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2004年12月

2004.12.29

新選組から義経へ@年末の京都

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新選組に明け暮れた2004年も押し詰まり、京都は次の「義経」へ向けて着実に模様替えが進んでいます。写真は京阪三条駅で見かけた義経のキャンペーン。京阪は2004年は新選組のキャンペーンを展開し、新選組電車まで走らせていたのですが、放送の終了と共に義経に切り替えてきました。とりあえずは鞍馬をフューチャーしていますね。今度は義経電車でも走らせるのかしらん。

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こちらは、三条小橋の池田屋跡。さすがにこの周辺には、誠の旗がまだ残っていました。しかし、時間が早かった事もあって、看板に見入る人もおらずちょっと寂しい状態です。7月頃には、大勢の人で賑わっていたのですけどね。なにより、両脇にある居酒屋ののぼりがちょっと悲しい。多分、この看板は一時的なもので間もなく撤去されるのでしょうけど、少なくとも設置してある間はもうちっょと大事にして欲しかったな...。

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そして、段々と定点観察になりつつある新京極の様子。こちらは、クリスマスバージョンから正月バージョンに模様替えしていました。もしかしたら義経が来るかなと思っていた旗は、オーソドックスに舞妓さんが登場。源氏の白旗ではなく、平家の赤旗に染めたのはちょっと意外な感じがしました。

NHKの大河ドラマのホームページも義経に替わり、新選組が段々と過去へ追いやられて行く様で悲しいですが、その一方で新しいドラマへの期待も高鳴ります。どんな世界が繰り広げられるのか、まずはじっくりと見てみることにしましょうか。

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遅まきながら、「ハウルの動く城」感想記

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公開から1ケ月以上が経ち、いまさらながらと言う感じもしなくはないですが、ハウルの動く城を見てきました。場所は、京都の三条にある京都宝塚劇場。時間は一番早い9時開演の分です。

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公開から随分と時間が経っているのでさほど混まないかと思っていたのですが、甘かったです。着いたのが8時15分頃でしたが、既にご覧の行列。今更ながら、宮崎アニメの人気の高さを思い知らされました。最終的には8割の入りで、前列の左右のブロックが空いていたぐらいでした。ちなみに、次の回は満席だったようですね。観客はやはり子供連れが多かったですが、カップルや友達同士の若者も結構居ました。宮崎アニメのファン層の広さを物語っているようです。

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2004.12.27

新選組! 芹沢鴨の足跡

総集編で最も印象的だったのが芹沢鴨。総集編だけで言えば、佐藤浩市の存在感が他を圧していました。その芹沢鴨に敬意を表して、彼が活躍した史跡の紹介をします。

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蛤御門の位置

まず、蛤御門。八・一八の政変において出動を命じられた新選組が御所を守る会津藩兵に誰何され、通行を阻まれた時に芹沢が進み出て槍の穂先を扇いだというのがこの門前です。その時の憎々しい態度が会津藩に悪印象を残し、粛正の原因ともなったという事件ですね。この写真は蛤御門の柱の部分のアップ。白く変色しているところが蛤御門の変の際の弾痕と言われているものです。うーん、凄い。でも、この変の時には、芹沢はもう居なかったんですね...。

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菱屋跡の位置

次は、お梅が妾として住んで居たという菱屋の跡。長い間、菱屋は四条堀川にあったとされていましたが、前川本家にあった古文書によって西陣山名町にあった事が確認されました。上の写真で言うと、左端のマンションのあたりでしょうか。ここから壬生の屯所までは4km程度。約一里の道のりを、お梅は借金の催促のために通っていた事になりますね。

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大和屋跡の位置

最後は、芹沢が焼き討ちをした大和屋跡。現在は静かな住宅街になっており、左側の建物がなんとなく雰囲気を残していると言えば言えるかな。実際に行ってみると御所の近くである事が良く判り、苦情が殺到したというのも理解出来ます。

菱屋にしても大和屋にしても、史跡を示すものは何も残っていません。歴史的な意義が何もないから当然と言えば当然なのでしょうけど、新選組ファンとしてはちょっと残念ではありますね。

参考文献 「史伝 土方歳三」 木村幸比古    別冊歴史読本「新選組を歩く」 新人物往来社

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新選組!総集編

楽しみにしていた新選組!総集編も、あっという間に終わってしまいました。見終わった感想を一言で言ってしまえば、懐かしくて寂しい、かな。あー、もう一度リアルタイムに戻りたい!

一年間見てきた私にとっては、時間が限られた中、主要な場面を網羅してくれたうれしい内容でした。しかし、総集編で初めてこのドラマに接した人には、かなり判りづらい編集だったようにも思えます。例えば、冒頭でいきなり桂と近藤が喧嘩を始めますが、その前のシーンがカットされていたため何が原因で揉めていたのか判らなかった事でしょう。それに第三部が走りすぎで、ストーリーがまるで追えない。せっかくの新選組最盛期の様子が判らないのも残念でした。細かい点では、桜田門外の変が二度に渡って登場したり、大政奉還をした相手があたかも孝明天皇の様に見えたりとか、史実無視のドラマという印象を強くしかねないところも気になりました。

などなど、注文を付けたい点はありますが、面白いドラマであった事を再認識させてくれた事には変りありません。改めて、いくつか伏線があった事も確認できましたしね。本当に奥の深い脚本です。

最後におみつが持っていたふたつのコルクの栓。これは近藤と土方が生きた証なのでしょうね。皆が新選組を非難しまた忘れ去ったとしても、彼らの生き様はいつまでもおみつの中で消えることは無いという象徴なのでしょう。あるいは、おみつをこのドラマを見て来た人に置き換えても良いのかも知れません。新選組の終焉をイメージさせる落日に向かって歩いていくおみつの姿が印象的でした。

