« 新選組から義経へ@年末の京都 | トップページ | 義経 1の2 »

2005.01.11

義経 1

義経 第1回 「運命の子」
まず最初にお断りしておかなければならないのが、義経の場合は新選組と違って、史実と言える部分が極端に少ないという事です。現在知られている義経の物語のほとんどは説話や伝説として伝えられたもので、史実の部分だけを拾っていこうとすると(それだけの実力も知識も持ち合わせてはいませんが)その大半をそぎ落としてしまわなければなりません。ここではドラマを楽しんで見ていく事を主題として史実には特にこだわらず、「義経記」、「平治物語」、「保元物語」、「平家物語」、「吾妻鏡」などで描かれた義経像とドラマを対比させ、その演出の狙いや背景を探っていくというスタンスで進めたいと思います。また、京都における史跡等についても紹介していけたらと思っています。

なお、私自身がまだまだ勉強の途中ですので、おかしな記述も多々出てくると思われます。お気づきの点やご意見についてコメント頂けましたら幸いです。

冒頭の一の谷の合戦については後日その場面が来た時に書くとして、まず最初にクライマックスの場面を持ってきて次いで回想の場面に入って行くのは、「新選組!」と同じスタイルですね。「新選組!」の方は諸般の事情で元の場面に戻る事が出来ずに終わったのだそうですが、一の谷は絶対に出て来るのでその点は安心できそうです。

次いで、平治の乱について。これはドラマの説明にあったように源氏と平家が争った事件ですが、朝廷内の主導権を巡る争いでもありました。これを理解するには、まずその前に起こった保元の乱を知る必要があります。

保元の乱は1156年(保元元年)に起こった事件で、後白河上皇対崇徳上皇及びその子重仁親王による皇位継承争い、関白藤原忠通と左大臣藤原頼長による摂関家の主導権争いが複合して勃発したものです。後白河と崇徳、忠通と頼長は共に兄弟で、後白河と忠通、崇徳と頼長の二つの陣営に分かれて相争いました。

両方の陣営とも戦力として頼ったのが武士団で、その代表が源氏と平家でした。この源氏と平家の中でも二つの陣営のうちどちらに付くかで意見が分かれ、後白河方についたのが源義朝と平清盛、崇徳方に付いたのが源為義と平忠正などでした。為義は義朝の父、忠正は清盛の叔父にあたります。ここで源氏と平家で大きな違いが生じます。源氏の大半は当主である為義に従って崇徳方に付き、平家の大半はやはり当主である清盛に従って後白河方に付いたのでした。この事件は後白河方の勝利に終わり、事件後敗北した武士達の多くは斬首や流刑に処せられました。結果として源氏は多くの勢力を失い、平家は元の勢力のほとんどを温存出来たため、両者の力関係が傾く事になります。

戦後処理にあたったのが後白河の側近である藤原通憲(信西)で、彼は平家に偏った論功行賞を行います。平家一門が賜った国は4カ国で清盛など3人が殿上人となったのに対し、源氏に与えられた国は1国のみ、殿上人になったのも義朝一人に過ぎませんでした。これが義朝が不満を抱く元となります。

信西は藤原氏の中でも比較的低い家格の出身だったのですが、後白河の信任を背景に政治の刷新を図ります。その主題は摂関家の勢力を殺いで天皇家の力を高めるという点にあり、そのために平家の武力を利用しようとました。しかし、彼の施策はあまりに急であったため、多くの反対勢力を作る事になります。その代表となったのが、同じく後白河の側近だった藤原信頼でした。彼もまた後白河の信任の下勢力を伸しますが、右大将への昇進を巡って信西の反対に合い対立を深めます。

信頼は信西と対抗するために同じく信西に不満を抱く義朝に接近し、信西追放のためのチャンスを待ちます。そして、1159年(平治元年)12月、信西の力の背景となっている平家一門が熊野詣に出かけるために都を留守にした時を見計らい、クーデターを仕掛けます。これが平治の乱の始まりでした。頼信と義朝はまず後白河上皇と二条天皇の身柄を押さえて御所の中に幽閉し、次いで信西の屋敷を襲います。信西はあらかじめ不穏な動きがある事を察知しており、襲われる前に屋敷から脱出していたのですが、知行地である京都南郊の田原本まで逃げたところを追手に捕まり、首を刎ねられてしまいます。

政敵を葬り政治の主導権を握った頼信は勝手に除目を行い、自らの昇進を決め源氏一門に対して官位を与えます。一方、熊野へ向かっていた平家一門はその途中で事件の勃発を知り、急ぎ都へ帰ります。不思議な事に、このとき平家一門に対しては何の処置も行われませんでした。普通に考えると敵対勢力である平家の軍勢を都に入れる事などしないはずなのですが、頼信は迎撃を主張する義朝らの進言を遮って無傷のまま平家の帰還を許してしまいます。

都に帰った清盛は、信頼らを油断させるための擬態として、臣下となる証である名簿を差し出します。これにすっかり安心した信頼は、あろう事か平家の軍勢を御所の警備に加えてしまいます。この機に乗じて清盛は上皇と天皇の奪還を図り、見事に二人を幽閉場所から脱出させます。そして上皇から頼信と義朝討伐の宣旨を頂き、官軍として天皇と上皇の居なくなった大内裏を攻撃しました。完全に清盛に出し抜かれてしまった義朝は信頼を「日本第一の不覚人」とののしり、軍勢を集めて六波羅の清盛邸を襲います。こうして六条河原において源氏と平家の合戦が行われたのですが、衆寡敵せず源氏方は敗れ去ったのでした。

これでやっとドラマの冒頭に戻って来た訳ですが、これを押さえておかないと後白河と清盛の関係、源氏が滅んで平家が栄えた理由が分らないと思ったので書いてみました。これでもかなり省略したのですが、結構長いですね。いきなり読みづらくて申し訳ないです。

明日はちゃんとドラマの展開に添った形で進めようと思います。

参考資料 別冊歴史読本「源氏対平氏」

|

« 新選組から義経へ@年末の京都 | トップページ | 義経 1の2 »

義経・平清盛」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 義経 1:

« 新選組から義経へ@年末の京都 | トップページ | 義経 1の2 »