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2004.09.22

新選組!29の3

今回のマイナー隊士の紹介は、大石鍬次郎です。ドラマでは、根本慎太郎がいかにも切れやすそうな若者を演じていますが、この俳優についての情報は少ないですね。まだ21歳、これをきっかかけに出てくる様になるのでしょうか。

大石鍬次郎と言えば「人斬り鍬次郎」の異名を持ち、新選組の中でもとりわけ残忍性の強い人物としてイメージされている隊士です。実際、数々の実戦の舞台にその名を残し、人斬りの名にふさわしいエピソードの持ち主でもあります。では、その実態はどうだったのでしょうか。

大石は、1838年(天保9年)に、江戸の一橋家近習番衆大石捨二郎の長男として生まれています。はじめ金之助と言い、女性問題を起こして出奔したと言われます。家を出た大石は日野で大工職人となっていたと伝えられており、彼はあるとき佐藤彦五郎の家を大修理する仕事に携わったのですが、彦五郎の邸内にあった天然理心流の道場に興味を持ち、いつしか通うようになっていました。彦五郎も彼に目を掛けて稽古を付けてやると、めきめきと上達し、中でも居合いの腕は新選組随一と言われる程にまでなったと言います。阿部十郎が残した談話にも「大石という者は近藤の弟子」とあり、彼が天然理心流に入門していたことは間違いないと思われますが、「会津藩庁記録」にある新選組の入隊希望者の記録には「小野派一刀流 大石鍬二郎」となっています。この辺がよく判らないのですが、家を出奔する前に小野派一刀流を修行していたということなのでしょうか。

大石は、1863年(文久3年)以前に7歳年上のたかと結婚し、1864年(元治元年)頃にはたかが身ごもるのですが、それにも関わらず新選組隊士の募集に応じて10月に上洛してしまいます。このとき、名前を金之助から鍬二郎に改めたと言います。大石と一緒に募集に応じた隊士には伊東甲子太郎、加納鷲郎、佐野七五三之助らが居ました。

新選組に入隊した大石は、一番組の沖田の隊に配属になります。その後しばらくは大石に関する記録は無いのですが、子母澤寛の「新選組始末記」によれば、1866年(慶応2年)2月5日夜、松原通東洞院にて勢州藩士安西某と口論になり、これを斬り殺したとあります。

大石は、安西が倒れる音を聞いてそのまま屯所へと走って帰り、自分の部屋へ入って同僚達に今夜の手柄話をしていました。この頃、大石は平隊士から諸士調役並観察になっていたようですね。一方、今井祐三郎という平隊士もこの日一人の武士を祇園石段下で斬っていました。彼は彼で平隊士の部屋で手柄話をしていたのですが、丁度その時部屋の前を通り掛かった大石がその話を耳に挟みます。最初は二人して同じ日に手柄を立てたと言うことで話に花が咲いたのですが、そのうちに今井の斬った相手が「大石造酒..」と言って息絶えた事が判ってきます。これを聞いた大石は今井の胸ぐらを掴んで、「それは俺の兄の造酒蔵ではないか。」と食ってかかりました。大石は、兄の敵として今井を斬ろうとしますが、原田が間に入って仲裁し、さらに妾宅から近藤が駆けつけて大石をなだめます。さらに土方が「私の闘争を禁ずる法度に背くというなら私が相手になる。」とまで言ったため、大石も仕方なく引き下がったと言います。その後も大石は事あるごとに今井をつけ狙ったのですが、ある時土方から「近藤先生から俺とお前に預かりものを言いつかった。これを無くすような事があると俺もお前も腹を切らなければならん。その預かりものとは、今井の命だ。」とと言われ、遂に大石も今井を狙うのを止めたとあります。大石造酒蔵の遺体は光縁寺に葬られており、現在は山南敬助の墓の左隣に設置されています。

大石の短気な性格で激しやすい性格を表したエピソードですが、この話にはいくつかおかしなところがあります。まず大石造酒蔵ですが、大石の兄ではなく弟が正解です。彼は兄が出奔した後、家督を継いでいたのでした。次に、近藤が仲裁に現れたとありますが、この頃近藤は広島に出張しており、京都には居ません。また、近藤や土方の書簡には造酒蔵の死因は病死とあり、これらの事からこの話は例によって子母澤寛フィクションではないかとも言われています。