なんとか、全編を再放送してくれないかな...。

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2004.12.19

京都 鴨川@越冬ぶろぐ

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冬の鴨川に舞う鳥と言えば、ユリカモメ。別名、都鳥。はるか3000Km離れたカムチャッカ半島から渡って来ると言う冬鳥です。夜は琵琶湖を寝ぐらとし、昼間に餌を求めて鴨川に飛来するのだとか。

都鳥という位ですからなんだか昔から京都に居る鳥のような気がしますが、意外な事に飛来が確認されたのは1974年と割と近年になってからです。その原因の一つと考えられているのが、沿川に住む人たちによる餌やり。

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上の写真で、左上のカモメがパンの耳をキャッチしようとしているのが判るでしょうか。琵琶湖に居るより鴨川に来た方が、容易に餌にありつけるというのが鴨川に来る主な理由ではないかと考えられています。野生の鳥に餌をやる事については賛否がありますが、人の近くに来る事により餌場をちゃんと確保しているユリカモメは、したたかに生きている逞しい鳥だという見方も出来るようにも思えます。

もう一つの原因は、鴨川が綺麗になったという事かな、とも思っています。私の子供の頃の鴨川は生活排水によってとても汚れており、近づきたくなるような川ではありませんでした。しかし、ユリカモメが確認された1974年頃から徐々に清流を取り戻して来たという記憶があります。ユリカモメは河口や海岸に居る事が多く、そんなに綺麗な場所を好むという訳では無い様ですが、どぶ川の様な川ではやはり住めないでしょうからね。

今ではすっかり冬の風物詩として定着したユリカモメ。私としてはずっと鴨川に居て欲しいものだと思っています。

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2004.12.18

新選組!@京都 三条河原

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京都、三条河原。新選組!の最後を飾るにふさわしい場所は、やはりここしかないでしょう。慶応4年閏4月8日、近藤の首は、この場所に晒されました。
その罪状にいわく、
「此者儀、凶悪之罪有之処、甲州勝沼、武州流山において官軍へ敵対候条、大逆に付、可令梟首者也」。

この梟首された時の写し絵が当時の瓦版として発行され、それが今に残されています。その表情は肖像写真にあるような口を一文字に結んだいかにも剛強さを感じさせるものではなく、半ば口を開け、泣いているとも笑っているとも取れるような、人間味を感じさせるものです。そう、香取勇が最後にしてみせたあの表情ですね。恐らく香取慎吾は、この梟首の絵を意識して最後の演技をしたのではないでしょうか。

このとき、最後につぶやいた言葉が「歳。」その直前にはためいた隊旗と共に、主題歌に込められたこのドラマの主題がここに凝縮されていたように思います。

近藤が幽閉されていた部屋に残されたコルクの栓。あれは第一話からずっと土方と分かち合って来た夢の象徴でした。近藤の夢は官軍の手により無惨にも奪われ捨てられてしまったのですが、盟友の土方はなお持ち続けています。最後に近藤が土方に託したのは二人の夢。土方が誠の隊旗と共に戦い続けてくれる事こそ、近藤の望みでした。

このドラマを通して不満に感じていたのは、近藤があまりにも善人過ぎる事でした。近藤の性格を史実とは違った設定にしながら史実を追うという展開にしたために、あちこちで無理を生じているというのが気になって仕方がなかったのですが、最後にこの近藤の顔を見て私なりに納得が行きました。死を直前にした近藤にこの顔をさせたいがために、全編を描いてきたのではないかと思えたのです。夢半ばにして敗れる無念、妻や娘を置いて死ななければならない悲しみ、信念を貫いて生きてきた事に対する満足と誇り、そしてなお自分の夢を託せる友を持った事に対する喜び、あの最後の複雑な表情はその全ての想いを表したもののように思えます。そしてそれを表現仕切るには、近藤はピュアな人物でなければならなかったのではないでしょうか。

以上は、最終回を見終わった後の、私のつたない感想です。

この最終回のレビューを掲載している間、連日多くの方が訪問して下さいました。この一週間の訪問者数が約3300、そのうちリピーターの方がおよそ1600。これだけ大勢の方に私の書いたレビュー読んで頂けたというのは嬉しい限りです。本当にありがとうございました。

このドラマのすばらしさに魅せられて、ありのままに再現してみたいと思って始めたこの連載のスタイルでしたが、私の表現力の乏しさから十分にその魅力を伝えられていない事が心残りです。脚本家が意図した事、役者が演技に込めた思い、その全てを表現しきるだけのスキルを身につけていたらと残念でなりません。それほど細部に至るまで注意が配られた、質の高いドラマだったと思います。

それと、マイナー隊士の紹介をもっとしたかったですね。ドラマに新たに登場する人物が居なくなり中断せざるを得なかったのですが、新選組には他にも魅力的な隊士が沢山居ます。特に惜しかったのは、伊東一派の人物ですね。せっかく大量に候補者が現れたと思ったのに、名前が出て来たのはほんの数人でした。中には面白い人物が居たのですけどね。

最後に、この連載の中で記してきた史実の部分については、ドラマを楽しむためのスパイスとして、資料に基づきなるべく正確に伝えてきたつもりです。しかし、所詮は素人の悲しさ、誤った解釈の仕方や誤解を与える表現が混じっていたかもしれません。私自身、書いているうちに自分の勉強不足を痛感されられた事が何度もありました。ですから史実をちゃんと知りたいと思われる方は、私の書いたものを鵜呑みにするのではなく、各回の末尾に掲載してきた参考資料や、研究者が書かれた本を読まれる事をお勧めします。多分、ドラマ以上に新しい発見が幾つも見つかると思いますよ。

