しかし、清盛の怒りは収まらず、重盛に内緒で侍を集め、21日、300騎の兵に命じて参内する基房の一行を襲撃させました。兵達は基房の家人を捕まえては引き倒し、それぞれのもとどり(髪の毛)を切り落としてしまいます。さらに、基房の牛車の簾を落とすという狼藉まで働き、鬨をあげて六波羅に引き揚げて行きました。
後から事の次第を知った重盛は大いに驚き、まず基房を襲った侍達を罰します。そして、13歳にもなりながら分別もわきまえずに狼藉を働き、いたずらに清盛の悪名を立ててしまったとして、我が子資盛を伊勢国に追いやり謹慎させてしまいます。これを聞いた人々は重盛の振る舞いに大いに感心したという事です。

次いで、後に摂政を務めた藤原兼実の日記「玉葉」にある記述。
七月三日、基房は当時岡崎の地にあった法勝寺に参ろうとしていました。その途中、彼の行列は女車に乗った資盛と出会います。ここで理由は良く判らない(書いていない)のですが、基房の舎人居飼等が資盛の車を襲い、うち破るなどの恥辱を与えます。基房は屋敷に帰るとすぐに、乱暴を働いた舎人や居飼を重盛に引き渡すべく使者を出しますが、激怒した重盛はそれを拒否します。報復を恐れた基房は自ら関係者を処分しますが、重盛の怒りはなおも収まりません。
基房は三ヶ月もの間外出を控えていたのですが、10月21日、高倉天皇の元服の儀式の打ち合わせために参内しようとした基房の行列を、何者かが襲撃します。基房の家人のうち前駈5人が馬から引きずり落とされ、4人がもとどりを切られました。基房は参内を中止せざるを得ず、朝議は延期になります。玉葉では襲った者は重盛だとは書かれていないのですが、「愚管抄」に「小松内府(重盛)は不可思議の事を一つしたり。」とあり、暗に重盛が襲撃者だと指摘しています。

平家物語では、無礼を働いたのは資盛達の方で、直接報復したのは清盛。重盛はむしろなだめ役に周り、至らぬ我が子をも罰しています。対して玉葉では、故無く襲われたのは資盛の方で、これに激怒した重盛が執拗に報復の機会を狙い、遂に復讐に成功するという筋書きになっています。どちらが正しいかというと、同時代資料である玉葉の方に軍配が上がるのでしょうね。そして、ドラマでも怒りに駆られた重盛が兵を動かすという筋書きになりそうです。

ただ、ここで良く判らないのが、史実ではその場に居なかった維盛が言った「先年の騒ぎ」と、重盛が言った「またしても」という言葉です。そして、喧嘩の相手は基房ではなく三位でした。この三位って誰の事?

素直に受け取れば、この出来事は史実にある殿下乗合事件の後再び起こった同様の事件で、我慢に我慢を重ねていた重盛もついに堪忍袋の緒が切れ、あえて暴挙に走ったという筋書きになるのでしょうか。そして、うがった見方をすれば三位とは頼政の事?いくら何でも、それはないかな。

なぜ史実を曲げてあえてこういう筋書きにしたのかは、次の回を見てみないと何とも言えませんね。でもこれ以降、驕る平家というシチュエーションが鮮明になってくるのだけは間違いないでしょう。平家物語でも、これが平家の悪行の始まりとされていますからね...。

上の写真は事件の舞台となった岡崎の現状。正面は平安神宮、基房が参内しようとしていた法勝寺は、この右手の京都市動物園のあたりにあったとされます。法勝寺は1077年(承暦元年)に白川法皇の御願寺として立てられた寺で、岡崎の地にはこの寺を中心に尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺の6ヶ寺が建ち並び六勝寺と称されていました。中でも法勝寺は最大の規模を誇り、広大な池に囲まれた小島に、高さ20mを越す八角九重の塔が建っていたと言います。のち、落雷や火災で六勝寺は全てが失われ、今ではわずかに石碑にその名残を留めているに過ぎません。

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2005.02.18

京都 首途八幡宮@義経

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義経を奥州平泉へ誘ったとされる金売り吉次。その正体については、様々な説が唱えられています。
・奥州の金商人(平治物語)
・京三条に住む大福長者(義経記)
・京五条に住む金商人(源平盛衰記)
などが主なところで、
・吉次という特定の人物は実在せず、奥州から来ていた金商人の総称。
・備中国哲西の商人。金とは鉄の事で、都を経て奥州まで鉄の販売ルートを持っていた。
・義経の従者の一人、堀影光。
という説もあります。まさに、伝説に包まれた人物と言えそうですね。

