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2004.11.13

新選組!山崎蒸の日記発見

既に白牡丹のつぶやきさんで紹介されている記事ですが、新選組で諸士取調役兼監察(のち副長助勤)を努めていた山崎蒸の日記が発見されました。慶応元年5月から10月にかけてのもので、近藤勇ら隊士148人の名簿や、歩兵の調練書の書き写しがあるそうです。これまで全く謎に包まれてきた山崎のみならず、新選組監察部の活動の一端が判るかも知れない貴重な発見となりそうで、日記の内容の研究成果が発表されるのが待ち遠しいです。それにしても、まだまだ新しい発見が出てくるものなのですね。

ところで、この記事の影響で私のホームページnatureでも「施山多喜人」の検索経由でアクセスが急増しています。しかし、せっかく来て頂いてもそこには光縁寺に彼の墓があると書いてあるだけなので、詳しい情報を得る事が出来ません。そこで、ここ「ねこづらどき」で施山のプチマイナー隊士紹介をさせて頂く事にします。

施山多喜人は、瀬山滝人ともいい、上州館林の人です。生年は不詳。慶応元年5月に江戸で入隊したと言いますから、土方が伊東、藤堂、斉藤らと共に行った募集に応募したのですね。このとき新選組に入ったのは全部で54名で、新選組が組織として最も充実した時期に隊員となった訳ですが、同時にこの頃は組織内部に対する締め付けが最も厳しくなった時期でもありました。施山についてはほとんど記録が残っていないのですが、西村兼文が著した「新撰組始末記」に「瀬山滝人」として登場します。彼は、同期入隊の真田次郎(石川三郎)と共に、「町家ノ婦ニ密通シタル聞ヘアルヲ以テ、隊規ヲ犯セリト糾弾ノ上、隊中ニ於テ切腹セシメラレタリ。」と記されています。その時期は、光縁寺の過去帳の日付から6月21日とされています。「新撰組始末記」には、その施山の記事の前に、これもやはり彼と同期入隊の田内知が、妾宅で間男に不意を突かれて斬られた上に相手を取り逃がすという失態を犯したために「士道不覚悟」で切腹させられた(慶応3年1月10日)という記載があり、施山の場合と共に隊内の取り締まりが如何に厳重に行われるようになったかという一例に取り上げられています。

背山は、入隊後間もなく、いわゆる「局中法度」の犠牲となった事でその名を後世に留めるという、あまり名誉とは言えない最期を遂げている訳ですが、反面、新選組の峻烈な姿を私たちに伝えるという貴重な役目を果たしたとも言えます。本人にとっては、嬉しい事ではなかったでしょうけどね。ちなみに、彼と共に切腹したとされる石川三郎については、入隊後七番隊に入ったという以外、生国についてすら判っている事はありません。

今回発見された山崎の日記にも、背山ともう一人(おそらくは石川)についてそれぞれ6月21日切腹と書かれているという事ですから、彼らの最期がまた一つ資料によって裏付けられた事になりますね。そして、それは同時に山崎の日記の持つ信憑性が高いと言える根拠ともなりそうです。

この項は、別冊歴史読本「新選組の謎」、新人物往来社編「新選組資料集(新撰組始末記)」、文藝別冊「新選組人物誌」を参照しています。

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