最後に、1年間に渡ってこんなに面白いドラマを見せてくれた三谷幸喜さんに感謝の意を表わして、締め括りとさせて頂きます。ありがとうございました。


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2004.12.16

新選組!40の4

新選組! 第49回(最終回)「愛しき友よ」その4

下野、宇都宮<新選組の陣。宇都宮城が落城したと聞き、悔しがる土方。足を怪我していますが、怪我の内には入らないと強がっています。

江戸城が開城された4月11日、土方は島田魁ら6人の隊士と共に鴻の台に赴き、大鳥圭介を総裁とする旧幕府軍に参加しています。ドラマでは土方と共にあった尾関ですが、彼はこの6人の中には含まれておらず、他の大半の新選組隊士と共に、斉藤に率いられて会津に赴いたもの思われます。このとき土方は、前、中、後軍と分かれた旧幕府軍のうち、前軍の参謀となっています。

この旧幕府軍が宇都宮で戦ったのは4月19日の事で、近藤が処刑された後の事でした。旧幕府軍はこの日の戦いで宇都宮城を攻略しており、この時、守備側に居た有馬藤太が負傷しています。新選組隊士も島田が東照大権現の旗を掲げて参戦し、ドラマにあったように桑名藩兵もまた土方の指揮下にありました。この戦いの最中に兵士達の間で形勢不利という噂が立ち、逃亡を図るものが出ます。これを見つけた土方はその中の一人を斬り殺し、「臆する者は、容赦なく斬り捨てる!」と宣言したと言います。そして、「斬って、斬って、斬りまくれ!」と連呼しながら進撃し、遂に宇都宮城を落としたのでした。しかし、4月23日に反攻してきた新政府軍に敗れ、宇都宮城は再び新政府軍の手に墜ちてしまいます。土方が足に怪我をしたのはこの時で、ドラマでは怪我のうちには入らないと言っていましたが、実際にはかなりの重傷であったらしく、暫くの間は治療に専念するために戦線から離れる事になります。

沖田を庇って、凶刃に倒れたお孝。

お孝が沖田の看病にあたったというのはフィクションで、実際には姉の後を継いで近藤の妾となり、一子をもうけています。また、沖田が刺客に襲われたという事実はありません。しかし、このドラマにおけるお孝と沖田の軽妙なやり取りは好感が持て、暗くなりがちな終盤にあって一服の清涼剤でした。まさかお孝を最後に死なせてしまうとは思いませんでしたが、沖田の孤独な死を演出するには、彼女が生きているとまずいからなのでしょうね...。

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2004.12.15

新選組!40の3

新選組! 第49回(最終回)「愛しき友よ」その3

とある酒場で一人酒を飲む永倉。側を通り過ぎようとした渡世人風の男が、ふと気付いたように声を掛けてきます。
祐天仙之助を敵と狙っていた大村達尾でした。

大村の敵討ちについては随分中途半端な形のままでしたが、最後の最後になって片が付きましたね。新選組始末記によれば、大村は文久3年10月15日に江戸で見つけた祐天仙之助を斬って、見事に親の仇討ちを果たしたとあります。ただ、これには祐天は本当の仇ではなかったという説もあるそうですね。そしてその大村は、仇を討った一月後に、祐天の用心棒であった内田佐太郎(彼が本当の仇だったとも言います)によって斬り殺されています。ドラマにあったように、親分の仇として撃たれてしまったのでした。恨みが恨みを呼び続けるのは、いつの時代も変わりがないのですね...。

容保候から、近藤の代わりとして虎徹を受け取る斉藤。そして、彼は近藤の首を奪還してくるよう命じられます。

斉藤と虎徹については、有名な近藤の虎鉄は元々斉藤が持っていたものだとする説があります。それによると、斉藤は夜店で刀を見つけ、それが無銘ながらただ物では無い事を見抜き、三両でそれを買って身につけていました。これを聞いた近藤が一目でその刀を気に入り、斉藤から譲ってもらったのだと言います。このシーンは、そうしたエピソードを踏まえて、斉藤に虎徹を持たせてやったのでしょうね。

また、容保が斉藤に近藤の首奪還を容保が命じたという事実はありませんが、後に土方に乞われた容保は近藤の戒名を付けてやり、会津若松市の東の山の麓にある天寧寺に近藤の墓を建てる事を許しています。そしてこの墓には、新選組隊士が奪い返した近藤の首が埋められているという伝説が残されています。このシーンのやりとりは、そうした伝承に基づいて描かれたものなのでしょうね。

京都。板の間の一部に絨毯と畳を敷き、障子戸にカーテンを引いた、和洋折衷とも言えないなんともアンバランスな部屋。部屋の隅には、椅子が置かれています。その畳の上に正座して、洋皿に載った、ポークステーキとオムレツを、フォークとナイフで食べようとしている木戸孝允。その傍らにいる幾松。近藤の処刑を思い、「あの男は嫌いでなかった。」とつぶやく木戸。

木戸が近藤の死をどう評価していたかは分りませんが、幾松については、三条河原に晒されていた近藤の首を盗ませて、土佐の寺に葬ったという説があります。これについては何の証拠も無いようですが、義侠心に富んだ幾松なら、たとえかつての敵であったとしても、京洛の地を震え上がらせた近藤の首が無惨に晒されているのを見過ごす事は出来なかっただろうと、当時の人は考えたのかも知れません。あるいは、その背後に木戸の意向を読んだ人も居たかも知れませんね。

