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2004.12.01

新選組!38の3

新選組! 第47回「再会」その3

近藤達を歓迎する多摩の人々。春日隊を率いて参戦するという佐藤彦五郎。

日野には、元々一揆を鎮圧する目的で組織された日野宿組合農兵がありました。この農兵は慶応2年に起きた武州一揆の時に活躍し、幕府からの感状を受けています。このとき、彦五郎率いる天然理心流の剣客達も参加しており、彦五郎もまた褒美状を受け取っています。春日隊は、この農兵から選抜して組織されたもので、彦五郎を筆頭に22名からなっていました。

一方、沖田については、甲陽鎮撫隊が彦五郎邸を立つ時に、見送ってくれる故郷の人々に向かって「池田屋で斬りまくったときはかなり疲れましたが、まだまだこの通りです。」と言って、相撲の四股を踏む真似をしたという話が伝えられています。しかし、その後、近藤から「病人は病気を治すのが仕事だ。」と諭され、一人江戸に帰ったとされています。

楽しげに宴会を続ける近藤を見て、戦争を前にのんびりしすぎていやしないかと不安がる永倉。

永倉が心配するのはもっともで、普通、甲陽鎮撫隊が破れたのは、故郷で歓待を受けるのに日時を費やしたために進軍が遅れ、結果として甲府城を先に取られたからだとされています。また、近藤は最初から勝てる見込みなど持っておらず、最後に故郷に錦を飾る積もりで悠然と接待を受けていたのだとする説もあります。しかし、実際には近藤なりに十分甲府には先に入れると計算していた様です。その根拠は、官軍の内紛にありました。

官軍の先鋒として東山道を進んでいたのが相良総三が率いる赤報隊でした。この赤報隊は進軍を容易にするために行く先々で年貢を半減すると布告しており、これがために赤報隊は大変な人気を集め、従軍を望む者が後を絶たなかったと言います。これに不信感を覚えた西郷は相良を呼び戻し、その真意を問い質します。相良にすればあらかじめ朝廷の同意を得て行った布告だったのですが、新政府にとっては財政を危うくしかねない行為であり、容認出来ないものでした。一旦は相良の申し分を聞いてこれを赤報隊に帰した新政府でしたが、改めて赤報隊を偽官軍として布告し、取り押さえを命じます。この経緯を近藤は掴んでおり、官軍はこの内紛を収めるのに精一杯で、とても甲府どころではないと踏んでいたのでした。これが2月の半ばごろの状況で、相良が赤報隊に帰ったのは2月23日の事でした。ところが、官軍の対応は思いの外迅速でした。赤報隊を追ったのは板垣退助率いる東山道軍で、板垣は2月29日に下諏訪に入ります。そして近藤が佐藤邸に居た3月2日に相良をはじめとする赤報隊の幹部を騙して呼び出し、これを捕らえると直ちに処刑して、赤報隊に解散を命じたのでした。そして、甲陽鎮撫隊の動きを知るや、谷千城が率いる別動隊を甲府へ派遣して、近藤達が到着するわずか一日前の3月4日に甲府城を押さえたのです。近藤は2月29日に東山道軍が下諏訪に入った事までは知っていたのですが、この赤報隊壊滅の情報までは掴んでおらず、5日に勝沼まで来た時に甲府城が官軍に押さえられた事を知り、訳が判らず愕然となったと言います。わずか数日で赤報隊が消滅してしまうとは、思っても見なかったのでしょうね。

また、多摩から甲府へ行く途中にある笹子峠を越える時に、雪に降られた事も誤算だったようです。ただでさえ難所の峠が雪に埋まったために行軍は難航を極め、多くの脱落者を出したと言います。元々寄せ集めの軍でしたから、難局に遭遇すると脆かったようですね。結果として多摩で日時を費やした事が命取りとなった訳ですが、少なくとも佐藤邸における近藤は十分な勝算を抱いていたと思われます。

捨助に伴われてやってきた菜っ葉隊の幹部。土方の隠し球として、期待を集めます。

既にあちこちで書かれていますが、菜葉隊は実在した部隊で、元々は横浜居留地の警備を任務としていました。甲陽鎮撫隊とも縁はあって、笹子峠で隊士が減ってしまったため、土方が急遽援軍を求めに行ったのがこの菜葉隊です。結果としては、菜葉隊はこの援軍の要請には応えて呉れず、土方が戻った時には戦いは既に終わっていたのでした。ですから、ドラマの設定は全くのフィクションなのですが、ビビる大木が所属している葉っぱ隊からの連想で、三谷幸喜が出演を要請してこの場面を創作したんだそうですね。そして、小松という名も菜っ葉からの連想で適当に付けたんだそうです...。

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