上の写真は、京都西陣五辻南にある首途八幡宮。首途は「かどで」と読み、出発の意味。かつてここに吉次の屋敷があり、義経が奥州に旅立つにあたって道中の無事を祈願したと伝えられています。その由来から、この神社は旅行安全の信仰を集めています。吉次は奥州藤原家の家臣で、ここにあったのは藤原家の京屋敷だったという説もありますね。

謎に満ちた吉次に連れられ、16歳の遮那王は京を後にし、奥州へと旅立ったのでした。

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2005.02.16

義経 6の3

義経 第6回 「我が兄頼朝」その3

都に大番役のために上るという北条時政。

大番役とは、内裏や摂関家の警護をする役目です。荘園領主がその領内の地方武士に順に命じて上洛させ、その役に就かせました。その間の費用は全て自前であり、また自領においては主である武士がただの家人として扱われるなど、決して嬉しい役目ではなかったようです。しかし、自領の安堵と引き替えの義務であり、怠る事はできませんでした。北条家は平氏の一族であり、この当時は平家に従っていた関係から、大番役を命じられたのですね。

一方の伊東も北条とほぼ同じ立場で、藤原南家を祖とする一族ながら平家に従っており、北条と共に頼朝の監視を命じられていました。その娘が頼朝と通じた事も同じなのですが、伊東はこれを恐れ、北条はこれを奇貨としたところに後の両者の明暗を分ける鍵がありました。

都の三善康信からの文を読む頼朝。

三善康信からの文を受け取る頼朝。康信は頼朝の乳母の甥にあたる人物で、中宮徳子に仕える下僚の一人でしたが、頼朝が伊豆に流されて以来、途切れることなく都の情報を頼朝の下に送り続けていました。

流人の頼朝に仕える安達盛長と、母の様に頼朝に寄り添う比企尼。

比企尼は頼朝の乳母の一人で、武蔵国比企郡の豪族比企遠宗の妻でした。頼朝が配流になると関東に一緒に下り、武蔵にあって物心両面で頼朝を支え続けた人です。安達盛長は、その娘婿にあたる人物で、流人時代から頼朝に仕え、後には比企尼の養子比企能員と共に、初期の鎌倉幕府における有力な御家人として重きをなすに至ります。

この項は、別冊歴史読本「源氏対平氏」、「源義経の生涯」、宮尾登美子「義経」、楠木誠一郎「源義経111の謎」、義経デジタル文庫、司馬遼太郎「義経」を参照しています。

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2005.02.15

義経 6の2

義経 第6回 「我が兄頼朝」その2

時子の前で、遮那王について話し合う宗盛、知盛、重衡の兄弟。

時子の前に重盛が居ないのは、かなり重要な意味がありますね。彼女にとって重盛は先妻の子であり、自分が産んだ宗盛達に平家の主導権を取らせたかったのでしょう。現に後に至って、そのような事態が実現します。そして源平の争いが激化していく頃、重盛亡き後の維盛以下の重盛一門は、平家一門の中で微妙に孤立した存在となっていきます。

遮那王に八幡太郎義家の名を出し、奥州行きを勧める吉次。

八幡太郎義家は源氏嫡流の武将で、頼朝や遮那王の4代前の祖先に当ります。前九年の役や後三年の役で奥州平定に功があり、「天下第一武勇之士」と称され、その武勇と共に私財を投げ売ってでも部下に報いたという面倒見の良さから、東国武士達の圧倒的な支持を得る様になりました。
そして、後三年の役の時に義家に助けられたのが清原清衡で、後の奥州藤原家の祖となった人です。吉次が奥州が源氏縁の地であると言っていたのは、こうした背景があるからですね。

縁側で、のんびりとした時間を過ごす頼朝と亀の前。

なんとも仲睦まじい二人ですが、亀の前は史実でも現れる頼朝の愛人です。ただし、頼朝と知り合うのはずっと後で、政子と一緒になってからの事でした。ここでは農家の娘の様に描かれていますが、吉橋太郎入道という侍の娘だったようですね。