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2004.12.14

新選組!40の2

新選組! 第49回(最終回)「愛しき友よ」その2

ドラマで、勝海舟を訪ねていた土方ですが、これは史実にあるとおりです。勝海舟の日記に近藤が捕らえられた翌日の4月4日の記事として、「土方歳三来る。流山の顛末を言う。」とあるのがそれで、これは一般に土方が海舟に近藤救出を依頼しに行ったと言われますが、文字通り顛末を語っただけではないかとする説もあります。このとき、勝がどう対応したのかは謎で、ドラマのようにすげなく追い返したとする説もありますが、どうやら何らかの手紙は書いてやった様子です。島田魁の日記に「相馬(後に函館で新選組最後の隊長となった人)が大久保、勝、土方公の封書を持って板橋に行った。」とあり、また、その手紙を見たと思われる上田楠次がある幕臣に対して、「勝が土方に言い含めた事とは何か。」と問い質したという手紙が残っているそうです。ドラマで勝が土方に向かって「榎本の下に行ってやれ」と言っていたのは、この幕臣の手紙にある上田の言葉を下敷きにしているのですね。ただし、肝心の勝の手紙はどこにも残っておらず、何が書かれていたかは不明です。

一方、ドラマでは官軍から旧幕府へ近藤の身分を問い合わせて、目付から既に幕臣にあらずとの回答があったとされていましたが、私の知る限りではそのような事実は無かったようです。ただしありそうな事ではあり、もしかしたら私の知らない資料が存在するのかも知れません。近藤の処刑を強行に主張したのは土佐藩であり、薩摩藩は反対、長州藩は薩摩藩次第、わずかに鳥取藩だけが土佐藩に同調していたようです。しかし、その鳥取藩も後には薩摩藩に傾き、孤立した土佐藩は大総督宮にまでこの件を訴えて、ついに近藤の斬首という断を勝ち取ったのでした。

「近藤の志を継ぐ者は、必ずこの多摩から出てくる」

鹿之助の言った言葉は、後に多摩が自由民権運動の一大拠点となった事で、実証されたと言えそうです。徳川家のお膝元である事を誇りにしていた多摩地方では、薩長閥が牛耳る新政府に対する不信感が根強く残り、また新選組がそうであったように同志間のネットワークが発達していたことから、活動家が育つ下地が揃っていたのですね。薩長の行いを不正義と考えて戦った新選組の精神は、明治以後は人々の解放を願う活動に姿を変えて、脈々と受け継がれて行ったと言えるのかもしれません。

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2004.12.13

新選組!40

新選組! 第49回(最終回)「愛しき友よ」

近藤を嫌みなまでに、執拗に取り調べる谷。

谷は、龍馬が暗殺された直後に現場に行き、まだ息のあった中岡から犯人が「こなくそ!」と叫んだと直接聞いているだけに、新選組の原田の仕業と頭から決めて掛かっていました。そのため、近藤に対する尋問は執拗を極めたと言います。後に西南戦争で薩摩軍から熊本城を守りきった名将として名を残す谷ですが、こと龍馬暗殺に関しては最後まで新選組犯行説を信じていました。明治以後、元見廻組の今井信郎が犯行を自供した際には、今井の売名行為として非難さえしています。谷に限らず、土佐藩は新選組犯行説を支持しており、近藤に対して拷問を加えてでも白状させようとしたと言います。

ドラマでは近藤に尋問していた有馬ですが、実際には兵を率いて宇都宮に向かっており、近藤の尋問に当った薩摩藩士は平田九十郎でした。新選組始末記に収録されている谷の手記によれば、甲州行きについて質したところ、近藤は「大久保一翁より命を受けた。」と答え、甲州が不穏な情勢にあったため、官軍の通行の妨げにならないようにこれを鎮撫するためであったと答えています。谷が勝の指示ではないのかと聞いたのは近藤達が流山に屯集していた事についてであり、これに対して近藤は「臣下の分を尽くさんためなり。」と否定しています。

谷は近藤の口を割らせ、その背後に居る勝や大久保の企みを明らかにしたいと考えていたのですが、江戸城の無血開城を間近に控え、これ以上の混乱を欲しない薩摩の意向を受けて、平田がこれに極力反対しました。そしてその流れで、近藤については、一隊を率いる程の者に拷問を加えるのはよろしくないとして、身柄を京都に送るよう主張したと言います。

このあたり、土佐藩の酷薄さと薩摩藩の温情さが際だっていますが、龍馬を始め、藩士の多くを新選組に斬られたと思っている土佐藩と、鳥羽伏見で戦うまでは新選組とは友好関係にあった薩摩藩との違いを考える必要があるでしょう。薩摩藩は鳥羽伏見で敵になったとは言え、その戦った相手はあくまで旧幕府軍であり、新選組はその一部隊に過ぎませんでした。直接新選組の標的とされた長州藩・土佐藩と、そうではない薩摩藩とで対新選組の感情に大きく差が出るのは、むしろ当然と言うべきかもしれませんね。

土方に法度はまだ生きているかと聞き、一人仲間から去っていく尾形。

ドラマでは流山のすぐ後で脱退してしまった尾形ですが、実際にはこの後斉藤と共に会津へ行って、さらに戦い続けています。そして会津において行方不明になったとも、新選組の中でただ一人会津城に入ったとも伝えられていますが、確かな事は判っていません。ただ、永倉が後に建てた新選組の供養塔には尾形の名前は刻まれておらず、その頃はまだどこかで存命していたのではないかとも考えられています。会津での足取りが途絶えるまでは常に斉藤と行動を共にしていた事から、斉藤がその後の消息を知っていた可能性もあります。一説として、明治以後は古閑膽次という名で警視庁において斉藤とコンビを組み、密偵として活躍したとも言います。

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2004.12.12

新選組!終幕@京都

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とうとう最終回を迎えた新選組!。舞台となった京都では、一足先に幕が下ろされていました。11月は未だ新選組で溢れていた新京極は、誠の隊旗がリースに代わってすっかりクリスマスモード。まだ駅や土産物店には幟が立てられてはいましたが、もう終しまいなんだなあとつくづく感じました。

