新選組!36の4
新選組! 第44回「局長襲撃」その4
1867年(慶応3年)12月18日。近藤の別宅に居る沖田を、土方が見舞っています。彼もまた、朝鮮人参を土産に持って来ていました。局長や斉藤が同じ物を持ってきたと知り、がっくりする土方。お孝に持ってきた人参を差し出しますが、沖田は、これ以上お孝を元気にしては大変だ、と憎まれ口を叩きます。それを聞いて、お孝はふくれっ面になり、持っていた人参で沖田をつっつきまわします。じゃれる二人の様子はまるで仲の良い姉弟のようです。そんな二人を見て、思わず笑みがこぼれる土方。帰り際お孝に礼を言う土方に、しんみりした口調で、沖田は伏見に行きたい様だと告げるお孝。部屋の中からは、沖田の苦しげな咳が聞こえています。沖田が伏見に来ないように見張っていてくれと土方に頼まれ、黙って頷くお孝です。
二条城。永井が近藤に書状を手渡しています。薩摩の浪士達が江戸の町中で暴れている、若い者が薩摩藩邸を襲おうとするのを、上の者が必死に止めている。新遊撃隊も、気を付けよと言って、近藤を振り返ります。近藤は了解した旨を答えますが、さらに何か言いたげに永井を見つめ、次いで思わせぶりに目線を落とします。それを見て、不審に思った永井が問いかけると近藤は、思い切った様子で永井に向かって座り直し新遊撃隊の名を返上したいと切り出します。新選組に名を戻したいのですね。
永井が憂いている江戸薩摩藩の狼藉は、幕府を挑発して先に手を出させ、開戦の口実を得る為に西郷が採った策略でした。浪士隊を組織していたのは後に赤報隊を組織した相良総三と言われます。この作戦は頭に当たり、江戸の幕閣は浪士達の乱暴狼藉に耐えかね、12月25日に庄内藩に命じて薩摩藩邸を焼き払わさせました。この報を大阪で聞いた幕府の将兵達は、もはや戦は避けられないと進発の準備を始めたと言います。
また、新遊撃隊の名を返上して新選組に戻ったというのも事実です。「島田魁日記」によれば、12月13日の夜に、新遊撃隊の名を断り、元の新選組を名乗るとあります。やはり新選組隊士にとっては、5年間慣れ親しんだ隊名に、愛着と誇りがあったのでしょうね。
京都の町の辻に、覆面をした女が潜んでいます。彼女がそっと様子を伺った道の向うから、近藤と島田が歩いてきます。女は、何気なく近藤に向かって歩いていき、不意に近藤に向かってぶつかって行きます。近藤がねじ上げた女の手には、小刀が握られていました。刀を落とさせ、島田に向かって女を投げる近藤。女を受け止めた島田は女の覆面を取ります。覆面の下から現れたのは、龍馬の妻、おりょうでした。その顔を見てと驚く近藤に、知り合いですかと意外そうに問いかける島田。近藤は黙って頷き、島田に先に帰るよう命じます。
おたふく。戦に備えて店を閉めているらしく、なんだか荒んだ様子です。その中で、言い合っているおりょうと近藤。龍馬を斬ったのは、自分たちではないと言う近藤に、うそだと言い張るおりょう。近藤は、おりょうに龍馬が日本を変えようとしていたと告げ、その方法を好まない者達によって殺されたと教えます。そして龍馬が惚れた女として、誇りを持って生きろと諭します。えらい事になってしまったと泣き笑いしながら言うおりょうを、じっと見つめる近藤。
この下りは、三谷幸喜自身が創作であるとNHKのホームページで語っています。そのあたりの事情はそちらで見て頂くとして、史実のおりょうはこのとき下関で、寺田屋で龍馬と共に戦った三吉慎蔵の家に寄寓していました。これは龍馬の遺言によると言われ、長州藩より扶助料が支給されていたそうです。このとき、おりょう28歳。彼女は翌年土佐に渡って坂本家で暮らしますが、龍馬の姉乙女と合わなかったのか、やがてここも去り、京都を経て東京に移り住みます。晩年は横須賀で過ごし、明治39年に66歳で亡くなりました。この間、西村覚兵衛と再婚していますが、彼女は終生、龍馬の墓守として暮らしたいと願っていたと言います。