この時期、頼朝が関係していた女性は頼朝の監視者である伊東祐親の三女で、彼女は父親の知らぬ間に頼朝の子を産んでいます。しかし、この事を知った祐親は、平家を恐れるあまりに頼朝の子を殺し、娘を家臣の嫁にしてしまいました。その後知り合ったのが、もう一人の監視人である北条時政の娘政子です。

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2005.02.14

義経 6

第6回 「我が兄頼朝」

平家の密命を帯びた春慶の待ち伏せに会い、これを返り討ちにした遮那王。

平家が遮那王の命を狙ったというのも、覚日が遮那王を庇ったというのも義経記を始めとする物語にはなく、この下りはこのドラマオリジナルの設定でしょうね。

義経記では、自分が源氏の御曹司である事を知った牛若は、山中で木立を平家と見立てて夜ごと武術の修行に励む様になります。それを牛若の師である東光坊の阿闍梨が知る所となり、恐れをなした阿闍梨は牛若を無理矢理出家させようとします。しかし、牛若は頭を剃って出家する事を拒み、刀の束に手を掛けて誰も近づけようとはしません。この事を聞いた覚日坊の律師が、大勢が修行している東光坊から静かな覚日坊へと牛若を引き取り、名を遮那王と変えさせて修行させたところ、ようやく遮那王はおとなしくなったとあります。ただ、遮那王は平家に対する復讐を忘れた訳ではなく、日々謀反の事を祈るようになったのでした。

ここにある様に、鞍馬寺はひたすら平家を恐れていた様です。叡山や興福寺ならともかく、鞍馬寺には平家に逆らう程の力は無かったようですね。また仮にそれたけの実力があったとしても、遮那王一人のために全山挙げて逆らうだけの理由はなかったでしょうしね...。

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2005.02.13

京都の散歩道 南禅寺参道

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南禅寺参道の位置

神宮道から東に入ったところにある南禅寺総門。ここから中門まで続いていているのが南禅寺参道です。観光シーズンになると、神宮道は人と車が溢れて雑然とした雰囲気になるのですが、この参道はそんなときでも歩く人が少なく、しっとりと落ち着いた雰囲気を保っています。

その風情を保つ大きな役割を果たしているのが、写真の瓢亭とその東隣にある無隣庵

瓢亭は、元禄時代中頃に茶店を開いたのが始まりとされます。その後、1837年(天保8年)に料亭の暖簾を掲げ、以後高級料亭として今に至っています。この店構えは、創業当時の茶店の風情を残してあるのでしょうね。
この店で特に有名なのが朝がゆ。祇園で夜通し遊んだとある旦那が、夜明け頃妓を連れだって行きつけのこの店を訪れ、「何か食べるものは無いか。」と戸を叩く。無碍に断る訳には行かないと、粥を炊き葛餡を掛けて出したのがその始まりなのだとか。以後、口コミでその評判が広まり、名物の一つになりました。この朝がゆは7月8月限定(別館は11月まで)で、本館なら4555円、別館なら3550円(いずれも税・サ別)で食べる事が出来ます。
今の季節はこれがうずら粥に変わります。こちらは本館1万円、別館が3550円。どう違うのかは、残念ながら食べた事が無いので判りません...。

無隣庵は、明治の元勲山県有朋が築いた別荘。1894年~1896年(明治27年~29年)に建てられ、小川治兵衛が作庭した池泉回遊式庭園は、明治期を代表する庭園の一つとされています。また、日露戦争を前にして山県、伊藤博文、桂太郎、小村寿太郎が日本の外交の基本方針を決めた「無隣庵会議」の舞台としても知られています。ここで、明治の香に浸ってみるのもまた一興でしょうね。

この道は、瓢亭や無隣庵に入らなくても、そぞろ歩くだけで十分に楽しむ事が出来ます。場所が判りにくいのがちょっと難点ですが、南禅寺側からだと道を渡った正面が入り口ですから、行きやすいかも知れませんね。

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2005.02.10

義経 5の2

義経 第5回 「五条の大橋」その2

六波羅の清盛邸を訪れた源頼政。

源頼政は、頼朝や義経と同じく清和源氏の流れを汲む一人ですが、彼らとは系統がやや異なります。義経達が八幡太郎義家から続く源氏の正統に属していたのに対し、頼政は義家の弟である頼光から始まる摂津源氏と呼ばれる系統に属します。頼光は、大江山の酒呑童子の退治で勇名を馳せた人ですね。頼政はその4代目の子孫にあたり、彼もまた、御所に現れた鵺(ぬえ)を退治したという伝説の持ち主でもあります。彼の一族は、摂津渡辺(大阪市)に本拠を持っていた事から、渡辺党とも呼ばれていました。平治の乱では、当初は源氏の一門として義朝の側に付いていたのですが、途中で離反して清盛方に付き、平家全盛の世において唯一の源氏として生き残りました。清盛からの信任も厚く、75歳の時に従三位に叙せられ、以後「源三位頼政」と呼ばれる様になります。

