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2004.11.25

新選組!37の4

新選組! 第46回「東へ」その4

江戸城の廊下を歩く近藤。会津候に会いに来たようです。慶喜が恭順する事を教えられ、勝てる戦だと反発する近藤。鳥羽伏見で死んでいったものたちが浮かばれないと言われ、涙を流して悔しがる会津候。

慶喜が恭順に徹するという方針は、大局的に見れば正しい決断でした。これによって、徳川家と官軍の全面衝突という事態は回避され、その後の戊辰戦争も比較的短期間で終了しています。もし、慶喜が徹底抗戦の道を選んでいれば、西と東に分かれた内線が延々と繰り広げられ、国土は荒廃し、外国の干渉を招いて植民地化の道を歩いていたかもかもしれません。しかし、その一方で、徳川の為に戦った者達は、非情にも見捨てられる事になります。その最たるものが会津藩であり、桑名藩であり、新選組でした。このあたりについては、次回のドラマで描かれることでしょうね。

番組の最後で紹介されていた沖田総司終焉の場所ですが、ここに出てきた浅草の今戸神社境内の他に、千駄ヶ谷池尻橋の植木屋平五郎宅とする説もあります。今戸の松本良順宅と書き残しているのは永倉の「同志連名記」で、千駄ヶ谷としているのは子母澤寛の「新選組始末記」です。そして後者の方には、有名な黒猫の逸話が出てきます。この二つの説を併せて、最初は今戸に居て、後から千駄ヶ谷に移ったとする説もあるようですね。どちらを支持するかは、研究者によってまちまちのようです。どちらかというと、子母澤寛の千駄ヶ谷説は、創作っぽいように思えるのですが...。ただ、沖田の最後に黒猫が出てこないと、なんだか物足りないという気もしますね。

ちなみに、沖田の墓は、麻生の専称寺にあります。私は20年近く前に訪れた事がありますが、六本木からほど近く、テレビ朝日通に面していたという記憶があります。にぎやかな環境の中で、寺の周辺は土の臭いがして、この一角だけ武蔵野が取り残されているといった印象でした。今はすぐ近くに六本木ヒルズが出来て、随分と様変わりしている事でしょうね。沖田の墓はあまりにも大勢の人が訪れる事から、年に一度行われる総司忌の日だけ解放されています。他の隊士の墓でそんな事態が起こっているところは無く、彼の人気を如実に物語っていると言えそうですね。

この項は、新人物往来社編「新選組銘々伝」、「新選組資料集」、別冊歴史読本「新選組の謎」、「新選組を歩く」、歴史群像シリーズ「血誠 新撰組」、子母澤寛「新選組始末記」、「新選組物語」、学研「幕末 京都」、木村幸比古「新選組日記」、「新選組全史」、「新選組と沖田総司」、歴史読本「平成10年12月号」、司馬遼太郎「最後の将軍」「王城の守護者」、永倉新八「新撰組顛末記」を参照しています。


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