近藤の別邸で、縁側に座って雁が渡っていく空を眺めている沖田。買い物にお孝が出て行きます。通りに出たお孝は、怪しげな人物が物陰に潜んで居る事に気が付きます。一方、縁側に座っていた沖田は、家の奥から変な音がするのに気が付き、刀を持って押入の戸を開けます。きっと中を覗いた沖田ですが、誰の姿も有りません。ふと下を見ると、なんとお孝が床板を開けて入ってくるところでした。それを見て驚く沖田に、斉藤に言われて、逃げ道を作ったと口早に説明するお孝。なおも驚いている沖田に、お孝は有無を言わさない調子で、はやく入れ、表に怪しいやつが居たからとせかします。お孝は、なおも穴の中の様子を窺う沖田の背中を突き飛ばします。頭から穴の中に落ち文句を言う沖田に、お孝は謝って、素早く戸を閉め、部屋の中に戻ります。そこへ押し入ってきた3人の男達。彼らは部屋の外で抜刀し、するどく障子を開けて布団の中の人物を刺そうとしますが、女の声の咳を聞いてその手を止めます。彼らが布団をめくると、お孝が丸まって、咳をしていました。お孝は起きあがり、白刃を下げた3人に向かって、落ち着き払った調子で、だれですかと問いかけます。混乱する男達を前に、また空咳をしてしてやったりとばかりにほくそ笑むお孝。
御陵衛士の残党が沖田を狙って近藤の妾宅を襲った事は、元御陵衛士であった阿部十郎が証言しています。それによると、前日に加納から沖田が妾宅に潜んでいるとの情報を得た阿部は、内海次郎と佐原太郎を伴って12月18日の早朝に妾宅を襲いました。しかし、そこには女が一人居るだけで既に沖田の姿は無く、やむなくその女に問い質したところ、沖田は前日の夜に伏見に発った後でした。危ういところで、沖田は虎口を脱していた事になります。
伏見街道を馬で行く近藤。付き従っているのは島田以下3人です。その近藤の行く手の民家の窓から、街道の様子を窺う影がありました。御陵衛士の残党の一人、篠原です。篠原と一緒に居るのは加納。これでは闇討だと吐き捨てるように言う加納に、お互い様だと言って、鉄砲を構える篠原。加納はやはり、納得がいかない様子です。馬上の近藤が島田に、新遊撃隊の名を返上し、新選組に戻ったと告げます。それを聞いて、なんとも言えない笑顔になる島田。日記にも書いているくらいですから、よっぽど嬉しかったのでしょうね。近藤の一行が、篠原達が待ち構える民家へと近づいてきます。近藤に照準を定める篠原。十分に引きつけて轟音と共にはなった銃弾は、近藤の右肩に命中しました。流れ落ちる鮮血。あまりの激痛に、近藤は思わず馬の鞍に突っ伏します。絶叫する島田。苦痛に顔を歪める近藤。
この近藤の狙撃事件は、関係者の証言があるにも係わらず、謎が多く残されています。まず、近藤に従っていた者の人数ですが、阿部の証言によると20名程となっています。しかし、「浪士文久報国記事」に依れば、ドラマにあったように、島田の他、横倉甚五郎、石井清之進という二人の隊士と、草履取りの文吉の4人となっています。
次に、鉄砲を撃ったのは、篠原の日記によると篠原本人となっていますが、阿部は史談会速記録における証言の中で、近藤を撃ったのは富山弥兵衛であり、篠原の日記は史実を歪めるものとして篠原を攻撃しています。これが元になって阿部は篠原と絶交したとされており、状況から見ると阿部の方が正しいようにも思われます。
また、襲撃地点には諸説があり、まず番組の最後に紹介されていた国道24号の丹波橋筋付近とする説(薩摩藩士が書いた「戊辰役実録」の記述に依ります。)、「新選組始末記」にある藤森神社の近くとする説などが主なところですが、いずれも決め手に欠けます。資料があるのに特定出来ないというのは、複数の異なる情報源があるのと、あまりにも当時と周囲の様子が変わってしまっている事が原因なのでしょうね。
そして、近藤の負傷箇所についても、右肩とする説と左肩とする説があります。まず、右肩とする説は永倉新八の「新撰組顛末記」で、通常はこの説を採る事が多く、ドラマでもそうなっていましたね。これに対して、子母澤寛の「新選組始末記」では左肩となっています。なぜこういう違いが起こるのか理解に苦しみますが、ちなみに阿部の証言では肩と胸の間となっており、また篠原の日記にも単に肩としか記されておらず、どちらの記録においても右とも左とも触れられていません。とりあえずは、撃たれた近藤を直に見ている永倉の説を採る方が、より信憑性は高いという事のようですね。
この項は、新人物往来社編「新選組銘々伝」、「新選組資料集」、別冊歴史読本「新選組の謎」、歴史群像シリーズ「血誠 新撰組」、子母澤寛「新選組始末記」、学研「幕末 京都」、文藝別冊「新撰組人物誌」、木村幸比古「新選組日記」、「新選組全史」、歴史読本「平成10年12月号、平成16年7月号、12月号」、司馬遼太郎「最後の将軍」「王城の守護者」を参照しています。
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