「新選組と竜馬の時間距離」に対する考察
「合理的な愚か者の好奇心」で掲載されている「新選組と竜馬の時間距離」は、なかなか興味深い記事なのですが、それに対する感想をコメントとして書くと長くなりすぎるので、新たに記事としてアップさせて頂くことにします。
まず思ったのは、なるほど、東京の人はこういう感じ方をするんだな、という事です。三谷幸喜の「大河な日々」にも出てきますが、東京から来ると京都をすごく狭く感じるようですね。三谷さんは、京都は自転車で回るのに丁度良い広さの町だと書かれていますが、確かにそのとおりで、京都を観光するときは下手に車で回るより自転車を借りて回った方が何かと便利です。観光地から観光地へ移動する距離はそう遠くないですし、裏道を走れば車も多くないから安全です。また、車では見落としてしまう町の空気が判りますし、京都独自の露地に入ってみる事だってできますからね。そしてなにより、駐車場の心配をしなくて良いのが大きいです。
その通りではあるのですが、しかし、実際に京都に住んでみるとそうでもないのです。やはり、町中での距離感というものがあって、例えば金閣寺から銀閣寺へ行くには遠いと感じ、東山から嵐山へ行くとなればさらに遠いと感じます。京都の住人でその間を自転車で移動する人が居るかというと、まず居ないでしょうね。実際に走ってみると行けない距離ではないのですが、これはそこに住んでみないと判らない感覚だと思います。
この逆の感覚を味わうのが京都から東京へ行った時で、東京が果てしもなく広い街だと感じてしまいます。私が初めて東京へ行ったときに、どこまで行っても街が無くならないという事が、なんとも不思議に思えたものです。そういう街から京都へ来れば、すごく狭く感じるのは当然でしょうね。
以上を前提にして本題に入っていきますが、まずは島原と屯所の位置関係についてです。「これでは、新選組の屯所は、花街島原からの距離によって選定されたと見なされても仕方のない位置関係にあります。」とおっしゃるとおり、島原と壬生、島原と西本願寺は、歩いて通うのに丁度良い距離にあります。日常を忘れるには程よく離れていますし、酔いを醒ましながら歩いて帰るのにも良い距離ですよね。では、屯所を決めるとき、本当に島原との位置関係を重視したのかというとそうではなく、単なる偶然だと思います。
まず、最初に浪士組が壬生に落ち着いたのは、受け入れを担当した京都所司代と壬生の前川家が深い繋がりを持っていた事が大きかったようです。関東からの大人数を受け入れるとすれば、大寺院を借りるか、広い範囲で民家を借り受けるかしかなかった訳ですが、当時は既にめぼしい寺院は各藩が押さえてしまっており(清水寺は上杉、東本願寺は一橋、黒谷は会津など)、後は民家を借り受けるしか手が無いという状況でした。しかし、民家と言ってもどこでも良いという訳には行かず、多少の無理は効く前川家に依頼したという事だったようですね。それに、壬生が京都の町はずれに位置していたというのも、理由の一つだったかも知れません。なにしろ関東の暴れ者を一堂に集めるのですから、御所に近い町中に置くのは避けたかったでしょうからね。また、西本願寺へ移転したのは、洛中の大寺院の中で唯一と言って良い程どの藩も駐留しておらず、いわば空き屋状態だった事、長州藩贔屓の西本願寺を牽制する狙いがあった事などに依るものだと思われます。
それに現在京都には5つの花街がありますが、当時はもっと数多くの花街が存在していました。その中で島原が最も格式が高いとされてはいましたが、どこへ屯所へ置いたとしても必ずその近くに花街があったはずで、遊ぶ場所との距離はさほどの重要事項ではなかったと思われます。
次に、「坂本竜馬がかくまわれていた三条河原町の酢屋と長州藩士が頻繁に会合を重ねていた池田屋は、なんとわずか150m。坂本と中岡慎太郎が京都見廻組に暗殺された四条河原町の近江屋も500m、歩いて5分と言ったところでしょうか。お互いにビックリするほど近いのであります。」とおっしゃる酢屋と池田屋、近江屋の位置関係について。これらの史跡は確かに非常に狭い範囲に集中していますが、これを解く鍵は、各藩邸の位置にあります。近江屋と酢屋を結ぶ線上には、当時土佐藩邸がありました。龍馬はその根拠地を選ぶとき、やはり海援隊の母藩である土佐藩の藩邸の近くにある方が、何かと便利だったのでしょうね。それに、いざと言うとき、藩邸に逃げ込む事が出来ますしね。また、池田屋については、長州藩邸の近くにあったという事が、長州藩御用達になった理由の一つだと思われます。
