新選組!37の5
新選組! 第45回「源さん、死す」その5
ドラマではほとんど戦いらしい戦いが無かった千両松ですが、実際には鳥羽伏見の戦いにおける最激戦地でした。ここを守っていた幕府軍は、新選組と会津藩、それに遊撃隊でした。ドラマでは全く銃火器を持っていなかった幕府軍ですが、実際には数と質で劣ってはいたものの、やはり小銃と大砲で武装していました。ですから、一方的に薩摩軍(と長州の奇兵隊と振武隊など)から撃たれるままになっていた訳ではなく、最初は双方小銃や大砲を撃ち合う砲撃戦を展開しています。しかし、やはり撃ち合いになると新式の元込銃を使う薩摩軍が有利で、この劣勢を覆すべく新選組と会津藩兵は、残らず銃を捨て敵陣への斬り込みを敢行します。闇夜ならともかく白昼堂々の斬り込みですから当然犠牲も多く出ましたが、それでも薩摩軍の陣地に飛び込む事に成功して暴れまくり、一時的にですが薩摩軍を後退させるに至ります。戦闘は数時間に及び、数度の斬り込みを敢行した結果、薩摩軍側に7人の戦死者と40人の負傷者を出すという大きな損害を与える事が出来ましたが、幕府軍の受けた被害はそれ以上で、ついには戦線を支える事が出来なくなり、八幡まで退却します。
この戦いで新選組は20数名の戦死者と多くの負傷者を出し、壊滅状態に陥ります。井上源三郎もその中の一人でした。彼は退却命令が出された後も、命令に従わず戦場に残ったと言います。そして、遺棄された大砲で応戦している最中に銃弾が腹部に命中し、その生涯を閉じました。このとき彼と一緒にいたのは周平ではなく、彼の甥、泰助です。泰助は源三郎の兄、松五郎の子で、当時わずか11歳の少年でした。泰助は武門の倣いとして源三郎の首と刀を持ち帰ろうとしますが、少年の身にとってはあまりに重すぎて運びきれず、やむを得ず途中の寺の門前の田に埋めたと言います。しかし、残念ながらその寺の名は伝わっておらず、どこに井上の首が埋まっているのかは判っていません。おそらくは、淀から八幡の間のどこかの寺なのでしょうけどね。いつの日か、明らかにされる時が来て欲しいものだと思います。
井上の死は、誰よりも土方にとって痛手だった事でしょう。ドラマで、「局長も総司も居ないときに、何やってんだ。」と叫んでいましたが、実際の土方にとっても同じ思いだったと思われます。土方は同郷の年長者として、井上を常に頼りにしてきました。彼にとっては、沖田と並んで近藤以上に大事な存在だったかも知れません。それほど日野という地縁で結ばれた絆は強かったでしょうし、唯一土方が甘える事が出来る相手だったでしょうからね。沖田が病に倒れた時に、さらに井上まで失ってしまった土方の心中は、察して余りあります。
次に、錦の御旗についてですが、ドラマでは井上と永倉が一目見てその意味を悟っていましたが、実際には初めて見る旗の意味を知るものは誰もおらず、旗が出たとたんに幕府軍が戦意を失なうという様な事は無かったようです。戦いの中で官軍側から盛んに宣伝が行われ、次第に戦場に知れ渡っていったというのが実情のようですね。しかし、その効果は確実にあり、淀藩のほか鳥取藩、藤堂藩などが次々に官軍側に寝返り、兵力不足に悩んでいた官軍にとって大きな支えとなりました。
この錦の御旗を掲げて官軍が東征軍として進発したとき歌われたのが、「とんやれ節」です。「宮さん、宮さん、お馬の前で、ひらひらするのはなんじゃいな。」で始まるこの歌は、鳥羽伏見の戦いの様子を歌い込んだものですが、歌詞は長州の品川弥二郎が書き、曲は祇園の芸妓であった中西君尾が付けたと伝わります。この君尾は祇園きっての売れっ子で、品川の他、同じ長州の井上門多など数多くの贔屓筋を抱えていました。そして、近藤勇もその一人だったと言います。新選組の絶頂期、君尾の気っ風の良さに惚れ込んだ近藤は彼女を口説きますが、元来が勤王贔屓であった君尾は、近藤が勤王家となるならあなたに従うと答え、近藤は面白いヤツだと酒を飲ませただけで彼女を解放したのでした。近藤がかつて惚れた女性が作った曲に乗って、近藤が守ろうとする徳川家を倒すべく錦の御旗がやって来るというのも、何か運命的なものを感じさせますね。
ドラマに戻って、場面は大阪城。会津候と近藤が話をしています。
