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2005年1月

2005.01.31

義経 4

義経 第4回 「鞍馬の遮那王」

冒頭、当時の京を取り巻く有力な寺の勢力関係。南都北嶺と言われる様に、平城京のあった奈良の興福寺、京都の東北にそびえる比叡山に拠る延暦寺が多くの僧兵を抱え、この時代の2大勢力となっていました。そして、延暦寺の別院ながら、「山門」の延暦寺に対して「寺門」と称して対抗した園城寺(三井寺)がこれに次ぎます。遮那王の居る鞍馬寺にも僧兵は居ましたが、これらの寺と比べると規模は小さかった様です。これらの寺は、保元の乱以後始まった源平の合戦に、様々な形で絡んで行く事になります。


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2005.01.30

「恋する京都」から1年 八坂の塔 志乃が見た景色

yasakanotou11
昨年2月に放映された「恋する京都」。放映当時の視聴率はいまひとつだったものの、1年経った今でも根強い人気があるらしく、NHKのホームページにある掲示板への書き込みは、依然として続いているようですね。また、当ねこづらどきでも、「恋する京都」をキーワードにしたアクセスが月に30件前後はあります。これだけの反響があるのだから、続編の制作か、せめて再放送でもしてくれれば良いのにと思うのですが、残念ながらそういう動きは無いようですね。なんとかならないものなのかな。

sinonokesikiその代わりという程でもないのですが、当ページを訪れて下さる「恋する京都」のファンの方に、ささやかなプレゼントを贈ります。それがこの志乃がいつも見上げていた八坂の塔と、彼女が大好きだった塔の2階の窓からの景色。これを見て少しでもドラマの雰囲気を思い出して頂けたら幸いです。そして、ご存じかとは思いますがドラマのシナリオが判一彦さんのオフィシャルサイトに掲載されていますので、併せて懐かしい世界に浸って下さい。トップページからSCRIPTをクリックすると、上から2つ目に「恋する京都」のシナリオが掲載されています。

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2005.01.28

京都 義経の里@鞍馬山 

kurama11

木立なす 鞍馬の山のその奥に 天狗の棲むと人のいう

京都の北に位置する鞍馬山。東の比叡山、西の愛宕山と共に、都を守る霊山の一つです。しかし、朝日の射す比叡、夕日に染まる愛宕に比べて、北の鞍馬はどこか暗い印象がするのを否めません。また、比叡を越えれば近江の野、愛宕の向うには亀岡の盆地が広がりますが、鞍馬の背後はどこまで行っても山また山の丹波です。京都盆地から見る鞍馬山は、なにか底知れぬ闇を控えているかのようにも見えます。その闇が、いつしか鞍馬天狗の伝説に結び付いていったのでしょうか。

京都市内から鞍馬寺までおよそ12km。鞍馬寺に預けられた遮那王は、夜な夜な寺を抜け出しては都へと通ったと言います。ただでさえ険しい山道を、夜の夜中にたった一人で下ってくるのですから、それだけでも都人に恐ろしげな印象を与えた事でしょうね。夜道を行く遮那王の姿は、既に伝説の中の人物だった事でしょう。

雪雲に煙る鞍馬を見ていると、遮那王を育てた妖のものが、今でもそこに居るかの様に思えてきます。

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2005.01.27

義経 3の3

義経 第3回 「 源氏の御曹司 」その3

安芸の宮島、厳島神社に32巻の写経を納納し、舞楽に見入る清盛以下平家一門の人々。この年の2月に、清盛は、従一位、太政大臣への昇進を果たします。

と、ドラマではあるのですが、史実においては清盛が平家納経を厳島神社に収めたのは1164年(長寛2年)9月の事とされます。そして、太政大臣になったのは1167年(仁安2年)2月で、3年の開きがあります。ドラマ上ではどちらも同じ1167年の出来事としたのは、平家の絶頂期を演出するためにわざと年代をずらせたのでしょうか。

また今気付いたのですが、番組の冒頭では1165年(長寛2年)となっていましたが、西暦が正しいとすれば、これは改元のあった6月5日より前なら(長寛3年)、それ以降なら(永万元年)とするのが正解ですね。柿が実って菊が咲いていましたから(永万元年)かな。どうもこのあたり混乱が見られるようです。ちなみに平家納経は、32巻の経文に清盛の願文を含めて33巻とするのが通常の様です。まあ、どれもこのドラマの流れの中ではあまり重要なポイントではないので、これ以上突っ込まずにスルーしてしまう事にしましょう。

