義経 1の3
義経 第1回 「運命の子」その3
六波羅の清盛邸。重盛と頼盛が話しています。
「しかし、叔父上、頼朝の命を助けよなど。」
甥の言葉に気弱にため息をつく頼盛。
「何故、池の禅尼様はそのような事をおおせになったのですか。」
「いや、それが、先日母上にお会いした折り、源氏の家督の者を見たという話になり、けなげにも塔婆を作っているとか、年格好の事など。そうしたら、母上がそのような頼朝をあわれとおぼし召されてな。いや、それがし、母上のそのような思いが、判らぬではないのだ。先年、それがしの兄を亡くされて、気落ちしておられた故な。で、つい、頼朝の面差しが、亡き兄上に似ていたなどと。」
「家盛様にですか。」
と頼盛の言葉にあきれかえったような重盛。
清盛邸を訪れている池の禅尼。禅尼の下へ廊下を急ぐ清盛と重盛。そこへ頼盛が現れます。
「兄上には、色々とご面倒を。」
「二人とも、ここで待て。」
清盛は、頼盛と重盛を置いて、一人で禅尼に会いに行きます。
池の禅尼と対座してい清盛。
「それで、そのお子の首打たれるは、いつの事で?」
急き込んで聞く禅尼に清盛は、
「13日にござりまする。」
と極めて事務的に答えます。禅尼は指折り数えて、
「あとわずかではございませんか。」
と驚いた様子です。それにも、
「はい。」
と冷静にかつ重々しく答える清盛。
禅尼は、
「はあ~。」
とため息をついて首を振り、
「昔は、亡き殿存命のみぎりは、みだりに人の首打つはあさましゅうて、殿に乞うて二人や三人の命、この尼が助けたものじゃ。が、今は、六波羅殿の世の中、この尼の願いなど聞いては下さるまいのう。」
といやみたっぷりに清盛に向かって言います。それを黙って聞いている清盛。禅尼はさらに、
「なれど尼も、そのお子が家盛に生き写しとあらば、聞き捨てには出来ぬのじゃ。」
と迫りますが、清盛は依然として黙ったままです。禅尼なおも諦めず、
「六波羅殿、どうか、そのお子を、亡き家盛とお思いになって、お命お助け下され。」
と言って清盛に向かって頭を下げます。ここまでされて清盛はやっと、
「尼御前様。」
と声を掛けます。禅尼はここぞとばかりに声を励まし、
「家盛は、腹こそ違え、六波羅殿の弟でもございましょう。その弟の回向の為にも、慈悲をお示しなされ。」
と清盛に迫ります。しかし清盛は、
「ご恩ある尼御前様のお申し付けとは言え、頼朝の一命助けるなど、思いも寄らぬ事にございます。」
と禅尼の申し出を一蹴してしまいます。それを聞いて、憤懣やる方無しと言った風情の禅尼。
常盤が匿われている寺。廊下を常盤が歩いていると、外で二人の僧が噂話をしているのが聞こえてきました。
「はあ~、左様か。」
「はい、残党ばかりか、源氏に係わった女子供まで捕らえているそうで。噂では、義朝の想い人で、常盤という女性の母親まで囚われたとか。」
この話を聞いて、思わず持っていた手桶を落としてしまう常盤。
清盛邸。清盛が盛国を相手に碁を打って居ます。その前に座っているのは頼盛と重盛。二人とも元気が無い様子で、特に頼盛はなにやらぐったりしています。そこへやってきたのは清盛の妻、時子。
「これは、こちらでは、白と黒の戦ですか?」
と時子が清盛達に声を掛けますが、誰も返事をしません。時子は憔悴した様子の頼盛と重盛に気付き、
「何事にございます?」
と声を掛けます。その声にはっとした頼盛は時子に向かい直し、
「尼御前様が、干死なさるそうじゃ。」
と泣くような声で答えます。
「干死とは、また。」
「姉上もご存じのとおり、母上は気の強いお人。あの日から一切の食を断たれ、湯も水も口になされませぬ。」
「あの日とは?」
時子の問いに、頼盛に代わって重盛が答えます。
「例の、義朝の子の。」
これだけで時子には飲み込めたのでしょう、
「あ、あーあ。」
と言って、清盛の方を見やります。
「如何にお諫め申し上げても聞き入れず、従って日ごと弱り、このままではゆゆしくは。」
と今にも泣き出しそうな頼盛の言葉を聞いて、時子は、
「殿も難儀な事にござりまするなあ。」
と清盛に声を掛けます。それを聞いて、いらだたし気に碁石を放り投げる清盛。それを見て重盛が清盛の前に進み出ます。
「恐れながら、父上は武勇のみならず。情けある弓取りとして聞こえたお方なれば、老い衰えた母の願いをお取り上げならず、むなしく死に追いやるがごとき、非情な仕打ちはあそばさぬものと心得ます。」