この造酒蔵の死によって大石家の跡目相続が問題となり、鍬二郎をしてその相続人とすべく近藤と土方が一橋家に働きかけ、その結果無事に家督を相続したと新選組始末記にありますが、実際には大石家の親族が相談して鍬二郎の妹の与磯に婿を取り、この婿が捨二郎の名を襲名して家督を相続したようです。

大石の名が次に出てくるのは「三条制札事件」です。彼はこの事件に東の一隊10名を率いて参加していました。このとき、見張り役をしていた浅野薫が臆病風に吹かれて浪士達を避けて河原を迂回したために大石達への連絡が遅れ、彼らは戦闘に遅れて参加する事になってしまったと言われています。浅野は大石の申し立てによって臆病者のレッテルを貼られ、隊内での居場所を無くしたという説がありますが、これには疑問がある事は以前に書いたとおりです。また、この戦闘の最中に大石は偶然にも今井と向き合い、一瞬周りが見えなくなったのですが、原田が「馬鹿!」と一喝した事で我に返ったという逸話が残っています。大石は、この事件の褒美として後日金1000疋を受け取っています。

1867年(慶応3年)6月10日、新選組の隊士が幕臣に取り立てられますが、そのとき、これを良しとしない佐野七五三之助、茨木司、富川十郎、中村五郎外6名の隊士が新選組脱退を求めて京都守護職に直訴に及びます。佐野ら4人は伊東甲子太郎と気脈を通じており、他の6人を語らって御陵衛士に合流しようとしたのでした。これを受けて新選組では、近藤以下土方、山崎、吉村、沖田、大石ら18名が守護職邸に駆けつけて談判に及びますが、話し合いは難航し、最後は佐野らに付いてきた6名の脱退は認める代わりに自分たち4名は残ると言うことで決着が付きます。この後、佐野達4人は内談があると言って別室に篭もり、そのまま自刃して果ててしまいました。事が破れた無念さと、勤王派を自認するかれらにしてみれば幕臣になる位なら死んだ方がましだったのかも知れません。それに、隊に残ったとしても、いずれは粛清の対象にされてしまうだろうという事もあったでしょうね。彼らの死に気づいた新選組では、彼らの遺体を光縁寺に運ぶことにし、大石が指図しながら佐野の前に座ると、まだ息のあった佐野が突如起きあがり、刺さっていた脇差しを抜いて大石に斬りかかりました。大石は、このとき軽傷を負いますが、抜き打ちに佐野を斬ったとも言い、負傷して倒れたところを他の隊士が佐野に止めを刺したとも伝えられます。また、このとき大石が負傷した箇所として、右のに額より首筋と右太股とする説、眉と、胸と腹とする説、膝とする説などがあります。佐野は、光縁寺に運ぶために戸板に縄で縛られますが、そのときなおも縄に噛みついたとちたえられ、その執念のすさまじさが窺えるエピソードです。

この佐野達の死については、大石達が守護職の部屋に居た佐野達を、襖越しに槍で突いてだまし討ちにしたと新選組始末記などにあります。そのとき、大石が倒れている佐野の頭を蹴り上げた拍子に佐野が起きあがり大石を斬りつけたとありますが、しかし、守護職邸で隊士の内部抗争で殺人を犯すことは考えにくく、「丁卯雑拾録」や永倉新八の「新撰組顛末記」にあるように、佐野達が自刃したと考える方がより自然ではないかと思われます。

新選組始末記に所収されている池田七三郎、後の稗田利八の回想録にも大石が登場します。慶応3年11月3日に進入隊士として屯所に到着した池田達の前に40がらみの立派な侍が出てきて「ご苦労様です。拙者は大石鍬二郎、いろいろ諸士の心得方を申し伝えます。なお、ご不自由な点があったら拙者までお申し出下さい。」と言って、その時点からの注意をしてくれたとあります。この話から感じられる大石像は、けっして粗暴なそれではなく、なかなか行き届いた立派な人物というイメージが感じられます。

慶応3年11月18日、油小路木津屋橋付近で、御陵衛士頭取の伊東甲子太郎が暗殺されます。彼は勤王派の信用を勝ち取るために近藤の暗殺を企てていたのですが、これを反対に近藤に感づかれたため、奸計によっておびき出され、帰り道を待ち伏せをしていた大石の槍の一突きで致命傷を負わされたのでした。伊東は、大石に肩から首筋に掛けて突かれた後もなお暫く息があり、さらに斬りかかってきた元自分の馬丁をしていた勝蔵をと言う男を一刀の下に切り捨てるのですが、近くの本光寺の前前の石碑に座り込んだところで息絶えたと伝えられます。この後、伊東の遺体を引き取りに来た御陵衛士達と新選組で乱闘になるのですが、大石は原田らとともに傷を負っており、激しく戦ったことが伺えます。

