新選組!37の3
新選組! 第46回「東へ」その3
江戸城。一足先に帰ってきた慶喜に、勝海舟が拝謁しています。戦わずして大阪から帰った言い訳をする慶喜に、皮肉をもって答える海舟。さらに、まだ新選組が残っていると主張する容保を、「新選組は、ただの時代遅れの剣術屋。時代の波を止める事は出来ない!」と一蹴してしまいます。
海舟は、甥の三浦啓之助が父の佐久間像山の仇を討つべく新選組に入っていた事から、土方から書簡を貰ったり、またその事で新選組に対して礼金を支払うなど決して縁は薄くはなかったのですが、その割に新選組に対して良い感情は持っていなかったようですね。その原因の一つとして、新選組が起こした池田屋事件をきっかけに、海舟が苦労して作った神戸の海軍操練所が閉鎖になった事があったと言います。この事が新選組の運命に大きく係わって来るのですが、それは次回に描かれるようですね。
夜の海を走る富士山丸。甲板で近藤と土方が話をしています。
「もう、刀と槍で戦をする時代は終わった。これからは、鉄砲と大砲だ。刀を振り回す侍の時代じゃない。」
としみじみと語る土方。
これは有名な土方のセリフですが、実際にこれを言ったのは1月16日に近藤に従って江戸城へ登城したときの事でした。彼は、佐倉藩士の依田学海に鳥羽伏見の戦いの様子を尋ねられ、「銃器、砲にあらざれば不可。僕、剣をはき槍を執る。一に用いるところなし。」と答えたと言います。手酷い敗北を喫したにもかかわらず、そこから敗因を見いだして新たな戦いに臨もうとする、過去にこだわらないという土方らしい柔軟さと不屈の闘志を秘めた言葉なのではないでしょうか。
富士山丸の艦橋に現れた榎本武揚。ワイン片手に洋服を着て帽子を被り、髭を生やした容貌は、どこか日本人離れしたものがあります。「開陽丸の艦長だったが、急な船出で乗り遅れたんだ。」と土方達に説明する近藤。
榎本が開陽丸に乗り遅れたのは、事実の様です。あまりに唐突な船出であったため、当時下船していた榎本は置いてきぼりを食ったのでした。それほど、慶喜の脱出は秘密裏に行われ、また艦長を待てない程急を要していたのですね。彼は後続の船で後を追ったとされますが、それが富士山丸だったかとうかは判りません。富士山丸で近藤が実際に会ったのは、榎本対馬守でした。彼は榎本に、「私は、京に上るときもう妻子の顔の見納めだと思って出ましたが、こうして逢うことが出来るとまた嬉しいものです。国家大事に際して、こんな心になるのはお恥ずかしい次第です。」と語っています。これに榎本は、「それが本当の人情です。文武に富んでも人情の無いものは、禽獣と同じです。」と答えたと言います。私、この逸話が結構気に入っていまして、強面の印象の強い近藤の素顔が透けて見えるような気がします。強いばかりでなく、こういう人情味を持っていたからこそ、隊士も彼に付いてきたのでしょうね。
富士山丸の船室で、尾形、島田らと話をしているうちに、いつの間にか息を引き取ってしまった山崎蒸。
山崎がどこで亡くなったかには、大阪とする説と富士山丸の艦内とする説の二通りがあります。さらに後者では、山崎は海軍の礼によって水葬にふされたと伝えられています。これが日本で最初の海軍式の水葬と言われていますが、様々な理由からこれは事実ではないとする説もあります。どちらにしても、新選組を支えてきた有能な隊士がまた一人亡くなった事には代わりがありませんね。ますます寂しくなる新選組です...。
何か様子がおかしい尾形については、以前にも書いたように、新選組の文学師範を努めていた幹部の中で、最後まで新選組に踏みとどまった人物です。尾形の他に文学師範を務めていたのは、伊東甲子太郎、武田観柳斎、毛内有之助、斯波雄蔵の4人でした。このうち、伊東、毛内は油小路で、武田は銭取橋でそれぞれ隊を裏切ったという理由で粛正されています。後一人の斯波は、外国に留学する為に新選組を離脱したという記録が残る異色の隊士で、理由さえあれば新選組を抜ける事が可能であった事を示す事例ともされています。教養のある隊士には、新選組がどんどん時勢に取り残されていくのが見えていたのでしょうね。他の同僚が次々に新選組を離れていく中にあって、尾形だけは新選組を裏切りませんでした。彼は、伊東達とはまた違った世界観を持っていたのでしょうか。そんな彼にも、最後に来て変化が見えるようですね...。
なお、江戸にたどり着いた新選組隊士は44名でした。伏見を守っていたのが150名程で、また戦死した隊士が30名程とされますから、残り80名近くは脱走したという事になります。ただ、伏見を守っていた隊士のうち元々の隊士は66名で後は急遽募集したと言いますから、脱走した隊士の多くはこの新規募集した隊士だったという事のようですね。
慶応4年1月16日、江戸。再び、海舟が慶喜に拝謁しています。慶喜は上座にあって、うろうろ歩きながら海舟に
「今からでも、まだ勝ち目はあるのではないか。」
と、問いかけます。
「駿河でわざと負け、艦隊が待ち伏せしている場所に敵をおびき寄せ、一気に攻撃を仕掛ける。さらに、艦隊を大坂へと進め、西国との繋がりを絶つ。これで敵は逃げ道を失って、総崩れになる。」
と答える海舟。その上で、勝とうと思えば勝てる状況での恭順に意味があるのだと諭します。
海舟が解説した海軍を活用した迎撃策は、実際には小栗上野介が慶喜に進言した策とされます。小栗はこの策で官軍を迎え撃つように慶喜に執拗に迫ったのですが、恭順を決めていた慶喜はこの案を退け、ついには小栗を罷免したと言います。 後でこの策を聞いた倒幕軍参謀の大村益次郎は、「幕府がもし、小栗上野介の献策を取り入れていたら、われわれの首はなかったであろう。」と述べたと伝えられます。
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