京都 東山 六波羅第
義経に登場する六波羅の平家屋敷。正確には六波羅第と言い、東山にあった平家の屋敷群の総称とされます。最初は1町(約109m)四方から始まったのですが、最盛期には20町四方に及び、その邸宅は5200を数えたと言います。まさに栄華の象徴のような存在だったのですが、平家の都落ちの際に火が掛けられ、全てが灰燼に帰しました。現在、洛東中学校の正門を入ったところに史跡を示す石碑が建っています。
この周辺で石碑以外に六波羅第を偲ばせるものは皆無と言って良く、わずかに地名にその名残を留めています。写真は門脇町の案内看板。門脇とは総門の内という意味で、このあたりに門脇宰相と呼ばれた平教盛の邸宅があったのではないかと推測されています。また、写真の地図の一番下に池殿町と書かれているのが判るでしょうか。縮小したために読みにづらくなって申し訳ないのですが、この池殿というのは平頼盛の邸宅跡と推測されており、頼朝の命を救った池の禅尼もここに住んでいたと思われます。
この他、この付近には、三盛町(清盛・頼盛・教盛の事とも、通盛の事とも言われます)・多門町・北御門町・西御門町・弓矢町など、平家の屋敷があった事を連想させる地名が散在しています。(地図参照)
上の写真は六波羅第(門脇町から池殿町にかけて)の現状。見てのとおり民家がひしめく下町で、かつて豪邸が建ち並ぶ地域だっとはとうてい思う事は出来ません。
この付近で当時から続く史跡としては、六波羅密寺があります。六波羅蜜寺は、951年(天暦五年)に空也上人によって開創された寺で、真言宗智山派に属します。本来平家とは直接関係は無いのですが、清盛の父忠盛が軍勢をここに置いて以来、この寺を取り囲むように平家の邸宅が築かれました。その関係から清盛像や清盛塚といった平家に縁のあるものを、今も伝えています。
清盛の邸宅は泉殿と呼ばれたのですが、どこにあったのかは諸説があって正確には判りません。池殿の北一町にあったとも言いますから、六波羅蜜寺の西側から北に向けて広がっていたのでしょうか。この写真は今の五条大橋から松原橋方面を見たところ。当時の五条大路は今の松原通にあたり、今の五条通は六条坊門小路に相当します。平治の乱で源氏と平家が戦ったのは、このあたりから七条大橋にかけての河原でした。六波羅第はこの右手にあたり、泉殿も概ねこの付近のどこかにあったものと思われます。ただし、当時はもっと川幅が広く、今の川端通よりさらに東にまで河原が広がっていました。
かつて、ここには平氏が我が世を謳歌したきらびやかな世界がありました。また、ユリカモメが舞う今の姿からは想像出来ないような、血なまぐさい戦いもあったのですね。ここに立って思うのは、あまりの変容ぶりに義経の時代は遠いんだなという事と、矛盾するようですが、彼らは意外に身近に居たのだなという事です。少なくとも、義経や清盛が存在した同じ空間を歩く事が出来るのですからね。
京都に来られたときは、うんと想像力をたくましくして六波羅を訪れてみて下さい。
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