新選組!37の3
新選組! 第45回「源さん、死す」その3
土方達が伏見奉行所で聞いた砲声は、そこから北西の方角、鳥羽街道が鴨川を渡る小枝橋で、御所へ嘆願に向かうために北上してきた幕府軍とそこを守っていた薩摩軍とが衝突し、通せ通さぬの問答の末、ついに戦闘が開始された時のものでした。慶応4年1月3日、午後4時頃の事です。この砲声は、伏見のみならず、はるか北の御所にまで届き、公卿達を恐怖させたと言います。また、西郷はこの砲声を聞いて、「百万の味方を得るよりも嬉しかりし。」と語り、「まさに新しい歴史の始まり」と感激したと伝えられます。
この砲声を聞いて「出陣じゃ!」と下知を下した林権助は、このとき70歳を越える老齢でした。しかし、彼は会津藩の砲兵部隊を率いて奮戦します。会津藩の砲はわずかに4門、これに対する薩摩軍は御香宮にあった4門のほか、その後方の善光寺などに計10数門の大砲を擁していました。そして、会津藩の砲が旧式の前装式の青銅砲であったの対し、薩摩軍の多くは、新式の後装砲でした。このため、速射能力や命中精度に大差があり、しかも高台を占拠している薩摩軍に、圧倒的に有利な戦いとなりました。林はそうした状況の中でも一歩も引かず、4門の大砲を率いて戦い続け、ついには全身に八発もの銃弾を浴びて戦死するに至ります。
同時刻、大阪城内の沖田の病室。看病しているお孝と近藤が来ていますお幸と、お孝を比べて談笑する近藤と沖田の下に、戦闘が始まったようだと伝えに来る尾形。
ドラマでは近藤に従って大阪城に居る尾形ですが、永倉の残した「同志連名記」には、伏見奉行所に立てこもった幹部の一人として名前が挙がっています。ところが、同じ永倉が著わした「浪士文久報国記事」では、伏見で戦った隊士の中に尾形は入っていません。このことが私にはちょっとした謎だったのですが、このドラマの様に近藤と共に大阪城へ下ったと考えると辻褄が合ってきますね。
闇夜に轟く砲声と閃光。薩摩軍の放った砲弾が、伏見奉行所の屋根を砕きます。奉行所の門。土嚢が積まれていて、その背後に永倉、原田等新選組隊士が隠れています。凄まじい薩摩軍から銃弾の雨が、そこかしこで炸裂しています。一方的に撃ちまくられる新選組にあって、「新選組の意地を見せてやる。」と、敵陣の中へ飛び出していく永倉、原田、斉藤達。ひとしきり暴れて帰って来た原田達ですが、永倉は敵の旗を取ってきたのは良いものの、塀の外でうろうろしています。永倉の危機を悟った島田は、力任せに塀の上の竹矢来を引き抜くと、塀の外の永倉の襟首を掴んで、彼を塀の上へと引き上げます。
ドラマでは出てきませんでしたが、新選組にも1門だけですが大砲はありました。まるで敵わないまでも、会津の砲と共に、薩摩軍に目がけて砲撃をしています。「浪士文久報国記事」では、新選組から放った弾が御香宮で炸裂し、相手に損害を与えたとあります。また、情けなくも退去してしまった会津兵ですが、実際には彼らは勇敢に戦っています。林が全身に銃弾を浴びて倒れたのは前述の通りですし、「浪士文久報国記事」によれば、新選組や幕府伝習隊と共に敵陣へ切り込み、一時的にせよ薩摩軍を桃山まで追い込んだとあります。また、永倉達が行った切り込みは実際にもあった事で、土方の命により、永倉が隊員を引き連れて、決死隊として薩摩の陣地へ攻撃を仕掛けています。ただ、この切り込みについては、相手が長屋に火を付けて逃げてしまったため、大きな成果は上げる事は出来ず、犠牲者を出しただけに終わったようです。この切り込みから引き返す時に、島田がその怪力で永倉を助けたのも、ドラマにあったとおりです。永倉は、着ていた甲冑が重すぎて塀を乗り越える事が出来ず、もはやこれまでかと諦めかけたところへ、頭上からこの鉄砲へ掴まれと島田が声を掛けてきます。永倉が鉄砲に足を掛けて掴まると、島田はこれを引き上げ、永倉は塀の屋根にあった鬼瓦に手が届いたので、ようやくの事で中に戻る事ができました。これにより、島田の怪力は隊内で評判になったと言います。
「浪士文久報国記事」によれば、一旦薩摩軍を押し戻した幕府軍でしたが、伏見は地形が良くない(高台は、全て薩摩に押さえられているため。)ことから、総督の松平豊前守の命によって淀城下へ引き上げたとあります。決して、会津藩が新選組を置き去りにして、勝手に持ち場を離れたという訳ではなさそうですね。
慶応4年1月5日、大阪城。「千両松に陣を張ったらしい。」と聞き驚く近藤。「淀城に向かったものの、城の中へは入れて貰えなかった。」と説明する尾形。「稲葉様は御老中。戦場で何が起きているのだ。」と困惑する近藤。
淀藩主の稲葉正邦は、近藤の言う様に、このとき幕府の老中を努めていました。淀城は、大阪と京都を結ぶ水運の要衝に位置し、京都を守る為の重要な軍事拠点の一つでした。この戦いの時には、藩主正邦は江戸にあり、城の留守は家老田辺権太夫が守っていました。ところが、権田夫は官軍の働きかけを受け、独断で勅命と称し、幕府軍に対して門を閉ざしてしまいます。この仕打ちを受けた幕府軍は、野営を余儀なくされ、寒中の事でもあり、難儀を極めたと言います。淀城を失った事は、幕府軍にとって大きな痛手であり、この裏切りがこの戦いの帰趨を決めた大きな要因の一つとなったと考えられています。この後、淀城は官軍に対して開城しますが、権田夫は数人の幕府軍が城内に入った責任を取って、弟と共に切腹して果てています。幕府を裏切った権田夫でしたが、彼にしても藩を守るための命がけの決断であった事が判ります。
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