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2004.10.26

新選組!34

新選組! 第42回「龍馬暗殺」

冒頭、西村兼文と対座している近藤と土方。「引っ越しですか?」と意外そうな近藤に、「私としては、おって貰うても構わんのですが、坊さんらが。やはり、寺の敷地でこれ(切腹)やこれ(打ち首)は、ちょっと。」と身振り手振りを交えて事情を説明する西村。「しかし、急に出て行けと言われてもなあ。」と不服そうな土方ですが、西村に「これからちょっと南に下がったとこに、不動堂という村があります。そこに、新たに屯所をお造りしますので、そちらに移っては貰えないかと思いましてね。もちろん、お金はこちらで出します。」と提案されると、「しかし、それは、」と逡巡する近藤を差し置いて、「判りました。引っ越しましょう。」と答えてしまいます。その土方を横目で睨む近藤。また、主導権を土方に握られていますね。「ええ頃合いとちゃいますか。あんさん方も、晴れて御直参。いつまでも寺を間借りしていては、格好が付かんでしょう。」とにっこりと微笑む西村。彼も気の重い使命を果たして、ほっとしたのでしょうね。

いきなり現れた現代の映像。一瞬、何だこりゃと思ってしまいます。画面には、リーガロイヤルホテルの前に立てられた記念碑が映されていました。

不動堂村の屯所は長く幻の屯所とされ、どこにあったのかは不明とされてきました。ここに新選組が居たのはわずか半年の間に過ぎず、しかも新選組が伏見に移転したすぐ後に取り壊されて一帯が再開発され、当時の様子が全くわからなくなった事が原因のようですね。しかし、2003年(平成15年)6月15日に同ホテル付近にあったらしいとの研究結果に基づき、この記念碑が建てられました。この屯所の位置については、西村兼文の著した「新撰組始末記」に「堀川通の東、木津屋橋の南」と書かれています。これを素直に読めば記念碑の位置ではなく、ホテルの東を走る堀川通を挟んだ反対側の場所にあったと考えるのが自然と思われるのですが、実は堀川そのものは七条通を過ぎると流路を西に変え、ホテルの西側を流れています(現在は暗渠となっています)。「新撰組始末記」の言う堀川通がこの堀川に沿った道を指しているとすれば、まさしく屯所は記念碑の位置にあったという事になってくるのですね。ただし、現在の堀川通にあたる道も当時から存在しており、私の知識ではこれ以上は何とも言えません。また、子母澤寛の「新選組始末記」に所収されている稗田利八の回想録には、醒ヶ井通り七条下がる三丁目にあったとされています。ところが、この醒ヶ井通は五条以北には現存しますが、それより南には見あたりません。醒ヶ井通は堀川通の一つ東の道を指すので、先の推測が正しいとすれば、現在のホテルの東の道を醒ヶ井通と呼んでいたのかも知れないと思うのですが、何も資料が無い以上単なる推測に過ぎません。どなたか、京都の古地理について、ご教示願える方はおられませんか。

ドラマでは、西本願寺側から一方的に申し出があって、それを直ちに承諾したように描かれていましたが、「浪士文久報国記事」では「土方の計らい」でわざと西本願寺側を困らせるように振る舞い、新しい屯所を造らせるように動いたとあります。また、「新撰組始末記」では、西本願寺が何とか新選組を移転させるようと一計を案じ、吉村貫一郎や山崎蒸を窓口にして交渉した結果、新選組側も西本願寺では新選組も隊士を一堂に集めるのに不便であり、また外見も良くないという事から移転を承諾したので、新選組の注文どおりの邸宅を新築したとあります。西本願寺では、この建物の費用のほか移転料も全て負担し、また西本願寺の境内にある興正寺は200両の立ち退き料を支払ったそうです。このように、新選組の移転には莫大な費用が掛かった訳ですが、西本願寺では、「疫病神を追い出した心地で、門主とその一家の歓喜限りなし。」だった言います。それほど、新選組は迷惑な存在であったと同時に、新しい屯所を造る程度の出費は、西本願寺にとっては痛くも痒くもなかったのかもしれませんね。