今日のエンディングを見ながら思い返していたこの一年、懐かしい顔、印象深いシーン、これほど入れ込んだドラマはこれまでにはありません。暫くは呆然としたまま、時間が過ぎていきそうです。

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2004.12.09

新選組!39の4

新選組! 第48回「流山」その4

学問に励めと言われて、近藤と別れを告げる周平。

実際には甲陽鎮撫隊が勝沼に行くより前に脱走した周平なのですが、このドラマでは上手く脱退の理由を作ってやりましたね。この場面の近藤は、確かに父親を好演していました。せっかく近藤周平と呼んで貰った周平ですが、彼は明治以後、断絶していた谷家の戸籍を復活させる事に奔走し、最後は谷正武として生涯を終えています。また、残念ながら学問で身を立てたという事もなく、大阪で巡査を勤めた後、山陽鉄道の職員となっています。女性とのトラブルも伝えられ、決して平坦な人生ではなかったようですね。

一人待つ有馬と共に、官軍の陣地へ向かう近藤。

流山での近藤の出頭については、浪士文久報国記事では、官軍が押し寄せたとき、味方が裏山へ兵を展開したのを本陣を囲まれたと勘違いした近藤が、もはやこれまでと切腹しそうになるのを土方が止めたとあります。土方は近藤に、「いまだ切腹するには早い。偽名を用いて歩兵頭取と偽り、現在のように歩兵が諸方に散乱しているのは恐れ多い事で、その歩兵達を呼び戻すつもりで当所に出張したものであると言えば、きっと申し開きが立つ。」と言って、近藤を説得したとあります。

また、新選組始末記には有馬藤太の回顧談が掲載されています。流山の近藤捕縛を命じられた有馬は、早朝に近藤の本陣を急襲し、これを包囲してしまいます。これに気が付いた近藤達は直ちに応戦しますが、すぐに抵抗を止め、近藤自身が使者として有馬の下へ訪れ、大久保大和と書いた名刺を差し出します。有馬は、このとき既に近藤の正体を見破っていたのですが、あえて知らないふりをしていたと言います。近藤は、官軍に向かって発砲した事を詫び、有馬が官軍の本営まで同行するようにと誘うと、後始末をしてから伺うと返事をして本陣に帰って行きました。ところが夕方になっても、武器は届いたものの肝心の近藤は現れず、有馬が再び流山の本陣を訪れると、まだ支度を終えていなかった近藤が、「お待たせしました。」と出て来ました。近藤は小姓二人に、ピストル、短刀などを与え、「拙者亡き後は、気を付けて禁廷様へご奉公を励めよ。」と告げ、有馬と共に官軍の本営へと向かったとあります。有馬はこの後板橋に居た伊知地参謀に宛てて手紙を出し、近藤を十分待遇してやって欲しい事、近藤の処置については全て有馬自身にまかせて欲しい事などを述べています。有馬は近藤の人物を買っており、これをなんとか死なせずに済ましたいと考えていたようです。

この項は、新人物往来社編「新選組銘々伝」、「新選組資料集」、文藝別冊「新撰組人物誌」、別冊歴史読本「新選組の謎」、「新選組を歩く」、歴史群像シリーズ「血誠 新撰組」、子母澤寛「新選組始末記」、木村幸比古「新選組日記」、「新選組全史」、「史伝 土方歳三」、永倉新八「新撰組顛末記」を参照しています。

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2004.12.08

新選組!39の3

新選組! 第48回「流山」その3

宇八郎の家の座敷で、対座している宇八郎と永倉。永倉は宇八郎が作った隊に参加しますが、原田は京に戻ると言って去っていきます。

宇八郎(芳賀宜道)が結成した隊というのは靖共隊の事ですね。ドラマでは宇八郎が作ったと言っていますが、浪士文久報国記事では、永倉と原田が甲陽鎮撫隊を脱退した兵士達を引き連れて宇八郎の下を訪れ、彼を同志としたとあります。永倉と原田は宇八郎を隊長に据えて自分たちは副長に収まり、隊士を糾合します。靖共隊には旧新選組隊士や旧幕府軍、あるいは諸藩の浪士達が集い、最終的には約100名の隊士を擁するに至りました。靖共隊は旧幕府軍歩兵第七連隊に付属し、小山から宇都宮、日光と転戦して、最後に会津で敗れるまで戦い続ける事になります。

また、ドラマでは靖共隊に入らずに京都に向かった原田ですが、実際には靖共隊の副長になったのは先に書いたとおりです。慶応4年4月10日に江戸城が明け渡しになると共に靖共隊は江戸を離れます。浪士文久報国記事に寄れば、江戸を出立した後、行徳宿を経て山崎宿にまで来たとき、原田は「余儀ない事情がある。」として隊を離れ、行徳宿まで引き返してしまいます。すぐに戻るはずだったのですが、官軍に行く手を遮断されたため、やむなく江戸に戻って彰義隊に参加したとあります。また、同じく永倉の回顧談をまとめた「新撰組顛末記」では、原田は「妻子の愛着に引かされ、辞を設けて江戸へ引き返した。」と記されています。ただ、このとき妻のまさや息子の茂は京都にあって江戸には居らず、妻子に会いたいが為に江戸に引き返したというのは少し変な気がしますね。恐らくは別の事情があったものと思われますが、ドラマでは「新撰組顛末記」に書かれている説を採って、家族思いの原田が京都を目がけて走るという展開にしたのですね。

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2004.12.07

新選組!39の2

新選組! 第48回「流山」その2

近藤達が居た長岡屋は、ドラマではまるで旅籠の様でしたが、実際には酒造家でした。近藤達が流山に来たのは偶然ではなく、ここが元々、船橋や松戸と並んで幕府脱走兵が集結する土地だったからのようですね。近藤達がここで再起を図ったのは会津に向かうつもりだったと言いますが、浪士文久報国記事では再度甲府城を襲うつもりだったとあります。せっかく御朱印までいただいた百万石の夢が忘れられなかったという事ですが、これが事実だとすると、あまりにも状況認識が甘かったと言わざるを得ないのですが...。