「孝明帝の信頼厚かった自分がなぜ朝敵にならなければならないのか。この陣羽織も、帝から拝領した衣で作ったものだ。」
と訴える会津候。
松平容保が孝明帝から絶大な信頼を受けていた事は事実です。彼は、その証拠となる孝明帝から贈られた「御宸翰」と「御製」を生涯肌身離さず持っていたと言い、もし孝明帝が生きていたら、彼が賊軍になるなどという事はあり得なかったことでしょうね。しかし、事実としては孝明帝は既に亡くなっおり、明治帝の世になっていました。先帝の意思がどうであったにせよ、現在の帝によって全てが決められる以上、容保の言っている事は繰り言以外の何ものでもありませんでした。彼はしょせん一本気な殿様に過ぎず、複雑な政治の世界では、西郷や大久保の敵とはなり得ない存在だったようです。
慶喜の御前で開かれている軍議。近藤が慶喜に意見を具申しています。慶喜を先頭に京に攻め上れば、必ず勝てると徹底抗戦を主張する近藤に、「お前を信じても良いのだな。」と念を押す慶喜。
その夜。容保と定敬の兄弟を前に、江戸へ帰ると言い出す慶喜。驚く会津候に、近藤に全てを託す訳にはいかないと冷たく言い放ちます。
近藤が慶喜に意見具申を行った事は、「浪士文久報国記事」に出てきます。そこには、「慶喜には一旦東国へ引いてもらい、代わって大阪城には300の兵と共に近藤が入り、官軍を防ぐ。一ヶ月は保つと思うので、その間に関東から軍を派遣してもらいたい。もし負け戦になったときは、城内で討ち死にする覚悟である。一人も城で討ち死にするものがなければ、東照宮に申し訳が立たない。」と言ったとあります。ただ、これは他には同様の記録がなく、事実かどうかは判りません。
このドラマで近藤言った意見は、老中の板倉をはじめ、このとき大阪城にあった大多数の幕臣が思っていた事でした。慶喜もこの城内の熱狂的な空気には抗しきれず、一度は自ら先頭に立つと宣言したと言います。もし、このとき慶喜がこの意見に乗っていたとすれば、京都を取り戻す事は難しくなかったと思われます。鳥羽伏見では敗れ去りましたが、全体としてみれば先鋒が崩れた程度の損害に過ぎず、幕府軍の本隊は無傷で大阪城にありました。それに、鳥羽伏見で負けたのは統一的な指揮系統が無かったためで、部分的には薩摩軍に勝っていた局面すらあります。いくら寝返りが相次いだとはいえ、官軍の戦力はまだまだ微弱で、体制を整えて幕府軍が押し返せば十中八九勝てた事でしょう。慶喜にもそれは十分判っていたと思われますが、彼はあえてそうしませんでした。先が見える彼には、その後の展開が手に取るように判ってたからです。仮に幕府軍が京都を回復出来たとしても官軍が天皇を置き去りにする筈もなく、天皇と共にある限り薩摩軍が官軍です。当時の日本は津々浦々まで尊皇思想が染み込んでおり、賊軍である幕府軍に味方する者は皆無と言って良いでしょう。かと言って幕府軍単独で薩長を押しつぶすだけの戦力は無く、日本をまっぷたつに割る泥仕合のような戦争を繰り広げたあげく、最後は逆臣として敗れざるを得ない運命にありました。今では理解しにくい事ですが、当時の日本で支配的な思想となっていた水戸学は名分を明らかにする事を喧しく言い、建武の中興を興した後醍醐天皇の南朝を正統とし、これに対抗して北朝を立てた足利尊氏を日本史上最も悪辣な逆臣と位置づけていました。水戸の出身である慶喜はこの水戸学の徒であり、尊氏と同列に扱われる事は、彼にとっては死ぬ事よりも辛い事だったのです。
この項は、新人物往来社編「新選組銘々伝」、「新選組資料集」、別冊歴史読本「新選組の謎」、「新選組を歩く」、歴史群像シリーズ「血誠 新撰組」、子母澤寛「新選組始末記」、学研「幕末 京都」、文藝別冊「新撰組人物誌」、木村幸比古「新選組日記」、「新選組全史」、「新選組と沖田総司」、歴史読本「平成10年12月号、平成16年7月号、12月号」、司馬遼太郎「最後の将軍」「王城の守護者」、奈良本辰也「幕末維新の志士読本」、永倉新八「新撰組顛末記」、山村竜也「新選組証言録」を参照しています。
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