ドラマで、遮那王の出自を教えた義盛は、後の源行家。頼朝、義仲、そして義経の運命に大きく係わる人物です。ただし、鞍馬に現れて義経に会ったという記述はどこにも見あたりません。彼に会いに来たのは、義経記によれば義朝の郎党である鎌田次郎正清の子鎌田三郎正近となっています。

正近は平治の乱の後出家して西国で修行を積み、正門坊という名の僧侶になっていました。別名「四條の聖」。彼は遮那王が鞍馬に居る事を知り、一度会ってみて見込みがある様なら、共に伊豆の頼朝の下へ走って、反平家の旗を揚げようと考え鞍馬寺へとやってきたのでした。彼は首尾良く東光坊に入り込む事に成功し、ある夜遮那王の下に忍び込み、遮那王が源氏の御曹司である事を伝えます。

また、平治物語では、母の言葉を思い出した遮那王が、自分で諸家の系図を探って出自を知る事になっています。

あまりドラマの創作部分にけちを付けたくは無いのですが、これだけの重大事を、白昼堂々、東光坊の一室で大声を上げながら伝えるという設定は如何かなものかと思うのですが、どうでしょうか。もしこれが平家方に漏れれば、遮那王も義盛も、さらにはその場を与えた鞍馬寺さえも只では済まなくなるのですからね。ドラマの設定では、どうやら覚日は遮那王というか源氏に対して同情的で、平家方に通じる恐れは全くないという事の様ですが、他にも大勢の修行僧が居る訳ですからね...。幼い遮那王を水の中に飛び込ませ、成長した遮那王と交代するという演出にするための設定なのでしょうけれども、あまりに不自然というか不用心に過ぎると思いうのですが...。

それはともかく、ここまで好演していた神木君(マルクル)が退場するのは寂しいですね。特に先日「ハウルの動く城」を見たばかりでしたので、鬼一法眼役の三輪さん(荒れ地の魔女)とのからみは興味深いものがありました。また清盛との親子の様な関係も自然な感じで、本当にそうだったのではないかと思ってしまいそうです。このドラマでは清盛以下の平家一門を、敵役として見る事は難しそうですね。なんだか平氏に対する見方が、これまでと変はわってしまうかも知れないという気がしてきました。この先も、なかなか楽しめそうなドラマです。

この項は、以下の資料及びサイトを参照しています。 

別冊歴史読本「源氏と平家」、週間「義経伝説紀行」、「義経デジタル文庫

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2005.01.26

義経 3の2

義経 第3回 「 源氏の御曹司 」その2

遮那王が修行する場となった鞍馬寺の創建は、奈良時代に遡ります。770年(宝亀元年)、鑑真和上の高弟である鑑禎上人が、夢に現れた鞍を付けた白馬の導きによって鞍馬山に登りました。ところがそこで上人は鬼女に襲われ、危ういところを毘沙門天に救われます。上人はその功徳を尊んで草庵を結び、毘沙門天をお祀りしたのが鞍馬の始まりとされます。

その後、796年(延暦15年)に、かねてから観世音を祀る堂を建てたいと念願していた造東寺長官の藤原伊勢人は、貴布禰明神のお告げを受け、さらに白馬の助けを得て鞍馬山に登ります。そこには、先に鑑禎上人が建てた草庵があり、毘沙門天が祀られていました。観世音を祀りに来たのにといかぶる伊勢人に、「毘沙門天も観世音も、根本は一体のものである」と再び夢のお告げがあります。そのお告げに納得した伊勢人は草庵を王城鎮護の道場として立派な堂舎に造り替え、毘沙門天と千手観音を併せ祀りました。そして鞍を背負った馬が鞍馬山に導いた事にちなみ、鞍馬寺と呼ぶようになったと言います。

この鞍馬寺にまつわる伝説に出て来る白馬が、ドラマのオープニングに現れる白馬のモチーフになっている様ですね。あの白馬は毘沙門天の使いとして義経の前に現れ、波乱の人生に彼を導く運命の象徴という事になるのでしょうか。

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2005.01.24

義経 3

義経 第3回 「 源氏の御曹司 」

五足が遮那王に吐き捨てるように言った蓮華王院。

蓮華王院は、三十三間堂の通称の方が広く知られていますね。これは千一体の観音像を祀るための堂を作るという後白河上皇の発願により清盛が造進したもので、後白川院政の政庁である法住寺殿の中心的な建物でした。法住寺殿は、不動堂・千手観音堂・念仏堂・北斗堂・五重塔などの堂塔伽藍を備えた広壮な構えを持ち、その中で蓮華王院は法住寺殿千躰観音堂と呼ばれていました。後に木曽義仲の焼き討ちに会い、蓮華王院を残して他は全て焼け落ちてしまいます。三十三間堂の名は柱間が33ある事から付けられたもので、延長120mにも及ぶという他に例を見ない様な長大な建物です。成人の日に行われる通し矢の舞台としても有名ですね。