清盛が吠える声を聞き、「ヌエ」とは違うと訝る烏丸。

鵺とは、「頭は猿、体は狸、尾は蛇、手足は虎」とされる怪物の事で、頼政が退治した事は上に書いたとおりですが、ここで烏丸が言っているのは「トラツグミ」の事でしょうね。「トラツグミ」は夜中に「ひぃー、ひぃー」と鳴く鳥で、鵺の正体とされています。私は聞いた事が無いですが、暗闇の中でこの声を聞くと、それは恐ろしいものらしいですね。参考までに、「ことりのさえずり」というサイトの「ことりのさえずり」のページで、「トラツグミ」の声を聞く事ができます。

清盛が頼朝に騙されたと荒れ狂う元となった髭切りの太刀。

髭切りの太刀とは、平治物語に、「さて鬚切と申は、八幡殿、貞任・宗任をせめられし時、度々にいけどる者千人の首をうつに、みな髭ともにきれければ、髭切とは名付たり。奥州の住人に文寿といふ鍛冶の作也。」とある太刀で、源氏の嫡流の証として相伝される品でした。平治物語にはまだ続きがあり、頼朝が平家を滅ぼした後、後白河院が清盛からお守りとして献上されて持っていた髭切りの太刀を返して貰ったとあります。

そして、後白河院の手に渡った経過として、
1.頼朝が関ヶ原で捕まった時に平家の手に渡り、お守りとして院に献上したとする説。
2.頼朝から太刀を預った青墓の大炊が、泉水というよく似た太刀にすり替えて、清盛の使いに渡した。平家から確認を求められた頼朝は、中身が違うと気が付いていながら大炊の意向を推量して、そうだと答えた。清盛は偽の太刀を本物と信じて院に献上し、本物は後に大炊から頼朝の下に届けられた。
と二つの説が紹介がされています。ドラマでは後者の説を採っているのですね。

この項は、別冊歴史読本「源氏対平氏」、「源義経の生涯」、宮尾登美子「義経」、楠木誠一郎「源義経111の謎」、義経デジタル文庫を参照しています。


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2005.02.08

義経 5

義経 第5回 「五条の大橋」

徳子の入内を画策する時子達 。摂関家以外からの入内の先例を探り、それに倣おうと考えます。

後白河法皇の母である待賢門院璋子は、白川法皇の近臣であった藤原公実と堀河・鳥羽両院の乳母であつた光子の娘とされます。璋子は生まれてすぐに、法皇の寵愛を受けていた祇園女御の養女とされ、白川院と女御によって育てられます。祇園女御は、清盛の母とも叔母とも言われる人ですね。美しく育った璋子はやがて白川院のお気に入りとなり、院の手が付いたと言います。院は璋子を一度は摂関家に嫁入りさせようとしますが、これは院との噂を聞いた摂関家の方で断ってきます。すると院は、今度は璋子を自分の孫である鳥羽天皇の女御にしてしまいます。この璋子との間に出来た鳥羽帝の長子が後の崇徳天皇なのですが、鳥羽帝はこの崇徳を白川院の子ではないかと疑っていました。果たして院は鳥羽天皇に退位を迫り、その後に崇徳を据えます。この事が後に保元の乱を引き起こす遠因となるのですが、話が逸れてしまうのでここでは割愛します。上皇となった鳥羽帝の女御である璋子には、待賢門院という院号が与えられました。後白河は、彼女の鳥羽帝の間に出来た4男として産まれています。

次いで、建春門院滋子は時子の異母妹です。清盛の意を受けて後白河法皇の女御となっとも、宮中の女房として出仕していた所を後白河法皇に見初められたとも言われます。非常に聡明かつ美しい人で、後白河法皇の寵愛を受け、後の高倉天皇を産んでいます。徳子の相手となるのが、この高倉帝ですね。彼女の存在が清盛と後白河を結びつけたとされ、彼女の死によって両者の間に溝が生じたとも言われます。