同年12月7日、坂本龍馬暗殺の黒幕を紀州藩の三浦休太郎と見込んだ海援隊士が、三浦が潜んでいる天満屋へ斬り込んでいます。新選組では、あらかじめこの日のある事を察知していた紀州藩からの要請で、斉藤以下6名の隊士が護衛に付けていました。大石もこの中に居たと言います。この日、酒を飲んでいた斉藤達は油断していたがために遅れを取り、三浦は軽傷で済んだものの、新選組側は2名が死亡し、1名が重傷、3名が軽傷を負ったのに対し、襲撃側は中井庄五郎1名が死亡したのに止まっています。大石がこのときどういう働きをしたのかについては判っていませんが、新選組としてはやや不手際であったという感じがしますね。

12月25日ごろ、伏見奉行所に詰めていた新選組の下に、二人の尾張藩士が新選組の退去を求めてやってきます。この日は土方が不在であったために大石が応対したのですが、話が全く伝わらなかったらしく、この二人は大石の事を「一向分らぬ人なり。」と評しています。彼らにしてみれば、非常に頑迷な人物と映ったようですね。

翌慶応4年1月、鳥羽伏見の戦いで敗れた新選組は、江戸へ引き上げます。このとき、諸士調役並観察は大石一人となってしまっていました。江戸においては、新選組は甲府城の接収を命じられ、甲陽鎮撫隊と名前を変えて甲府を目指します。大石は、この鎮撫隊の先触れとして2月27日に甲府へ先発しています。3月6日、鎮撫隊は官軍と戦闘に及びますが、寄せ集めの軍隊であった上に衆寡適せず、鎧袖一触で破れてしまい、彼らは八王子へ向かって敗走しています。このあと、新選組は江戸から五平新田、流山へと転戦して行きますが、大石はこの間に新選組を脱走してしまったのでした。その理由はよく分かっていません。

この後大石は、新選組始末記によれば、板橋の官軍の下に現れ、本営にいた加納鷲雄を呼び出して新政府軍に加われるように頼み込んだとあります。しかし、加納は油小路の事件や佐野達の死についての恨みを大石に投げつけ、大石を捕縛させてしまいます。大石は、3日の間拷問を加えられた後で斬首されたとあり、「こんな事なら、来るのではなかった。大石一生の不覚だった。」と嘆いたとされます。このとき加納が大石に゜むかって言った言葉が「人斬り鍬二郎」という異名で、以後今に至るまで大石の通称とされているものです。しかし、この逸話については、疑問があるようです。

先に出てきた阿部十郎の談話に、大石が捕まった経緯が詳しく述べられています。それによると、大石は新選組脱走後、大石新吉と名を変えて、江戸に潜伏していたようです。そして、京都から妻子を呼び寄せ、親子3人で暮らしていました。阿部は、大石を捜し出そうと思い立ち、元新選組の加納、前野、三井と協力して事にあたります。特に三井は大石と旧知の仲で、三井に呼び出された大石は、三井の裏切りに気づかずにあっさりと捕縛されてしまいます。明治2年2月頃の事でした。大石は兵部省に送られて、坂本龍馬と中岡慎太郎の暗殺について尋問を受けます。大石は、はじめ暗殺への関与を認めますが、後にこれを否定しています。大石の申し立てによれば、はじめこれを認めたのは薩摩の拷問を逃れるためで、本当は自分は関係ないというものでした。この大石の主張は、見廻組の今井信郎がその実行を認めたために事実と認められ、大石の嫌疑は晴れる事になります。しかし、大石はそのまま拘束され続けました。彼には、まだ伊東暗殺の嫌疑が残っていたからです。大石は結局斬首と決まり、明治3年10月10日に刑が執行される事となります。当日、執行を前に大石は伊東の事については、(公務でした事なのだから)決して罪に服するつもりは無いと大声で主張したと言います。これは、大石と共に処刑される事になっていた横井楠南襲撃犯の一人が、「横井の今後の処置や親類の扱われ方を教えてもらわない限り、罪に服することはない。」と主張した事に倣ったもので、これを聞いた役人達は狼狽して混乱に陥り、上役の判断を仰ぐために刑の執行を中断してしまいます。しかし、結局は時間が遅れただけで、予定通り刑は失効され、大石はその生涯を閉じました。享年32歳。