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2005.01.20

大河ドラマ「義経」原作本@宮尾登美子

yositunegensaku11
amazonへのリンク義経

大河ドラマの原作本、「義経」(NHK出版)。極彩色の見事な装丁に惹かれて買ってしまいました。

原作本とありますが、ドラマのストーリーとはあまり関係なく、史実、物語、伝説、作者の創作を織り交ぜた解説本と言った方がより正確です。本当の原作本は「宮尾本 平家物語」、だと思います。多分。こっちはまだ読んでいないので、何とも言えないのですけどね...。

解説本として見た場合、出典が書かれていないのと、作者による創作がかなり入っているのとで、義経をマニアックに知りたいと言う人には向かないかも知れません。しかし、ドラマを楽しむ為に、ある程度の知識が欲しいという人には、ぴったりの本と言えます。当「ねこづらどき」を書くのにも重宝しそうですね。

宮尾本 平家物語」の方は文庫本にはなっておらず、単行本しかなく一冊2310円。これが4冊あるから、全部揃えると9240円。ちょっときついので図書館に頼ろうと思うのですが、かなりの順番待ちになっています。読めるのは、果たして何時の事になるやら...。

ちなみに、「義経」の装丁の絵は、屋島の合戦「義経弓流し」。馬を海に入れて戦う内に弓を流してしまった義経が、敵の矢をものともせずに弓を鞭でたぐり寄せ、無事に拾い上げると言うエピソードです。義経は、身体が小さくて力が無い故に弱い弓を使っていたのですが、その事を敵に知られるのを防ぐ為に命を張って弓を拾ったのだと言います。「名こそ惜しけれ。」の世界ですね。このドラマでもいつか再現されるかな。

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2005.01.19

義経 2

第2回 「我が父清盛」

福原を描いた屏風を、宋人達に披露する清盛。

福原とは今の神戸市の事で、大和田泊とは兵庫港のあたりに古代からあったとされる港です。平家は開墾地を背景とする源氏と違って、瀬戸内海を中心とする海運によって得た富を背景に勢力を築きました。清盛の父忠盛の代に海賊退治を命じられて瀬戸内の海運を押さえた事が、その後の平家の繁栄をもたらすきっかけになったと言われます。特に対宋貿易は莫大な富をもたらし、重要な収入源となっていました。ただ、当時は宋との間に正式な国交は無く、清盛は私的に九州を訪れる宋人を相手に貿易を行っていたのです。ドラマで宋人を密かに招いたと言っていたのは、こうした事情が背景にあるのですね。

清盛は政権を握ると、この対宋貿易を大々的に拡大しようとします。当時の宋の船は九州の港に入っていたのですが、そこで出来る交易には限界がありました。清盛はこれを一大消費地であり、かつ物資の生産地、集散地でもある都近くまで招き入れ、交易高を一気に増やそうと目論みます。そのために必要となる港が大和田泊でした。彼はこの港を大型船が入れるように改修すると共に、瀬戸内の航路の改修にも乗り出します。そして、さらには福原に居館を構え、京都から移り住んで対宋貿易の陣頭指揮に当りました。それほど福原と対宋貿易に入れ込んだ清盛は、ついには福原に都を移そうと計画します。そしてわずか半年余りでしたが、福原遷都を実現しました。このあたりについてはドラマの進行と共に出て来るでしょうから、その時に改めて触れる事とします。

客人が帰って誰も居なくなった部屋に、一人入ってくる宗盛。屏風に向かって石を次々と投げつけ、事が済むと満足げなゆがんだ笑みを浮かべて、部屋を出て行きます。

なにやら頼りなげに描かれている宗盛ですが、彼はほとんど全ての物語においても同じ様に描かれています。「源平盛衰記」に至っては、彼は清盛の子ではなく、傘職人の子であったとまで書かれています。後妻に入り、一人目の子としてなんとしても男の子が欲しかった時子が、同じ日に生まれた男の子と自分が生んだ女の子を交換したのが後の宗盛だったと言うのです。その真偽の程はともかく、武勇に優れていたとされる知盛や重衡に比べて、軍事面においてはあまり才能に恵まれていなかった事は確かな様です。その一方で心優しい人柄であったとも伝えられ、今後ドラマでどの様に描かれていくのか注目したいところですね。