その屯所の規模は約一万平方メートルの広さがあり、表門、高塀、幹部の部屋、平隊士の部屋、馬屋などを備えた大名屋敷並の構えを持ち、大風呂は一度に30人が入れるほど広かったそうです。一説には、元々は西本願寺の南集会所で、団体客の宿泊所だったとも言われています。

1867年(慶応3年)10月14日、徳川慶喜は大政奉還を行います。当時、薩長が朝廷に働きかけて討幕の密勅を得るという工作を進めており、これに対抗するために慶喜が打った大ばくちでした。政権を朝廷に返上する事で討たれるべき幕府をなくしてしまい、薩長の陰謀を空振りに終わらせるという策で、これは見事に成功したと言って良いのでしょう。

会津本陣を訪れている近藤、佐々木、土方の面々。「徳川幕府は無くなったのですか!」と叫ぶ近藤に、「そういう事じゃ。」と穏やかに答える会津公。「しかし、上様は、未だ征夷大将軍のままであらせられると伺いました。」と佐々木。「余にもわからぬのじゃ。上様がおっしゃるには、」(以下、会津公の回想)「討幕などとほざく薩長に、一矢報いてやったのだ。倒す相手が居なくなってしまい、あいつら今頃、振り上げた拳のやり場に困っているところであろう。」と大政奉還の真意を会津公に語る慶喜。「しかし、徳川幕府は、これからどうなるのですか。」と聞く会津公に、「今頃、朝廷も政権を渡されて立ち往生しているはずだ。今に、必ず泣きついてくる。」と先の見通しをきかせてやる慶喜ですが、「泣きついて来なければ、どうするのですか。」と会津公はどうにも納得がいかない様子です。「心配はいらん。必ず、そうなる。」「しかし、そのとき、幕府はもう無いのです。」ともっともな事を言う会津公に、「幕府など、もう要らん。」と思い切った事を言い放つ慶喜。(回想終わり)

「朝廷に政権を渡してしまったら、薩長の思う壷ではありませんか。お返し下さらない時には、上様はどうなさるおつもりなのですか。」と、会津公に食ってかかる近藤ですが、佐々木に「近藤殿、言葉が過ぎるぞ。」とたしなめられ、「失礼しました。」と態度を改めます。「薩長が王政復古を盾に取る前に、なんとしても、政権返上だけは、お取り消し頂かねばなるまい。」と切羽詰まった様子の会津公。

慶喜は、政権を返上するとは言ったものの、朝廷からは新しい政権が出来るまでの間は従前のとおりに国内外を治めよと委任されており、この時点では依然として政権の座にありました。幕府が完全に無くなるのは、王政復古の大号令が出された後で、それまでの間は新選組も京都の治安維持を担当し続けます。慶喜は、古すぎてどうにもならなくなった幕藩体制を一新し、代わりに朝廷の下に徳川家を中心とする新たな体制を築く事を考えていたのであって、決して無闇に政権を投げ捨てた訳ではありませんでした。慶喜にすれば、朝廷中心の世をもたらした第一の功臣としてその後の政局をリードし、薩長に主導権を奪われまいという計算も働いていたようです。しかし、慶喜のそうした高等政略は、会津公などには理解不可能だったのかも知れませんね。

一方、ドラマでは大政奉還を聞かされて驚いていた近藤ですが、史実ではあらかじめ土佐の後藤象二郎から聞いて知っていました。近藤は、後藤に建白書の写しを見せてくれと頼んでいますが、それを見せて貰えたかどうかは判っていません。しかし、実際の近藤は、ドラマで描かれている以上に、政局の動きに通じていたものと思われます。

以下、明日に続きます。

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