重盛の言葉を聞いて、盛国が口を挟みます。
「しかし、小松殿、敵の血筋を絶つのはこれ戦の常。」
「なれど!」
と重盛が抗弁しようとしたとき、再び清盛が碁石をぶちまけます。清盛は凄まじい形相で重盛を睨み付けると、黙ったまま立ち上がって部屋から縁側へ出てしまいます。重盛はその後を追いかけ、
「幼い頃、産みの母上を亡くされた父上には、池の禅尼様は継母。しかも、今日まで、池の禅尼様との間で何かと気をもまれ、折り合いの付かぬ事もあったも承知しています。」
と清盛に話しかけます。
「何を申したい。」
「その池の禅尼様の頼み事ゆえ、お聞き届けなされないのかどうか。」
重盛の言葉に、今度は時子が口を挟みます。
「小松殿、それはあまりの申され様。」
しかし、清盛は、
「黙っておれ。」
と、時子を制します。重盛は、
「万一、父上が、継母を見殺しになさるなど、もし人々の口の端に上り広まる事になれば、我が一門の、恥となりますが!」
と脅すがごとく、言葉を継ぎます。さすがに清盛は、
「重盛!」
と怒鳴りつけますが、重盛はひるまず、
「相手はたかだか14。その子一人助けたとて、世の形勢変わろうとも思えませぬ。この際、お慈悲を池の禅尼様に。なにとぞ、それがしよりも御願い申し上げます。」
と清盛に向かって頭を下げます。その重盛に合わせて頼盛もまた頭を下げています。しかし、清盛は憤りを見せながらも、何も言いません。そこへ盛国が、
「ただいま門前に、常盤と名乗る女性が。左馬頭義朝の遺児3人を伴い、参上した由。」
と報告します。それを聞いてはっとした様子の清盛。
清盛の実母は、祇園女御と呼ばれる女性であったと言います。伝説によれば祇園女御は白川法皇の愛妾だったのですが、清盛の父である忠盛に恩賞として下されました。(忠盛灯籠参照)このとき女御は妊娠しており、法皇は、「姫なら我が子にする。男なら、汝が子として、弓取りに育てよ。」と忠盛に告げたと言います。果たして生まれた子は男の子であり、後の清盛となったと伝えられます。また、別の説では祇園女御の妹が生んだとも、その召使いの女性が産んだも言われ、実際のところは良く判っていません。これほど著名な人物にも係わらず、珍しい事ですね。
生母が亡くなったのは清盛が3歳の頃とされ、その後添えに入ったのが池の禅尼でした。禅尼は藤原宗兼の娘で本名を宗子と言い、幼い清盛を育てる傍ら家盛と頼盛の二人の息子を産み、忠盛没後は出家して六波羅の池殿に住んだ事から池の禅尼と呼ばれるようになりました。禅尼は崇徳天皇の息子重仁親王の乳母を務めた事もあったのですが、保元の乱の際に去就に迷う清盛に対し、崇徳方ではなく後白河側に付くように助言を与え、平家繁栄の基を築いたとされます。これが為に清盛も彼女の願いをないがしろに出来なかったと言います。
禅尼が頼朝の助命を願ったのは、通常は家盛に面差しが似ていたからとされますが、頼朝が彼女の血縁にあたっていたからだとする説もあります。すなわち、頼朝の母は熱田神宮の大宮司の娘なのですが、禅尼の甥の娘でもあり、禅尼としては血の繋がりのある頼朝を助けるために食を断つ事までしたのでは無いかと言います。
次に、清盛の妻時子について。時子は、清盛と同じ桓武平氏の出なのですが、系統がやや違い、武家ではなく公家として伝わってきた家系の人です。重盛、宗盛、建礼門院を産み、後に出家して二位の局と呼ばれます。その弟が時忠。野心家とされ、後に出てくると思いますが、「平家にあらずんば人にあらず。」という名文句を吐いた人としても知られます。こういう無茶を言う人が居るから歴史は面白くなるのですね。
そして、小松殿と呼ばれていた重盛。彼が小松殿と呼ばれるのは、彼の屋敷が六波羅の東、小松谷にあった事によります。小松谷は今の五条バイバスの南、京都女子学園の北に当る地で、今では静かな住宅地となっており、当時の面影はありません。
六波羅というのは非情に広い範囲を指していたようで、鴨川の東、今の松原通から七条通までの一帯がそれに当るようです。このあたりは元々鳥辺の墓地と呼ばれる葬送の地で、六波羅とは六原、六=霊の集まる場所という意味だったそうです。平家の本拠地は、広くはあったけれどもあまり良い場所とは言えなかったようですね。