対して、近藤達を追ってきたのは、勝沼で甲陽鎮撫隊を破った東山道軍でした。彼らは関東を平定しつつ宇都宮へ向かう途中だったのですが、春日部まで来たときに流山に賊徒が居るという情報を得たのでした。これに対応するために派遣されたのが、香川が率いる一隊でした。

ドラマに出て来た官軍の人物をざっと紹介すると、まず大軍監である香川敬三。この人は水戸の人で、本名は蓮田伊織。志士としての活動歴は古く、水戸藩へ下された勅許の返還を巡る長岡事件に係わっていたと言いますから、芹沢鴨とも面識があったのかも知れませんね。のち、脱藩して土佐脱藩の田中顕助らとともに大阪城の焼き討ちを計画したとされます。この計画は事前に幕府側に漏れ、新選組の谷三十郎、万太郎の兄弟が香川達の隠れ家を襲ったのですが、香川はたまたま外出していたために事なきを得ています。しかし、香川はこの事により新選組に対し、恨みを抱くようになったと言います。のち、岩倉具視や中岡慎太郎と知り合ったのが縁で土佐陸援隊に入り、中岡の死後は田中に次いで副長格になりました。戊辰戦争では東山道軍に加わっていますが、大軍監ではなく副参謀格とする説が一般的のようですね。のち、主として宮中に仕え、伯爵を授けられています。大正四年まで生き、77歳で亡くなっています。

次に、土佐藩の上田楠次。この人は土佐勤王党の一人で、龍馬とも交流がありました。土佐勤王党の多くの同志が脱藩していく中で上田は土佐藩に止まり、首領の武知瑞山が切腹して果てたときは、その遺体を自宅まで届けたと言います。龍馬のように華やかな活動歴というのは無く、土佐藩主に従って大坂に駐留したり、土佐藩の汽船「胡蝶丸」に乗ったりしていたようです。戊申戦争では東山道軍の軍監の一人として参加していますから、勤王党に居たという履歴がものを言ったのでしょうか。上田は流山で近藤を捕縛した後、小山の戦いで傷を負い、その傷が元で間もなく亡くなっています。

そして、有馬藤太。薩摩の人ですが、その前歴等はよく判りません。東山道軍では副参謀を務め、流山では斥候として出動し、近藤と接触しました。新選組始末記では、何かにつけて香川と激しく対立したとありますね。近藤の処分を巡っても、寛大な処分を主張する有馬と、極刑を主張する香川とで意見の衝突がありました。維新後は、有馬は一度は新政府に仕えますが、西郷の下野に従って官を辞し、鹿児島に向かう途中で大阪で掴まり、獄に下されます。大正13年、88歳で亡くなっていますが、生前に戊辰戦争の体験を語った「維新史の片鱗」という資料が残されています。

彼ら官軍の幹部達が被っている赤や白の長いカツラは、ヤクの毛で出来た被り物でした。色によって官軍の藩を表し、白熊(はぐま)が長州、赤熊(しゃぐま)が土佐、黒熊(こぐま)が薩摩だっとされますが、実際には個人個人でばらばらだったという説もあります。このヤクの毛は、官軍が江戸城の蔵で見つけて接収したものなのだそうです。なぜ、官軍がこうした装束を選んだのかは判りませんが、赤熊は戦国時代から存在しており、元々は文字どおり熊の毛で出来ていたようですね。

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2004.12.06

新選組!39

新選組! 第48回「流山」

勝沼から帰った近藤と土方は、ちりぢりになった隊士を集め、江戸の北東の五兵衛新田で、密かに再起を期します。

新選組が五兵衛新田に入ったのは1868年(慶応4年)3月13日の事で、4月1日まで滞在しています。この五兵衛新田で近藤達が世話になったのが金子家で、昭和50年にこの金子家から文書が見つかり、当時の新選組の様子が詳しく判るようになりました。それによれば、13日夜に近藤が率いる48名、その2日後は約50名を率いて土方が金子家に入りっています。ここで、新選組は隊士の徴募を行い、総勢200名を超える部隊となったといいます。この部隊はあくまで礼儀正しく、無礼を働く事は無かったと伝えられます。また、五兵衛新田滞在中の経済的な負担は金子家が行い、その額は300両に達したそうです。これに対して、出立のときに近藤が御礼として置いていったのは、わずか5両に過ぎなかったとか...。

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2004.12.04

京都 七味家@越冬ぶろぐ

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冬は鍋の美味しい季節。その鍋にかかせないのが七味ですね。京都で七味と言えば、清水産寧坂角にある七味家本舗。ここの七味はただ辛いだけではなく、美味しいと感じるから不思議です。

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その七味家さんのディスプレイ。ひょうたん、竹筒、プラッスチックと入れ物が違う七味、一味、山椒といった定番の商品のほか、一味チーズ、山椒チーズなんていうのも売っています。食べた事はないですが、どんな味がするのでしょうね。

このディスプレイの中に書いてあったのが、日本三大七味。ここ七味家本舗と、善光寺の八幡屋磯五郎、浅草のやげん堀を指すそのだそうです。同じ七味でも、それぞれの地域の食生活を反映して、微妙に中身が異なるようですね。いつか、三つを集めて味比べをしたいな。

中でも、やげん堀では客の好みに合わせてブレンドをしてくれるのだそうですね。その店先でのやりとりがまた楽しいのだとか。東京へ行く機会があったら、是非寄ってみたい店ですね。

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2004.12.03

京都 錦天満宮

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1月の記事でビルに食い込む鳥居を紹介した錦天満宮。今回は境内に入ってみます。

