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2005.01.12

義経 1の2

義経 第1回 「運命の子」その2
都を落ちた義朝は、残党を率いて大原口から近江へと抜けました。途中、叡山の僧兵に襲われるなど苦難に遭いながら琵堅田から瀬田を経て美濃へと向かいます。途中で付き従ってきた板東の武将達とは別れ、近江路を進んだのは長男義平、次男朝長、三男頼朝ら一族郎党全部で八騎。このうち頼朝は疲労が激しく二度に渡り一行から遅れ、一度は追いついたものの二度目は雪の中道を失い、北近江に迷い込みます。そこでとある老尼に助けられ民家に匿われて一命をとりとめています。

義朝の一行は美濃国青墓の宿に辿り着ました。青墓というのはちょっと耳慣れない地名ですが、今でも大垣市の西部に青墓町として名残を留めています。義朝はこの宿の長者大炊の屋敷を長年定宿としており、その娘延寿との間に夜叉御前という十歳になる娘が居ました。その縁で義朝はこの屋敷に匿われたのですが、ここで朝長は戦陣で受けた傷が悪化して動けなくなったため、義朝の介錯で果ててしまいます。そして、長男の義平は再起を図るべく越前に向かい、義朝とわずかな供回りだけがさらに東へと向かいました。

義朝が次に向かったのが、尾張国智多郡野間の内海荘。ここの長田庄司忠致という在地領主が、平家の末裔ながら義朝の郎党の舅であった事から彼を頼ったのでした。義朝はここから舟で関東まで帰るつもりだったと言います。しかし、一旦は義朝を匿ったものの平家の義朝追討が急である事を知った忠致は、恩賞を目当てに義朝を討とうと考えます。そして平治2年1月3日、湯を沸かして義朝に入浴を勧め、一方郎党達には酒を振る舞って油断を誘い、三人掛かりで入浴中の義朝を討ち取ってしまったのでした。別の説では、忠致の計画を知った義朝が家来の介錯で自害して果てたとも言います。

北近江で匿われていた頼朝は正月の間はそこに留まり、雪が溶けたのを見計らって父の後を追います。そして、青墓の長者大炊の屋敷にたどり着きそこで再び匿われますが、やがて髭切の太刀を大炊に預けて東へと旅立ちます。しかし、すぐに頼盛の家人弥平兵衛宗清が率いる軍勢に出くわし、藪の陰に隠れたころを怪しまれて捕われてしまい、そのまま六波羅へと連行されたのでした。

なお、義朝の娘である夜叉御前は、頼朝が捕らえられた事を知り、早晩自分も同じ運命に合うと考え、はるかに離れた杭瀬川に身を投げて亡くなったと言います。

一方、常盤。彼女は近衛天皇の中宮呈子に仕える雑仕女でした。近衛帝はこの雑仕女を選ぶとき、都中から美女を1000人集め、その中からまず100人を選び、次に10人、そして最後にただ一人の最高の美女として彼女を選んだと言い、この伝説により常盤は当時日本一の美女だったとされています。常盤が義朝の愛妾となったのは16歳の時の事ですが、どんな出会いがあったのかは定かではありません。

義朝と常盤の別れについては、都落ちをする際に常盤の子供たちのことを心配に思った義朝が、郎党の金王丸を道中から返して常盤の下に遣わし、「合戦に負けて、都を落ちて行く。後ろ髪を引かれる思いだが、今は行く先を考えられない。落ち着き次第迎えるつもりなので、それまで深山にでも身を隠して知らせを待っているように。」と伝えたと言います。

常盤はその後、その母と共に楊梅町というところに隠れていましたが、まず1月9日に義朝の首が京に届き、次いで頼朝が京に護送されて来ます。そして2月7日になって頼朝が死罪を免れて流罪となるのですが、その引き替えとしてあとの3人の子は許さないと清盛が言ったという噂が常盤の耳に入りました。このため、常盤は2月9日の晩になって遂に脱出を決意します。彼女は母にも告げずに宿を出て、三人の幼い子らを引き連れて、まず日頃から観音詣でを行っていた清水寺に参詣します。

彼女は二人の子たちを脇に座らせ、夜もすがら祈請を続け、ひたすら観音の慈悲に縋ったと言います。師の僧は常盤を哀れみ、しばらく寺に隠れているように勧めたのですが、常盤は清水は六波羅に近いためにすぐに露顕するとして、伯父の居る大和国宇多郡を目指して旅立ちます。

道中は寒気が強く雪も降り出し、難渋を極めたと言います。這うように伏見の叔母を訪ねて行ったのですが平家を恐れた家人に邪険に扱われ、やがて日も暮れて常盤は途方に暮れてしまいます。しかし、想いあぐねて訪ねた一軒の賤しい家の女主が中へ入れてくれ、かろうじて命を永らえます。そこからさらに難渋を重ねて宇多郡龍門というところに辿り着き、伯父を頼って隠れ住みました。

平治物語によれば、頼朝に命が助からないとは思わないのかと聞いたのは、頼盛ではなくその部下の宗清と言います。そして、池の禅尼に頼朝の助命嘆願を取り次いだのも宗清とされます。また、頼朝が卒塔婆を削ったという話も平治物語に出て来ます。なぜ教も読まずに手すさびをするのかと聞かれた頼朝は、義朝の49日が近く、その供養の為に削っていると答え、その事が池の禅尼にも聞こえてさらにその同情を誘ったと言います。

なお、髭切の太刀とは源家重代の鎧「源太ノ産着」と並んで源家の惣領が引き継ぐべき家宝とされるものです。その名の由来は、源氏の祖先である八幡太郎義家が奥州の安倍貞任を攻めた時、生け捕りにした千人の首を刎ねたところ髭もろともに切れたので「髭切」の太刀と名付けたと言われます。今聞くとなんだか恐ろしげな話ではありますね。

以下、明日に続きます。

参考文献 「平治物語」、別冊歴史読本「源氏と平氏」、週間「義経伝説紀行」、池宮彰一郎「平家」、司馬遼太郎「義経」。


 


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