門が開くと、門前に兵に囲まれた常盤親子が立っていました。常盤は一度は入る事をためらいますが、すぐに意を決して門内へと歩いていきます。路上でそれを見ているのが、手押し車に乗った朱雀の翁と老婆。
「常盤やの。」
「へえ。」
いわくありげな二人は、横目に常盤の後ろ姿を見ながら去っていきます。
清盛邸の大広間。牛若を抱いた常盤と、今若、乙若が縁側に座って平伏しています。それぞれ立派な身なりをしているのは、ここに来る前に常盤の元の主、九条院の屋敷に寄って衣服を整えたからなのでしょうね。室内に居るのは、時忠、重盛、盛国の三人。そこへ清盛が現れ、皆一斉に頭を下げます。
「常盤。」
「はい。」
「面を上げよ。」
盛国に言われて、顔を上げる常盤。その美しさに、思わず息を呑む清盛。その清盛に向かって、常盤が口を開きます。
「我が母が囚われたと聞き及び、お助け頂きたく、六波羅様のお慈悲におすがりに参りました。」
「母御の命乞いなら易き事、我らが望むのは左馬頭義朝が遺児のみ。」
盛国の言葉に常盤は乙若を抱き寄せ、
「お願い申し上げます。なにとぞ、命をお助け下さいまするよう。」
と清盛に訴えかけます。
「私の一命に代えて、この子らと、母の助命を願わしゅう。なにとぞ、なにとぞ。お聞き届け下さいまするよう。」
とう言って常盤が頭を下げるのに合わせて、二人の子供も頭を下げます。このとき、赤子の牛若がむずかり出しね常盤は、
「これ、これ。」
と言って、あやしに掛かります。その様子をじっと見ていた清盛は、やがて、
「顔を上げよ。」
と常盤に声を掛けます。常盤は清盛をみつめ、
「左馬頭義朝の遺児なれど、一命賜れますならば、源氏の血筋である事も、武士である事も忘れさせて、生かす手だてもございましょう。どうぞ、なにとぞ。」
と重ねて清盛に助命を願います。何も言わずに頭を下げた三人をじっと見ている清盛。常盤の様子に心を動かされている様にも見えます。時忠、重盛は訝しげにそんな清盛をみつめ、盛国は、
「殿。」
と清盛の発言を促します。その声にはっとした清盛は、
「子の歳は?」
と常盤に問い質します。
「今若は八歳、乙若が六歳、この牛若は去年産まれたばかりにて。」
と消え入りそうな声で答える常盤。
「そなたは、命を投げ出すと申すが、母亡き後、その乳飲み子はいかがなすつもりか。」
との清盛の問いかけに、
「是非もなき事で。」
と泣き顔で、やっと答える常盤。清盛は、そんな常盤から目をそらし、黙って立って行こうとします。それを追う様に盛国が、
「ご沙汰を。」
と催促しますが、清盛は、
「沙汰は、追って下す。」
と裁定を保留にしたまま去っていきます。その後ろ姿を縋るように見つめている常盤。
清盛の居室。開け放した障子の陰から庭を向いて立っている清盛。その背後に向かって、時子が話しかけます。
「此度は、めずらしき事がございました様で。」
その声に清盛は振り向き、時子の前まで歩いて来て、
「珍しき事とは?」
と聞き返します。時子は、席に戻った清盛に酒を注ぎながら、
「六波羅に参った、源氏の子供らに、お沙汰を下されなかったとか。いつもなれば、すぐに沙汰をくだされるものを。何故でござります?」
どこか棘を含んだような妻の問いかけに、清盛はばつが悪そうに下を向いて黙っています。
「屋敷の者達が噂をしておりました。」
「噂?」
「常盤と申すは、都一の美女と、名高い者とか。その美しさがさしもの六波羅様のお心を鈍らせたのでは、などと。そのような噂をする者が居りまするが、いかが?」
皮肉を含んだ妻の問いかけに、黙って杯を荒々しく放り出す清盛。彼は驚く妻を置いて立ち上がり、部屋を出て行こうとします。時子は慌てて、
「何を、お怒りでしょうか。」
と声を掛けますが、清盛は、
「いや、何も。」
と答え、
「いいえ、そのご様子は。」
と縋る時子を置いて部屋を後にします。時子はさらに清盛の後ろ姿に向かって、
「何事でござりましょうか。」
と声を掛けますが、清盛は振り向きもせず去っていきます。
以下、明日に続きます。
参考文献 「平治物語」、別冊歴史読本「源氏と平氏」、週間「義経伝説紀行」、池宮彰一郎「平家」、司馬遼太郎「義経」。
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