大石の妻は、息子の雷太郎を連れて親戚の間を転々としていましたが、最後は板橋にあった岡蔦という遊女屋にお針子として住み込み、雷太郎を12,3歳の時まで育て上げたそうです。雷太郎は大石姓のままでは詮議が厳しいので母の実家の姓を名乗って本間歌吉と名を改めたそうですが、叔父の大石定之助は歌吉を出家させろと再三に渡って迫ったそうです。しかし、歌吉は腕の良い鼈甲職人となり、下谷稲荷町に店を構えました。母のたかはその歌吉の下で、幸せな晩年を過ごし、85歳で亡くなっています。

大石は、おそらくは文京区関口にある蓮光寺にある本間家に葬られているものと思われますが、同寺の過去帳は戦災で焼けてしまっており、確かめる事は出来ません。わずかに、新選組慰霊碑にその名をとどめるのみです。

大石に対する評価は、結局のところ、加納が大石に向かって言ったとされる「暗殺の名人」である「人斬り鍬二郎」という言葉と、阿部が残した談話に出てくる「誠に残酷な人間」で「至って悪いやつでございます。」という証言が元になっているようです。確かに彼は数々の事件に関与してはいますが、造酒蔵のエピソードや守護職邸で佐野達を暗殺したとされるエピソード、またその最後に官軍に加わりたいと出頭してきたというエピソードは全て創作されたものである可能性が高く、短気でかつ残忍で愚かという人物像を強調するために作られたものであるように思われます。阿部の証言によれば、近藤も沖田も大石と同じく残酷で悪い奴と言うことになり、彼にしてみれば伊東や藤堂達を殺された事が恨み骨髄に達していた事から、極端に誇張した表現を取ったものなのではないでしょうか。稗田利八の証言や、脱走後は妻子とひっそり暮らしていたというエピソードから感じられる人物像は、至ってまともでかつ平凡な姿であり、血に飢えた狂人のごとき人間とはとても思えないのですが。彼もまた、偏見の無い目で見直してやるべき隊士の一人のように思えます。

この項は、新人物往来社編「新選組銘々伝」、別冊歴史読本「新選組の謎」、文藝別冊「新選組人物誌」、子母澤寛「新選組始末記」、永倉新八「新撰組顛末記」、木村幸比古「新選組日記」を参照しています。

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コメント

keyfordです。
大石一人とってもこれだけ深い考察があるのですね。わたしも小説だけでなくいろいろ読んでみようと思います。今日は会津の藩公行列を見てきました。大河の土方、島田、尾関の3人が参加で昨年以上の盛り上がり。やっぱり若いコが多かったです。ブログに画像のっけてみました。会津の帰りにまたフィギア買いましたらシークレットでした。もうご存知ですか?とりあえずシークレットにしておきます。

投稿: keyford | 2004.09.23 19:46

keyfordさん、コメントありがとうございます。
大石はやはり数々の逸話に彩られた隊士ですから、それだけ研究もされているのですね。
ところで会津へ行ってこられたのですね。新選組関係のブログで参加を表明されている方が何人もおられましたが、さぞかし盛り上がったことでしょうね。私もいつか行ってみたい地の一つです。
また、いきなりシークレットのフィギュアをゲットされたのですね。うーん、うらやましい。関西地区での発売が待ち遠しいです。

投稿: なおくん | 2004.09.23 19:56

keyfordです。
会津へはちょうどいいドライブコースなので時々足を伸ばします。今年の春には如来堂へ行きました。激戦が繰りひろげられたとはちょっと想像できないほどの、のどかな田園地帯の中にあります。鶴ヶ城や会津本陣なども一日で巡れます。機会がありましたら訪れてみてください。

投稿: keyford | 2004.09.24 19:46

keyfordさん、こんにちは。ドライブがてらに会津へ行けるとは良いですね。私はまだ東北へは行った事が無いのですよ。新選組や会津藩が戦った地を、いつか実地に見たいものだと思っています。

投稿: なおくん | 2004.09.24 22:52

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