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2004.10.22

新選組!33の4

久々の新選組!マイナー隊士の紹介は、佐野七五三之助です。
残念ながら、ドラマにはほんの少ししか登場しなかったですが、武田の悲劇と相まって、非常に印象的な最期だったのではないでしょうか。

佐野の名前の七五三之助は「しめのすけ」と読みます。1836年(天保7年)に尾張藩士の子として名古屋で出生しました。長じて脱藩し、尊皇攘夷運動に身を投じます。1863年(文久3年)3月、彼は横浜外国人居留地の警衛隊に参加します。佐野はここで、後にまで行動を共にする事になる篠原泰之進、加納鷲雄、服部武雄らと知り合いました。そしてさらに加納の紹介で、当時北辰一刀流の道場を開いていた伊東大蔵(甲子太郎)と出会います。この一連の出会いが、佐野のその後の運命と大きく関わって行くことになります。

同年10月、横浜運上所で、泥酔した英国人水夫三人が運上所に暴れ込み、狼藉を働くという事件が起こります。佐野等は、直ちにこの水夫達を取り押さえ、捕縛した上で運上所の南の海岸通りに引き据えてしまいます。しかし、この事件は英国からの厳重な抗議を呼ぶ事となり、佐野達は英国人に対する暴行容疑を掛けられてしまいました。捕縛したまでは良かったものの、海岸に引き据えたのがやり過ぎと捉えられたようですね。身の危険を感じた佐野達は、横浜を脱走し、それぞれに身を隠して潜伏します。そして、この潜伏している間に、伊東から新選組への加入を誘われました。1864年(元治元年)10月、佐野は篠原らと共に新選組への加入を承諾し、伊東に従って上洛する事になります。

新選組に入隊した佐野は平隊士となり、西本願寺移転後は、西村兼文と知り合って、交流を深めることになります。

佐野の隊士として記録されている活動としては、1865年(慶応元年)閏5月に起こった膳所城事件があります。当時の膳所藩は、親幕派の藩として知られていましたが、藩内には長州藩の勤王派と通じる正義派と呼ばれる勢力が存在していました。この正義派の代表が川瀬太宰という藩士で、彼は正義派を率いて将軍家茂の上洛に際し、瀬田の唐橋に地雷を仕掛け、殺害しようと計画していました。この計画が内部通報によって京都守護職の知る所となり、新選組、見廻組、京都所司代などに出動命令が下され、総勢300名が膳所へと向かいました。閏5月15日、川瀬は洛北の雲母坂で捕らえられ、翌日彼の留守宅に新選組が向かいます。このとき、真っ先に踏み込んだのが佐野でした。佐野の任務は、川瀬の残した文書の押収と、川瀬とともに正義派の活動に与していた妻の川瀬幸の任意同行でした。幸は、佐野の求めに対して了承し、着替えるまで待って欲しいと頼みます。佐野は、この申し出を受け入れ、他の隊士とともに家の表で待っていました。ところが、いつまで経っても幸は出てこず、異変を感じた佐野達が邸内に踏み込んだときには、幸は川瀬の残した文書を焼き捨て、短刀でのど元を突いて自殺を図った後でした。彼女は、夫の逮捕を聞いたときから覚悟を決めていたのですね。幸は、この時は死に切れず、その11日後に亡くなっています。この事件は、佐野にとっても新選組にとっても、幸にしてやられた失策と言うべきなのですが、佐野は西村に対して、むしろ幸を賞賛して語ったと「新撰組始末記」には記されています。

佐野の運命を変えたのは、伊東甲子太郎の分派でした。かねてから新選組からの離脱を図っていた伊東は、御陵衛士という立場を得ることで、新選組からの独立を果たします。伊東が近藤と話し合って、分離を認めさせたのが慶応3年3月13日、新選組の屯所を出たのが3月20日でしたが、伊東一派と目されていた隊士のうち、佐野、茨木司、富川十郎、中村五郎の4人は、なぜか御陵衛士には参加せず、新選組に残ります。このことについて、「新撰組始末記」では、6月8日(この日付は明らかな間違いですが)に急に決まったことなので佐野達は伊東と十分に打ち合わせをする事が出来ず、伊東が御陵衛士として新選組屯所を出て行った時には佐野らは外出しており、夜になって帰ってきたときに事の次第を知って大いに憤ったとあります。