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2005.01.16

京都 東山 異界としての六波羅 

六波羅とは霊の集まる場所の事。今は一見してありふれた住宅街に過ぎませんが、それでもよく探すと、そこかしこに異界との接点を見つける事が出来ます。

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まずは、三途の川。今は見てのとおりただの道路に過ぎませんが、かつてここには三世川という川が流れていました。そして、その川が異界へ行くときに渡るという、三途の川に見立てられていたのです。都という現世と六波羅という異界を隔てる境界だったのですね。ここを渡る時は、やはり六文銭を供えて行ったのでしょうか。
付近に川の痕跡がないかと探したところ、下水のマンホールがありました。もしかしたら三途の川は、今でも暗渠となって地下を流れているのかも知れません...。

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義経のエンディングでも出て来た六道の辻。六道とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の世界のことを指します。三途の川を渡ってきた人は、いよいよここから本格的に異界へと入っていく訳ですね。
かつては、このあたりから広大な鳥辺の墓地が広がっていました。今は風光明媚な東山ですが、平安の頃には荒涼とした死後の世界でした。野辺送りに来た人は、ここで送り火を焚いて死者を弔ったと言います。その場所が六道の辻として今に伝えられているのですね。

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さて、六道の辻には死者を裁く閻魔様もおられます。その場所がこの六道珍皇寺。この寺を入った右手にあるお堂には閻魔像が祀られています。写真には撮る事が出来ませんでしたが、なかなかの迫力ですよ。小さな子供だったら、泣き出す事間違いなしです。しつけの為にも、一度連れてきて拝ませると良いかも知れませんよ。
この閻魔像と並んで、小野篁の像も設置されています。篁は平安初期に実在した官僚ですが、生きながらにして閻魔庁の役人も兼ねていたという伝説で知られる人でもあります。

西三條の大臣と呼ばれた藤原良相という人が死んだ後、閻魔大王の前まで来ると、その横に見覚えのある顔が並んで居ます。よく見ると、なんと旧知の小野篁でした。良相に恩のあった篁は、彼を認めると大王に対して、「良相は高潔な人物です。この私に免じ、どうか生き返らせてやっていただきたい。」と頼んでやります。大王はこの篁の助言を聞いて良相を下界へと戻し、良相は天寿を全うする事が出来ました。良相は篁から口止めをされて黙っていたのですが、自然と周囲にこの話が漏れ、いつしか篁は地獄の顕官も兼ねていると知られるようになったという事です。(今昔物語)

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その篁が地獄へ通うために通っていたという井戸が上の写真。右下に石の井戸枠があるのが判るでしょうか。篁はここから夜な夜な地獄へと通い、戻ってくる時は嵯峨野にあった福生寺という寺の井戸から出て来たと伝えられます。

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まさに何でも有りという六波羅ですが、幽霊にまつわる伝説もあります。それがこの幽霊子育飴。墓の中で子を産んだ女性が幽霊となって現れ、飴を買ってはその子を育てていたという話を聞いた事がある人も居るのではないでしょうか。その発祥の地がここなのですね。

およそ観光地とは言えない六波羅界隈ですが、調べてみると色々興味深い事が判ります。こういう探訪が出来るのもまた、京都の魅力の一つですね。

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2005.01.15

京都 東山 六波羅第

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義経に登場する六波羅の平家屋敷。正確には六波羅第と言い、東山にあった平家の屋敷群の総称とされます。最初は1町(約109m)四方から始まったのですが、最盛期には20町四方に及び、その邸宅は5200を数えたと言います。まさに栄華の象徴のような存在だったのですが、平家の都落ちの際に火が掛けられ、全てが灰燼に帰しました。現在、洛東中学校の正門を入ったところに史跡を示す石碑が建っています。

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この周辺で石碑以外に六波羅第を偲ばせるものは皆無と言って良く、わずかに地名にその名残を留めています。写真は門脇町の案内看板。門脇とは総門の内という意味で、このあたりに門脇宰相と呼ばれた平教盛の邸宅があったのではないかと推測されています。また、写真の地図の一番下に池殿町と書かれているのが判るでしょうか。縮小したために読みにづらくなって申し訳ないのですが、この池殿というのは平頼盛の邸宅跡と推測されており、頼朝の命を救った池の禅尼もここに住んでいたと思われます。

