新選組!37の2
新選組! 第45回「源さん、死す」その2
1868年(慶応4年)1月2日、伏見奉行所。若年寄並陸軍奉行竹中重固を中心に軍議が開かれています。竹中に向かって意見を具申しているのは永倉。隣に土方も座っています。「御香宮を先に押さえるべき。」と進言する永倉に、「こちらは1万5千。向うは4千足らず。薩摩は攻めてこない。」と自信たっぷりな様子で断定を下す竹中。
竹中重固は、戦国時代に豊臣秀吉に仕えた天才軍師竹中半兵衛の子孫で、半兵衛の再来と謳われた俊英でした。鳥羽伏見の戦いでは、幕府歩兵軍を率い、伏見方面の事実上の総大将を努めていました。彼がどんな軍議を開き、どういった指示を出していたのかは判りませんが、常識的に考えれば数で圧倒的に劣る薩摩が軍事的な決戦に及ぶとは考えられない状況であった事は確かです。しかし、決死の覚悟で戦いを決意している薩摩に対して、幕府方は肝心の慶喜の態度が曖昧で、組織だった統制がとれないまま、各部隊がそれぞれの判断で京都に向かって進発していくという状況を考慮すると、幕府方は数だけが頼りで、隙だらけの軍勢だったと言えるのかも知れません。この軍議の描写は、そうした幕府方の油断と奢りを端的に表しているのでしょうね。それに、玄人の軍学者である竹中が、素人集団である新選組に意見を言われるなど、片腹痛いといったところなのでしょう。
永倉が言っていた御香宮は、ドラマの中の地図にも出てきたように、伏見奉行所とは道路一本を隔てた位置にあって、しかも高台にあたる事から奉行所内を俯瞰出来るため、ここから撃たれれば大砲でも鉄砲でも百発百中で命中するであろう事は、素人目にも明らかでした。ここを薩摩軍に押さえられる事はなんとしても防ぐべきだったのですが、実際には薩摩軍が陣を敷き、圧倒的に有利な体勢を築く事に成功しています。
このあたりの事情については、御香宮に「明治維新 伏見の戦跡石碑」というのがあるのですが、その碑文に一つのエピソードが書かれています。
実は、当初は幕府側もここに本営を置く予定でした。幕府側は、徳川氏陣営と書いた木札を門に掲げておいたのですが、これを見た御香宮の宮司は尊王贔屓だったので、直ちにこれを御所に知らせます。薩摩藩では事の重要性に気づき、急ぎ吉井孝助を派遣して御香宮に陣を構えさせ、幕府軍の布陣を防いだのでした。
このエピソードからすると、幕府方も御香宮の重要性には気付いていたようですね。ただし、その後の処置が間が抜けているというか、あまりにも粗雑に過ぎました。平時なら、徳川氏陣営と書いておけば誰もが遠慮をしてそこに陣を敷くなどとは考えなかったでしょうけど、これから幕府と一戦交えようという薩摩が見逃すはずがありません。もしかすると、御香宮は自軍の勢力範囲と勝手に解釈して、幕府内の他の部隊が陣を敷かないようにするための措置だったような気もします。
一方、そのころの京都。岩倉卿の屋敷に西郷と大久保が来ていますうろうろと歩き回って落ち着かない様子の岩倉。いざとなると、本当に勝てるか心配になってきたのでした。薩摩の兵は日本一だと断言する西郷ですが、岩倉は信用せず、慶喜を新政府に入れるとまで言い出します。そこで、官軍である事を示す錦の御旗を作ろうと提案する大久保。それを聞いて手持ちの旗を示し、これでいこうと決める岩倉。
いざ幕府軍との決戦という段になって、公家達が動揺したのは事実です。なんと言っても、兵の数が違いました。ほとんどの公卿は幕府方に寝返ろうと騒ぎ立てますが、それを止めたのが岩倉卿でした。ここまで来たら、薩摩と一蓮托生と腹を括っていたのでしょうね。このあたりの度胸の良さが、新政府になってもその首座に座り続けた理由なのでしょう。新政府の幹部には当初多くの公家達が入っていましたが、次々とその座を失い、最後に残ったのは岩倉と三条実美の二人だけでした。実際に政治を動かせるだけの能力と胆力があったのは、この二人しか居なかったのですね。その岩倉も、明治新政府を揺るがした征韓論の最中には、西郷と大久保の間に挟まって、何度も立場を変えたと言います。この時代の公家というのは、自らの信念を貫くという事は決してせず、その時々の強者に付くというのが、長年の間にしみついた体質だったようですね。
次に、西郷は薩長の武力は日本一と言っていましたが、陸軍に関しては、その装備といい実戦経験といい、当時の日本においては、確かに最強と言える軍隊でした。しかし、装備だけを取ってみると、幕府には最新式の装備を施したフランス式陸軍が整備されつつあり、また海軍に至っては幕府軍の何分の1と言う程度の戦力しか持っておらず、戦って勝てる成算を持てるような状況ではありませんでした。西郷は鳥羽伏見の戦いではその兵力差から敗れる事を想定し、天皇を擁して西国へ逃げる算段をしていたと言います。この頃の日本は水戸学の影響で隅々まで尊皇攘夷思想が広がっており、天皇を擁している方が圧倒的に有利というのが西郷の強みでした。ですから、天皇と共にある限り負ける筈はなく、一度は破れても最後には必ず勝てると踏んでいたのでしょうね。
錦の御旗を考え出したのは、岩倉の腹心であった玉松操であると言います。玉松は下級公家の出で、幼い頃に出家して醍醐寺に入って僧侶となりましたが、後に還俗して修行中に修めた国学の塾を近江で開いて尊皇攘夷思想を教えていたところを、岩倉に乞われてその謀臣となった人です。王政復古の勅案も、この人の手よって書かれたものでした。彼は、ドラマで大久保が言っていたような故事を踏まえて旗の原案を考え出し、それを元に大久保と長州の品川が調製してできたのが錦旗でした。
1月3日、伏見。再び竹中を中心にした軍議が開かれています。竹中の前に座っているのは、戦国の古武士が蘇ったかのような、時代がかった老武者です。彼は鳥羽方面で轟いた銃声を聞き、出陣の采配を振るいます。それに応じて立ち上がる土方達。
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