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義経と弁慶 遭遇の地@義経

matubarahasi11「京の五条の橋の上~♪」という唱歌の歌詞で知られた義経と弁慶の出会いの場である五条大橋。そこには、昨日の記事に掲げた様に牛若と弁慶の石像が飾られているのですが、義経当時の五条大橋が現在の松原橋だった事は、ドラマの最後の史跡紹介にあったとおりです。

こうなった原因は、義経からずっと時代が下った安土桃山時代に、豊臣秀吉が行った京都の都市改造にあります。秀吉は京都を城下町として作り直そうと考え、城壁と堤防を兼ねた御土居で洛中と洛外を区切り、平安京から続いていた坊城制町を改めて、鰻の寝床と呼ばれる町割りを作りました。町中の寺を集めて寺町を作ったのもこの時です。そして、新たに作った町割りに応じて通りの名を変え、元の五条通を松原通とし、六条坊門小路だった道を五条通としたのです。

gojyoutenjin11では、松原橋で義経と弁慶が出会ったのかというと、必ずしもそうとは言い切れないようです。そもそも、義経と弁慶がどこで出会ったのかは、正史には出て来ません。諸説ある中で最初に書かれたのが義経記で、そうである以上伝説の域を出ないのですが、そこでは五条天神の近くで出会った事になっています。千本の刀を集める事を願掛けて999本まで集めた弁慶は、千本目の相手を待つ内に義経と出会います。義経は挑んできた弁慶を軽くあしらい、その胸を蹴って築塀の上に飛び上がり、持っていた太刀を足で踏みつけ折り曲げてしまってから弁慶に投げ与えます。そして、塀から飛び降り様に斬りかかってきた弁慶の太刀を、空中で止まって再び舞い上がるという六韜の秘術を使って交わします。

benkeisykujyou11そして二人が次に出会うのが清水寺です。弁慶は清水寺の門前で義経を待ち伏せし、先夜の仕返しをしようと参拝に来た義経めがけて長刀で斬りかかるのですが、義経にまたも軽くあしらわれてしまいます。弁慶はなおも義経を追って本堂へ行き、その縁側(舞台?)でさんざんに戦うのですが、ついに義経に取り押さえられ、臣従を誓う事になります。
写真は、清水寺に伝わる弁慶の錫杖。大人でも持ち上げるのがやっとという重さと大きさがあります。これを軽々と振って迫ってこられたら、さぞ怖かった事でしょうね。

benkeitetugeta11そして、こちらが弁慶の鉄下駄。普通の下駄より二回りは大きく、並の人なら歩く事は出来ないでしょうね。実際には、どちらも明治期に修験者が清水寺に寄付したもので、弁慶とは縁もゆかりもないものなのですが、そう信じたくなるような迫力があります。

ここで、牛若あるいは遮那王とせずに義経と書いたのは、「義経記」では弁慶と出会ったのは、遮那王が義経となって奥州に下った後、都の様子を見に来た時の話として描かれているからです。これが謡曲の「橋弁慶」では鞍馬入山以前、御伽草子「橋弁慶」では鞍馬時代とされています。場所は共に五条橋(松原橋)。また、御伽草子では千人斬りを行っていたのは弁慶ではなく牛若の方となっており、その評判を聞き込んだ弁慶が牛若退治に現れて返り討ちに合うというストーリーになっています。

まだ他にもいくつかのパターンがあるようですが、この様に弁慶の出会い一つとっても様々なストーリーが語り継がれ、しかもその全てが伝説であり、どれが最も正しいとは言い切れないところに「義経」の特長の一つがあると思います。言い換えれば、どう描いたとしても間違いにはならず、ドラマの様に陰陽師の技を使うのもありと言う事になりますね。

このドラマは、そういったケレン味もそのまま受け入れて、演出を素直に楽しむのがコツの一つかなという気がします。

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2005.02.05

京都三条 「弁慶石」@義経

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弁慶石の位置

京都の三条通を寺町京極から西へ入った所にあるビルの一階に、場違いな感じで据え付けられた巨石があります。それがこの弁慶石。弁慶が比叡山(あるいは五条橋)からここまで投げた石だとも、洪水で鞍馬から流れ着いた石だとも言われますが、当地に伝わる話はまた違うようです。