この他、この付近には、三盛町(清盛・頼盛・教盛の事とも、通盛の事とも言われます)・多門町・北御門町・西御門町・弓矢町など、平家の屋敷があった事を連想させる地名が散在しています。(地図参照

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上の写真は六波羅第(門脇町から池殿町にかけて)の現状。見てのとおり民家がひしめく下町で、かつて豪邸が建ち並ぶ地域だっとはとうてい思う事は出来ません。

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この付近で当時から続く史跡としては、六波羅密寺があります。六波羅蜜寺は、951年(天暦五年)に空也上人によって開創された寺で、真言宗智山派に属します。本来平家とは直接関係は無いのですが、清盛の父忠盛が軍勢をここに置いて以来、この寺を取り囲むように平家の邸宅が築かれました。その関係から清盛像や清盛塚といった平家に縁のあるものを、今も伝えています。

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清盛の邸宅は泉殿と呼ばれたのですが、どこにあったのかは諸説があって正確には判りません。池殿の北一町にあったとも言いますから、六波羅蜜寺の西側から北に向けて広がっていたのでしょうか。この写真は今の五条大橋から松原橋方面を見たところ。当時の五条大路は今の松原通にあたり、今の五条通は六条坊門小路に相当します。平治の乱で源氏と平家が戦ったのは、このあたりから七条大橋にかけての河原でした。六波羅第はこの右手にあたり、泉殿も概ねこの付近のどこかにあったものと思われます。ただし、当時はもっと川幅が広く、今の川端通よりさらに東にまで河原が広がっていました。

かつて、ここには平氏が我が世を謳歌したきらびやかな世界がありました。また、ユリカモメが舞う今の姿からは想像出来ないような、血なまぐさい戦いもあったのですね。ここに立って思うのは、あまりの変容ぶりに義経の時代は遠いんだなという事と、矛盾するようですが、彼らは意外に身近に居たのだなという事です。少なくとも、義経や清盛が存在した同じ空間を歩く事が出来るのですからね。

京都に来られたときは、うんと想像力をたくましくして六波羅を訪れてみて下さい。

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2005.01.13

義経 1の3

義経 第1回 「運命の子」その3
六波羅の清盛邸。重盛と頼盛が話しています。
「しかし、叔父上、頼朝の命を助けよなど。」
甥の言葉に気弱にため息をつく頼盛。
「何故、池の禅尼様はそのような事をおおせになったのですか。」
「いや、それが、先日母上にお会いした折り、源氏の家督の者を見たという話になり、けなげにも塔婆を作っているとか、年格好の事など。そうしたら、母上がそのような頼朝をあわれとおぼし召されてな。いや、それがし、母上のそのような思いが、判らぬではないのだ。先年、それがしの兄を亡くされて、気落ちしておられた故な。で、つい、頼朝の面差しが、亡き兄上に似ていたなどと。」
「家盛様にですか。」
と頼盛の言葉にあきれかえったような重盛。

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2005.01.12

義経 1の2

義経 第1回 「運命の子」その2
都を落ちた義朝は、残党を率いて大原口から近江へと抜けました。途中、叡山の僧兵に襲われるなど苦難に遭いながら琵堅田から瀬田を経て美濃へと向かいます。途中で付き従ってきた板東の武将達とは別れ、近江路を進んだのは長男義平、次男朝長、三男頼朝ら一族郎党全部で八騎。このうち頼朝は疲労が激しく二度に渡り一行から遅れ、一度は追いついたものの二度目は雪の中道を失い、北近江に迷い込みます。そこでとある老尼に助けられ民家に匿われて一命をとりとめています。

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2005.01.11

義経 1

義経 第1回 「運命の子」
まず最初にお断りしておかなければならないのが、義経の場合は新選組と違って、史実と言える部分が極端に少ないという事です。現在知られている義経の物語のほとんどは説話や伝説として伝えられたもので、史実の部分だけを拾っていこうとすると(それだけの実力も知識も持ち合わせてはいませんが)その大半をそぎ落としてしまわなければなりません。ここではドラマを楽しんで見ていく事を主題として史実には特にこだわらず、「義経記」、「平治物語」、「保元物語」、「平家物語」、「吾妻鏡」などで描かれた義経像とドラマを対比させ、その演出の狙いや背景を探っていくというスタンスで進めたいと思います。また、京都における史跡等についても紹介していけたらと思っています。

なお、私自身がまだまだ勉強の途中ですので、おかしな記述も多々出てくると思われます。お気づきの点やご意見についてコメント頂けましたら幸いです。

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