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2005.01.27

義経 3の3

義経 第3回 「 源氏の御曹司 」その3

安芸の宮島、厳島神社に32巻の写経を納納し、舞楽に見入る清盛以下平家一門の人々。この年の2月に、清盛は、従一位、太政大臣への昇進を果たします。

と、ドラマではあるのですが、史実においては清盛が平家納経を厳島神社に収めたのは1164年(長寛2年)9月の事とされます。そして、太政大臣になったのは1167年(仁安2年)2月で、3年の開きがあります。ドラマ上ではどちらも同じ1167年の出来事としたのは、平家の絶頂期を演出するためにわざと年代をずらせたのでしょうか。

また今気付いたのですが、番組の冒頭では1165年(長寛2年)となっていましたが、西暦が正しいとすれば、これは改元のあった6月5日より前なら(長寛3年)、それ以降なら(永万元年)とするのが正解ですね。柿が実って菊が咲いていましたから(永万元年)かな。どうもこのあたり混乱が見られるようです。ちなみに平家納経は、32巻の経文に清盛の願文を含めて33巻とするのが通常の様です。まあ、どれもこのドラマの流れの中ではあまり重要なポイントではないので、これ以上突っ込まずにスルーしてしまう事にしましょう。

ドラマで、遮那王の出自を教えた義盛は、後の源行家。頼朝、義仲、そして義経の運命に大きく係わる人物です。ただし、鞍馬に現れて義経に会ったという記述はどこにも見あたりません。彼に会いに来たのは、義経記によれば義朝の郎党である鎌田次郎正清の子鎌田三郎正近となっています。

正近は平治の乱の後出家して西国で修行を積み、正門坊という名の僧侶になっていました。別名「四條の聖」。彼は遮那王が鞍馬に居る事を知り、一度会ってみて見込みがある様なら、共に伊豆の頼朝の下へ走って、反平家の旗を揚げようと考え鞍馬寺へとやってきたのでした。彼は首尾良く東光坊に入り込む事に成功し、ある夜遮那王の下に忍び込み、遮那王が源氏の御曹司である事を伝えます。

また、平治物語では、母の言葉を思い出した遮那王が、自分で諸家の系図を探って出自を知る事になっています。

あまりドラマの創作部分にけちを付けたくは無いのですが、これだけの重大事を、白昼堂々、東光坊の一室で大声を上げながら伝えるという設定は如何かなものかと思うのですが、どうでしょうか。もしこれが平家方に漏れれば、遮那王も義盛も、さらにはその場を与えた鞍馬寺さえも只では済まなくなるのですからね。ドラマの設定では、どうやら覚日は遮那王というか源氏に対して同情的で、平家方に通じる恐れは全くないという事の様ですが、他にも大勢の修行僧が居る訳ですからね...。幼い遮那王を水の中に飛び込ませ、成長した遮那王と交代するという演出にするための設定なのでしょうけれども、あまりに不自然というか不用心に過ぎると思いうのですが...。

それはともかく、ここまで好演していた神木君(マルクル)が退場するのは寂しいですね。特に先日「ハウルの動く城」を見たばかりでしたので、鬼一法眼役の三輪さん(荒れ地の魔女)とのからみは興味深いものがありました。また清盛との親子の様な関係も自然な感じで、本当にそうだったのではないかと思ってしまいそうです。このドラマでは清盛以下の平家一門を、敵役として見る事は難しそうですね。なんだか平氏に対する見方が、これまでと変はわってしまうかも知れないという気がしてきました。この先も、なかなか楽しめそうなドラマです。

この項は、以下の資料及びサイトを参照しています。 

別冊歴史読本「源氏と平家」、週間「義経伝説紀行」、「義経デジタル文庫

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