まず目に付くのが牛の像。大抵の天満宮にはつきものなのですが、これは祭神である菅原道真公が丑年に産まれた事に由来しているのだとか。また、「よかとこ」で紹介されている太宰府天満宮にちなむという説もあるようです。それによれば、道真公が太宰府で亡くなったとき、そのご遺体を牛車で運ぼうとしたのですが、途中で牛がどうしても動かなくなり、これを道真公のご意志と解釈してその地に埋葬しました。そこが現在の太宰府天満宮となった事から、牛を道真公の使いとするのだそうですね。この牛の像の頭や腰の色が変わっているのは、この像をなでるとその部分が良くなるとされているからです。この像には、大勢の人の願いが籠もっているのですね。

牛の奥にある苔むした石組は、「錦の水」と呼ばれる名水が湧き出る手水所です。これほど便利な場所にある名水も珍しく、遠くから汲みに来る人も多いようです。お茶を淹れるのに使ってもよし、コーヒーにも合うようですね。今度はペットボトル持参で行こうかな。

狭い境内ですが、時間を割いて寄ってみるだけの価値のある神社ですよ。

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新選組フィギュア5

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夕日を浴びて剣を構えているのは、新選組一番組組長沖田総司。「新選組戦場録」シリーズの中の一体です。このフィギュアのテーマが「沖田最後の戦い」。何の事だろうと思っていたのですが、説明書きによれば1867年1月7日にあったという、浪士達との斬り合いでした。これは新選組始末記にも出て来ますが、永倉、斉藤、沖田の3人が十津川郷士の中井庄五郎と土佐藩士の那須盛馬を相手に四条大橋で戦ったという事件です。原因は何かと言うと、要するに酔った上での喧嘩だったのですね。「最後の戦い」と銘打つには少々情けない気がしますが、事実なんだから仕方がないか。そもそも、池田屋以外で沖田がまともに戦ったという記録がほとんど無いのですよね。

このシリーズも結構揃って、後は五稜郭の土方とシークレットを残すのみとなりました。ただ、最近はコンビニに行っても置いていないのですよね。そろそろ、通常の発売は終わりかな。また京都へ行って探して来るとしますか。

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2004.12.02

新選組!38の4

新選組! 第47回「再会」その4

八王子宿の宿、「鍵屋」。
「俺たちの京の5年間は何だったのだ。世の中を引っかき回しただけだったのか。」と嘆く土方。
「自分は、いつも正しいと思う事をやって来た。悔いはない。」と近藤。

土方と近藤のやりとりは、新選組に対する評価として常に繰り返されて来たものでもありますね。新選組が歴史に果たした役割を真正面から評価すると、大抵の場合「世の中を引っかき回しただけ。」という答えが返ってきます。この手の評価の中で最も手厳しいのが奈良本辰也さんで、「(新選組は)花であれば、あだ花であり、動物の体で言うなら、何かの菌が入って出来た肉腫のようなもの。」と容赦なく斬り捨てています。新選組は幕末の京都の治安維持の為に組織された警察部隊でしたが、幕藩体制から近代国家へと移り変わって行く歴史の流れの中で捉えれば、その奔流を阻害する障害物に他なりませんでした。歴史に何かの影響を与えたと言える事績は池田屋事件以外には何も無く、その意味からすればまさしく身体の中に出来た血流を阻害する肉腫と言わざるを得ません。

しかし、新選組の魅力というのは、そんなところには無いのですね。落日の幕府を支え、浪士が跋扈する京都の治安を守る事を正義と信じて生きたのが彼らであり、その生き様にこそ惹かれるのです。元々の立脚点が歴史の流れに逆らうところにある以上歴史的評価が低くなるのはやむを得ない事で、己の信念に従って生きそして散っていった群像として捉えたとき、はじめて新選組の魅力が見えて来るのです。

甲州勝沼の陣で、せっかくの大砲の使い方が判らず、途方にくれる土方達。

せっかく大砲を支給された甲陽鎮撫隊でしたが、大砲を扱える人間が居なかったようですね。一説によると、近藤は甲府城を守る甲府勤番士と連絡を取り合って居たのですが、その勤番士の中に砲術の心得がある人物が居たそうです。近藤は、この人物を当てにして大砲を持ってきたのですが、先に城を押さえられたため、せっかくの大砲が使えなくなったのだと言います。

勝沼での戦いは、実際に戦闘が行われた地名を取って、柏尾の戦いと呼ばれます。当初200名程度だった甲陽鎮撫隊は、笹尾峠を越えた後は121名にまで減っていました。このため、近藤は菜葉隊の援軍を呼ぶために土方を派遣すると共に、近在の農村から農兵を募って、兵力の不足を補おうとします。ところが、官軍は2000の兵力を擁しており、その圧倒的な兵力の差を見てせっかく集めた農兵は見物人に早変わりしてしまったと言います。甲府城に入れなかった時点で勝負は付いていたのですが、それでも近藤は白山平というところに陣を張り、官軍と対峙します。これに対して、まず官軍は正面から戦いを挑みますが、鎮撫隊は善戦し、暫くは官軍を寄せ付けませんでした。しかし、白山平の裏山に迂回した官軍の別働隊が背後から襲いかかると、戦況は一変します。背腹に敵を受けた鎮撫隊は大混乱に陥り、ひとたまりもなく潰走してしまったのでした。戦闘開始から、わずか2時間の出来事だったと言います。