池田屋や酢屋に限らず、木屋町を歩いていると維新関係の史跡が多く、その大半は志士たちの寓居跡という事に気付きますが、そこにある理由は大体は同じで、高瀬川沿いに各藩の藩邸があってそれぞれ連絡に便利だった事、それに各藩邸の周囲の治安維持は実質的に各藩が行っていた様で、幕府の目が届き難かった事が最も大きな理由の一つのようです。なお、各藩邸が高瀬川沿いにある理由は、元々京都藩邸というのは、各藩の国元の物産を京都で売り、また京都で仕入れた品々を国元へ送る目的で作られたもので、当時の物流の中心であった舟運に便利な高瀬川沿いに集中して建てられたという訳です。
さて今度は、「この距離を乗り越えクロスさせて、新選組が祇園に、あるいは竜馬が島原に遊びに行くことは、ほとんどあり得なかったのではないでしょうか。」という疑問についてですが、龍馬がどこで遊んでいたのかは判りませんが、新選組が祇園で遊んでいたのは確かです。例えば、近藤が一力に遊びに行っていたのは有名ですし、土方のもて自慢の手紙にも祇園が出てきます。また、永倉の新撰組顛末記にも、祇園へ行った事が書かれていますね。反対に、勤王の志士が島原へ行っていた時期もあったようです。角屋の隅に「久坂玄瑞密議の角屋」という石碑があるように、しばしば志士達の会合の場所として用いられていました。ただし、それは新選組が京都に来る前の事で、さすがに新選組が頻繁に島原を訪れるようになると、勤王方はほとんど来なくなったようですね。
最後に、池田屋と近江屋が跡形もなくなくなってしまっている件については、「河原町通りがあまりにも繁華街として発展してしまい、地価が相当高水準となってしまったためと思われます。」と考察されているとおりだと思います。ただ、付け加えるなら、まず池田屋については、明治維新を勝ち残った長州藩にとってはマイナスの記憶でしかなく、歴史の中から消してしまいたい場所であった事が大きかったのではないかと思われます。また、近江屋については、今でこそ龍馬といえば維新史の中で輝く存在ですが、薩長閥全盛の明治においては全く忘れ去られた存在に過ぎず、また彼を顕彰すべき土佐閥自体が薩長閥に押されて影が薄かった事が影響しているのではないでしょうか。これを象徴しているのが寺田屋の隣にある石碑で、寺田屋事件で亡くなった薩摩藩士に対する顕彰碑はもの凄く立派なものが建てられていますが、今では彼ら以上に有名な龍馬については、ずっと後世に建てられた小さな銅像しかありません。要するに、勝者の歴史は大きく語られますが、敗者については何も残らないというのが現実なんですね。龍馬を敗者と言うのはおかしいかも知れませんが、薩長閥の力が圧倒していた明治の世においては、龍馬もまた記憶の彼方へと追いやられていたというのが実態だったようです。
池田屋にしても近江屋にしても、今回のドラマで取り上げられてからは誰もが知るところとなりましたが、それ以前は石碑の前を通っても見向きもしない人がほとんどでした。その前で写真を撮っていようものなら、この人何をしているんだろうという目で見られたものです。池田屋の石碑に至っては、看板の後ろに隠れていましたからね。それくらい、一般の人にとっては無関心な存在でした。それが大河ドラマのおかげで大事にされる様になったことは、とても嬉しいことだと思います。願わくば、ドラマが終わった後もずっと忘れないでいて欲しいところなのですが、こればっかりは経過を見ないと何ともいえないでしょうね。
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コメント
ねこづらどきさん、トラックバックありがとうございました。「合理的な愚か者の好奇心」の管理者の壮大な零でございます。いつもながら、有益なサジェスチョンを感謝です。
この「新選組と竜馬の時間距離」の記事につきましては、実は私としては密かな自信作でありましたが、アップしてからウンともスンともコメント欄での反応がなく、がっかりしていたところでした。しかし最近、何人かの友人から直接評価の言葉をもらい、なんとか気を取り直していたところです。
ねこづらどきさんの資料に基づく相変わらずの緻密な時代分析で検証していただき、いつものことではありますが、赤面の至りです。しかしながら、私としては、自分勝手な思いつきの解釈がいろいろな方の解釈のフィルターを通して、どんどん精緻化していくことが、この上ない快感なのであります。
今後とも、存分なご指導ご批判を伏してお願い致します。
投稿: 壮大な零 | 2004.10.24 20:40
壮大な零さん、コメントありがとうござます。
「合理的な愚か者の好奇心」は示唆に富んだ記事が多く、いつも楽しみにしています。今回の記事については、決して批判と言うわけではなく、インスピレーションを得て、自分なりの考えをまとめたというものです。以前から考えていたテーマでもあり、楽しく書く事が出来ました。これからも「合理的な愚か者の好奇心」には期待していますので、よろしくお願い致します。
投稿: なおくん | 2004.10.24 21:43