弁慶は、幼少の頃、三条京極のあたりに住み、この石を熱愛していました。弁慶が死んだ後、奥州高館にあったこの石が発声鳴動して、「京都三条へ往かむ。」と言い出します。それと時を同じくして在所では熱病が蔓延したため、土地の人は恐れてこの石を三条京極寺へと移し、以後このあたりを弁慶石町と呼ぶ様になりました。(以上、石の脇にある説明文からの要約)

この話があったのは1454年(享徳3年)の事とありますから、弁慶の死後265年後、鎌倉幕府もとうに滅び去った足利義政の治世の出来事ですね。「義経記」の成立から暫く経ってますから、その影響を多分に受けて作られた伝説なのでしょう。

「義経記」によれば、弁慶は熊野の別当「弁せう(昌)」の嫡子とあります。母の胎内にある事18月、生まれた時には既に2、3歳児並の体格があり、髪は長く伸び、歯も生えそろっていました。これを見た父弁せうは、「これは鬼の子である。長ずれば仏敵となるので、今の内に水に沈めるか山で磔にせよ。」と命じますが、生みの母と叔母のとりなしによって助けられ、「鬼若」と名付けられました。そして叔母に預けられて、京都で育てられる事になります。

「義経記」では京都のどこに住んだとは書かれていないのですが、弁慶石の伝説はそこを逆手に取って、幼少期をここで過ごしたと主張したのでしょうね。それにしても、今でも地名として残っているとはただ事ではありません。弁慶という名には、それほどの重みが伴っているという事なのでしょうか。

大河ドラマ「義経」もいよいよ序盤のクライマックス、義経と弁慶の橋上の戦いです。「義経記」においては、義経をも凌ぐ主役として扱われている弁慶をこれからどう描いていくのかが、このドラマの今後の見所の一つとなっていきそうです。

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2005.02.02

義経 4の3

義経 第4回 「鞍馬の遮那王」その3

大勢の僧呂達によって、追い立てられている大柄な僧。彼こそが、武蔵坊弁慶でした。

平家が仏門に武力で対抗したという事件は、1180年(治承4年)に平重衡が興福寺と東大寺を攻めた南都焼討が有名ですが、このドラマの時期よりもかなり後の事になりますね。反対に、もう少し前に遡ると、1165年(永万元年)に起こった額打事件というのがあります。これは、叡山と興福寺の争いで、二条天皇の葬儀の際に、興福寺から辱めを受けた叡山は大挙して山を下り、都を守る検非違使達を追い散らし、洛中へと乱入します。このとき、なぜか後白河法皇が叡山に対して平家追討の院宣を下したという噂が流れました。これを聞いた平家一門は六波羅第に集まり、僧兵達の襲撃に備えます。しかし、僧兵達は六波羅には現れず、興福寺の末寺であった清水寺に襲いかかってこれを焼き払い、恨みを晴らすと山へと帰って行ったのでした。このときは、平家と叡山との間で武力衝突は起きていません。調べた限りにおいては、この頃に平家が武力介入したという様な事件は無く、ドラマの事件は、弁慶に平家に対する恨みを持たせるためのオリジナルの設定という事になりそうですね。

ドラマでは、平家の責任者追求の犠牲になった弁慶でしたが、義経記によれば、弁慶は非常な乱暴ものであり、山内で持てあました結果、山から追い出されたとなっています。そして、諸国を放浪した挙げ句に姫路の書写山にたどり着き、誤って全山を焼き尽くしてしまうという失敗を犯し、京に逃げ帰ってきたとあります。

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2005.02.01

義経 4の2

義経 第4回 「鞍馬の遮那王」その2

病に倒れた清盛を見舞う後白河法皇。

平清盛が病に倒れたのは、1168年(仁安3年)の事、51歳の時でした。この時の病が何だったのかは平家物語には書かれていません。また、後白河上皇が見舞いに訪れたという事も書かれていませんので、多分このドラマオリジナルの設定なのでしょう。しかし、この時期の清盛と上皇は密接な関係にあり、いかにも起こりそうな事ではあるので、どこかの物語に書かれている事なのかもしれません。平家物語では、清盛はこの病気平癒のために出家して法名を「浄海」と名乗り、その甲斐あってか病は直ちに全快したとされています。清盛は出家した翌年に福原の別荘に移り住み、以後まれにしか上洛しなくなってしまいます。ドラマでは上皇が勧めた事になっていましたが、一説として、大和田の泊を拠点とする日宋貿易を陣頭指揮する為だったのではないかと言われています。

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