この戦いの前日、あまりの兵力差に、隊士達が援軍が無ければ戦えないと訴えたと言います。これに対して近藤は、会津の援軍がそこまで来ていると嘘の情報を流し、とりあえずその場を収めました。しかし、戦況が不利になり、援軍が来るというのも嘘だと判ると、隊士達は近藤に不信感を覚え、続々と戦線を離脱したと言います。やむなく江戸へ引き返した鎮撫隊ですが、その後の方針を巡って近藤・土方と永倉・原田の間で対立が生じます。永倉と原田は彼らと意見を同じくする隊士達と語らい、近藤・土方に対して会津に行こうと提案します。ところが、これに対して近藤は「自分の家来となるなら同志とするが、そうでなければお断りする。」と答えたと言います。元々、勝沼で近藤が援軍が来ると嘘をついた事に立腹していた永倉達は、近藤のこの言葉を聞いて遂に新選組からの離脱を決意したのでした。

ますます寂しくなった新選組。次回は遂に「流山」。とうとう、ここまで来てしまいましたね。この地名だけは見たくなかったです...。

この項は、新人物往来社編「新選組銘々伝」、別冊歴史読本「新選組の謎」、「新選組を歩く」、歴史群像シリーズ「血誠 新撰組」、子母澤寛「新選組始末記」、木村幸比古「新選組日記」、「新選組全史」、「史伝 土方歳三」、永倉新八「新撰組顛末記」を参照しています。


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2004.12.01

新選組!38の3

新選組! 第47回「再会」その3

近藤達を歓迎する多摩の人々。春日隊を率いて参戦するという佐藤彦五郎。

日野には、元々一揆を鎮圧する目的で組織された日野宿組合農兵がありました。この農兵は慶応2年に起きた武州一揆の時に活躍し、幕府からの感状を受けています。このとき、彦五郎率いる天然理心流の剣客達も参加しており、彦五郎もまた褒美状を受け取っています。春日隊は、この農兵から選抜して組織されたもので、彦五郎を筆頭に22名からなっていました。

一方、沖田については、甲陽鎮撫隊が彦五郎邸を立つ時に、見送ってくれる故郷の人々に向かって「池田屋で斬りまくったときはかなり疲れましたが、まだまだこの通りです。」と言って、相撲の四股を踏む真似をしたという話が伝えられています。しかし、その後、近藤から「病人は病気を治すのが仕事だ。」と諭され、一人江戸に帰ったとされています。

楽しげに宴会を続ける近藤を見て、戦争を前にのんびりしすぎていやしないかと不安がる永倉。

永倉が心配するのはもっともで、普通、甲陽鎮撫隊が破れたのは、故郷で歓待を受けるのに日時を費やしたために進軍が遅れ、結果として甲府城を先に取られたからだとされています。また、近藤は最初から勝てる見込みなど持っておらず、最後に故郷に錦を飾る積もりで悠然と接待を受けていたのだとする説もあります。しかし、実際には近藤なりに十分甲府には先に入れると計算していた様です。その根拠は、官軍の内紛にありました。

官軍の先鋒として東山道を進んでいたのが相良総三が率いる赤報隊でした。この赤報隊は進軍を容易にするために行く先々で年貢を半減すると布告しており、これがために赤報隊は大変な人気を集め、従軍を望む者が後を絶たなかったと言います。これに不信感を覚えた西郷は相良を呼び戻し、その真意を問い質します。相良にすればあらかじめ朝廷の同意を得て行った布告だったのですが、新政府にとっては財政を危うくしかねない行為であり、容認出来ないものでした。一旦は相良の申し分を聞いてこれを赤報隊に帰した新政府でしたが、改めて赤報隊を偽官軍として布告し、取り押さえを命じます。この経緯を近藤は掴んでおり、官軍はこの内紛を収めるのに精一杯で、とても甲府どころではないと踏んでいたのでした。これが2月の半ばごろの状況で、相良が赤報隊に帰ったのは2月23日の事でした。ところが、官軍の対応は思いの外迅速でした。赤報隊を追ったのは板垣退助率いる東山道軍で、板垣は2月29日に下諏訪に入ります。そして近藤が佐藤邸に居た3月2日に相良をはじめとする赤報隊の幹部を騙して呼び出し、これを捕らえると直ちに処刑して、赤報隊に解散を命じたのでした。そして、甲陽鎮撫隊の動きを知るや、谷千城が率いる別動隊を甲府へ派遣して、近藤達が到着するわずか一日前の3月4日に甲府城を押さえたのです。近藤は2月29日に東山道軍が下諏訪に入った事までは知っていたのですが、この赤報隊壊滅の情報までは掴んでおらず、5日に勝沼まで来た時に甲府城が官軍に押さえられた事を知り、訳が判らず愕然となったと言います。わずか数日で赤報隊が消滅してしまうとは、思っても見なかったのでしょうね。

また、多摩から甲府へ行く途中にある笹子峠を越える時に、雪に降られた事も誤算だったようです。ただでさえ難所の峠が雪に埋まったために行軍は難航を極め、多くの脱落者を出したと言います。元々寄せ集めの軍でしたから、難局に遭遇すると脆かったようですね。結果として多摩で日時を費やした事が命取りとなった訳ですが、少なくとも佐藤邸における近藤は十分な勝算を抱いていたと思われます。

捨助に伴われてやってきた菜っ葉隊の幹部。土方の隠し球として、期待を集めます。

既にあちこちで書かれていますが、菜葉隊は実在した部隊で、元々は横浜居留地の警備を任務としていました。甲陽鎮撫隊とも縁はあって、笹子峠で隊士が減ってしまったため、土方が急遽援軍を求めに行ったのがこの菜葉隊です。結果としては、菜葉隊はこの援軍の要請には応えて呉れず、土方が戻った時には戦いは既に終わっていたのでした。ですから、ドラマの設定は全くのフィクションなのですが、ビビる大木が所属している葉っぱ隊からの連想で、三谷幸喜が出演を要請してこの場面を創作したんだそうですね。そして、小松という名も菜っ葉からの連想で適当に付けたんだそうです...。

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