しかし、佐野達4人は伊東が新選組に残した間者だとする説が一般的です。たとえば、伊東の甥にあたる小野圭次郎が著した「伯父 伊東甲子太郎武明」には、彼らは新選組の内情探知を目的として隊に残ったとありますし、子母澤寛の「新選組始末記」でも同じように書かれています。しかし、その一方で、「新撰組始末記」の記載から、佐野達は日頃の交際にも係わらす伊東とは少し距離があり、御陵衛士となる事をあらかじめ知らせて貰えなかったのではないかとする説もあります。

間者であるにしろ、そうでないにしろ、佐野達4人は新選組隊士の幕臣への取り立てが決まると、「二君に仕えるは武士にあらず」と新選組からの離脱を決意します。佐野達は、彼ら4人の他に軽格の隊士6名を誘い、御陵衛士と合流するべく彼らを引き連れて伊東の下へと赴きます。このあたりの動きを見ていると、やはり伊東が残した工作員という見方が正しいような気もしますね。ところが、伊東は新選組と交わした相互の隊員の行き来を禁ずるという約束のために、新選組脱走者である彼らを受け入れる事が出来ませんでせした。佐野達にすれば伊東に受け入れて貰えないというのは全くの誤算であり、伊東を恨みもしたことでしょうね。伊東は伊東で、何の準備も出来ていない今の時期に新選組と事を構える事は考えておらず、事前の打ち合わせもなく飛び出してきた彼らを持てあましました。伊東は、困ったあげくに会津藩に直訴してはどうかと提案します。佐野達はこれを受けて、守護職邸を訪れ会津藩に宛てて嘆願書を提出しました。

会津藩では、この事態を重く見て、直ちに新選組に連絡を取ります。知らせを受けた新選組では、近藤、土方、吉村、尾形が駆けつけ、佐野達を帰隊させるべく説得に当たりました。しかし、佐野達の決意は固く、この日の話し合いは物別れに終わります。佐野達は、翌日もう一度会う事を約束してこの日は一旦引き上げ、その後西村兼文の家を訪れています。彼らは西村に、伊東の下へ行って翌日の善後策を聞いてきて呉れるように頼みます。西村は、彼らの頼みを聞いて伊東を訪ねて佐野達の意向を伝えたところ、伊東は明朝自分のところへ来るように佐野達に伝えて欲しいと、西村に伝言を頼みました。西村は、家に取って帰してこの事を佐野達に伝え、旅館を世話してやって佐野達を送り込みます。翌日、佐野達と面会した伊東は、策略があるかも知れないと守護職邸へ行くことを止めます。しかし、佐野達は、よもや守護職邸で暴虐な謀をするはずもなかろうと伊東の止めるのも聞かずに、出かけて行きます。守護職邸に着くと、佐野達4人と彼らに従ってきた6人は別々の部屋に通され、酒食のもてなしを受けます。そのまま昼を過ぎてもなんの音沙汰もないまま夕方まで待たされますが、突然ふすまの外から数本の槍が差し出され、4人を突き通します。佐野は気丈にも刀を抜いて、槍を突いてきた大石に向かって斬りかかり、顎から膝頭まで切り下げますが、既に重傷を負っていたために浅手を負わせたにとどまり、他の3人と共に斬り死にを遂げてしまいました。残る6人については、付和雷同したに過ぎないとして、新選組から追放するだけに止まっています。

以上が、当日佐野達と接触を持った西村兼文が書き記した経過で、子母澤寛もほぼこれに倣っていますが、現在の研究では、佐野達は自刃したものと考えられています。「丁卯雑拾録」や永倉新八の「新撰組顛末記」にある記述で、詳しくは大石鍬次郎の項で書いていますのでここでは省略しますが、概ねドラマにあったような最期を迎えたものと思われます。彼らの遺体は新選組屯所へ引き取られ、一旦は光縁寺に埋葬されますが、明治元年に篠原らの働きかけにより、伊東らとともに泉涌寺の塔頭戒光寺に改装されました。

この事件は、伊東には新選組が彼らを殺したと伝わったようです。激怒した伊東は、遂に近藤の暗殺を決意するに至り、新選組と御陵衛士の対立は決定的なものとなって、後の油小路事件へと繋がって行くことになります。

この項は、新人物往来社「新選組銘々伝」「新選組資料集(新撰組始末記)」、子母澤寛「新選組始末記」、別冊歴史読本「新選組の謎」、小野圭次郎「新選組 伊東甲子太郎」を参照しています。

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