新選組!40
新選組! 第49回(最終回)「愛しき友よ」
近藤を嫌みなまでに、執拗に取り調べる谷。
谷は、龍馬が暗殺された直後に現場に行き、まだ息のあった中岡から犯人が「こなくそ!」と叫んだと直接聞いているだけに、新選組の原田の仕業と頭から決めて掛かっていました。そのため、近藤に対する尋問は執拗を極めたと言います。後に西南戦争で薩摩軍から熊本城を守りきった名将として名を残す谷ですが、こと龍馬暗殺に関しては最後まで新選組犯行説を信じていました。明治以後、元見廻組の今井信郎が犯行を自供した際には、今井の売名行為として非難さえしています。谷に限らず、土佐藩は新選組犯行説を支持しており、近藤に対して拷問を加えてでも白状させようとしたと言います。
ドラマでは近藤に尋問していた有馬ですが、実際には兵を率いて宇都宮に向かっており、近藤の尋問に当った薩摩藩士は平田九十郎でした。新選組始末記に収録されている谷の手記によれば、甲州行きについて質したところ、近藤は「大久保一翁より命を受けた。」と答え、甲州が不穏な情勢にあったため、官軍の通行の妨げにならないようにこれを鎮撫するためであったと答えています。谷が勝の指示ではないのかと聞いたのは近藤達が流山に屯集していた事についてであり、これに対して近藤は「臣下の分を尽くさんためなり。」と否定しています。
谷は近藤の口を割らせ、その背後に居る勝や大久保の企みを明らかにしたいと考えていたのですが、江戸城の無血開城を間近に控え、これ以上の混乱を欲しない薩摩の意向を受けて、平田がこれに極力反対しました。そしてその流れで、近藤については、一隊を率いる程の者に拷問を加えるのはよろしくないとして、身柄を京都に送るよう主張したと言います。
このあたり、土佐藩の酷薄さと薩摩藩の温情さが際だっていますが、龍馬を始め、藩士の多くを新選組に斬られたと思っている土佐藩と、鳥羽伏見で戦うまでは新選組とは友好関係にあった薩摩藩との違いを考える必要があるでしょう。薩摩藩は鳥羽伏見で敵になったとは言え、その戦った相手はあくまで旧幕府軍であり、新選組はその一部隊に過ぎませんでした。直接新選組の標的とされた長州藩・土佐藩と、そうではない薩摩藩とで対新選組の感情に大きく差が出るのは、むしろ当然と言うべきかもしれませんね。
土方に法度はまだ生きているかと聞き、一人仲間から去っていく尾形。
ドラマでは流山のすぐ後で脱退してしまった尾形ですが、実際にはこの後斉藤と共に会津へ行って、さらに戦い続けています。そして会津において行方不明になったとも、新選組の中でただ一人会津城に入ったとも伝えられていますが、確かな事は判っていません。ただ、永倉が後に建てた新選組の供養塔には尾形の名前は刻まれておらず、その頃はまだどこかで存命していたのではないかとも考えられています。会津での足取りが途絶えるまでは常に斉藤と行動を共にしていた事から、斉藤がその後の消息を知っていた可能性もあります。一説として、明治以後は古閑膽次という名で警視庁において斉藤とコンビを組み、密偵として活躍したとも言います。
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この記事へのコメントは終了しました。
コメント
TBをしました。
なおくんさんの続きを楽しみにしています。
投稿: Yuseum | 2004.12.14 22:11
Yuseumさん、コメントとTBありがとうございます。今回はいつもより15分長い分、書き応えがあって長く楽しめそうです。でも、もう後が無いんだなあと思うと、寂しさで一杯になりますね。
あと暫くの間、おつきあい願います。
投稿: なおくん | 2004.12.15 00:24