新選組!26の3
今回の新選組!マイナー隊士紹介は、篠原泰之進です。
ドラマでは小梶直人が演じていますが、まだ松原と喧嘩するシーンぐらいしか出番がなく、今のところはまだ影が薄いですね。この方のプロフィールを見ると剣道2段の腕前となっています。だとすると、もっと剣豪として知られる役柄の方が良かったような気もしますね。
篠原泰之進は、築後国生葉郡高見村の生まれの人で、父は石工業を営む篠原元助でした。生年は1828年(文政11年)10月10日です。泰之進は家業を継ぐべき長男だったのですが、年少の頃から久留米城下に出て武術の修行に励み、始めは宝蔵院流槍術師範森兵右衛門に入門して槍と剣を、次いで良移心倒流柔術師範下坂五郎兵衛に師事して柔術を学んでいます。1852年(嘉永5年)に久留米藩士小倉一之進に仕える様になり、その後家老有馬右近に奉公しています。
1858年(安政5年)に主人の有馬に従って江戸に上るという幸運に恵まれ、泰之進は赤羽の藩邸に入ります。江戸においてもさらに武術の修行に励み、諸藩の士と交わる内にいつしか熱烈な尊王攘夷論者となって行きます。そして、1860年(安政7年)3月に桜田門外の変が起こると、この事件に刺激を受けた泰之進は水戸へと走ります。しかし、泰之進は水戸には受け入れて貰えなかったらしく、脱藩者となった彼は江戸で楊心流柔術の道場を開いていた戸塚彦助の下に潜伏します。
1862年(文久2年)泰之進は、将軍の上洛を機に大阪に上ったのを皮切りに、上総、下総、奥羽、越後と遊歴を重ね、各地の尊王攘夷派の志士たちとの交流を深めます。そして、翌1863年(文久3年)には神奈川奉行所に雇われて、横浜の外国人居留地の警備に就く事になります。これは、居留地で働く事によって外国の国情を探り、攘夷に役立てる事が目的だったと言われています。ここで、彼は後に行動を共にする事になる服部武雄、加納鷲雄、佐野七五三之助らと出会い、交遊を深めます。同年10月、泰之進達は幕府の運上所に乱入したイギリス人3人を捕らえて縛り上げ、海岸通りに放り出すという事件を起こします。このことが幕府とイギリスとの間で問題化しそうになったために、泰之進は同志と共に横浜を離れ、江戸の雅橋勘之進の下に潜伏します。そしてこの頃、最も重要な出来事として、泰之進は加納鷲雄の紹介で伊東甲子太郎と知り合い、意気投合してその同志となっています。
1864年(元治元年)9月、伊東甲子太郎が近藤勇の誘いに乗って新選組加入を決意すると泰之進もこれに従い、共に上洛の途に付きます。このとき泰之進37歳でした。伊東の一行は10月27日に京都に入っていますが、泰之進はこれとは別行動を取り、翌年5月10日まで大阪にあって畿内の情勢を探っていました。このため、泰之進は長州征伐に備えて作られた行軍録にその名を見る事が出来ません。正式に新選組に加盟した泰之進は、諸士取調役兼観察となり、併せて柔術師範も兼ねるようになります。
泰之進が新選組において活躍した事件として、奈良における不逞浪士の取り締まりがあります。不逞浪士潜伏の情報に接した新選組は、伊東、久米部正親らとともに泰之進を奈良に派遣します。夜、市中を久米部と共に歩いていた泰之進は、5人の浪士と出会います。たちまちの内に斬り合いとなり、久米部は3人の敵と戦って太股を刺されるという重傷を負います。一方、泰之進は二人の浪士に立ち向かい、一人はたちまちのうちに倒してしまい、もう一人は組み伏せて両刀を奪った上で蹴放し、逃げていくその浪士に向かって両刀を投げて返してやるという武勇伝を残しています。
1866年(慶応2年)1月、長州藩訊問に向かう近藤に従って、伊東と共に泰之進も広島へ赴いています。ここで伊東と泰之進は近藤とは別に、諸藩の周旋方と尊王論と交わしつつ徳川幕府の悪政について論じ尽くし、併せて長州への寛大な処置を説いて回わるという行動を執っています。この頃既に、新選組の中で伊東と近藤との間に決定的な溝が出来ていた事を伺わせる行動です。
同年6月に長州で始まった四境戦争では、幕府軍が大敗を喫し、将軍家茂の死をもって裳を発し、朝廷は休戦の沙汰を下しています。そして12月25日には、幕府を支持されていた孝明天皇が崩御されました。いよいよ幕府が斜陽の時代に入った事を見て取った伊東は、翌1867年(慶応3年)3月13日に近藤と土方と会談して、御陵衛士として分離することに同意を取り付けます。これは、談判に先立ち、泰之進が勤王の士でもある泉涌寺塔頭戒光寺の湛念長老に依頼して、伝奏を通して3月10日に孝明天皇の御陵衛士を拝命していた事が大きく作用したといいます。伊東以下13名の同志は、3月20日に新選組の屯所を引き払い、三条の城安寺に一泊したあと、五条の善立寺にに移ります。暫くこの寺に滞在したあと、6月下旬には高台寺塔頭の月真院に入って、ここを屯所としました。
御陵衛士となった泰之進達は、晴れて尊王攘夷運動に邁進します。しかし、それも長続きする事はなく11月18日に伊東が新選組によって暗殺されてしまいます。町役人の知らせを聞いた泰之進達は伊東の遺体を引き取りに行く事にします。その際、服部武雄は敵は新選組であるに決まっているので、甲冑の用意をして行こう言い、伊東の弟である三樹三郎は新選組なら旧知の仲であり、礼をもって引き取りに行くべきだと主張します。しかし、泰之進は、「もし賊と戦えば、敵は多勢であり、我らは少数である。だからといって、甲冑を着て路上で討ち死にすれば、卑怯者として後世笑い者にされてさしまう。それぞれ普段の平服で良い。」と言って他の仲間を納得させ、駕籠掻き用の小者を連れて七条油小路へ出かけて行きます。現場についた泰之進達は、変わり果てた伊東を見つけて駕籠に乗せようとしますが、半ば乗せ終わった頃、四方から新選組隊士が群がり出て来ました。その数40人以上と言いますが、別に35、6名とする説、23名とする説、17名とする説などがあります。いずれにしても、鎖の着込みを着て十分に戦支度をした新選組と、平服のままの泰之進達とでは装備の上からでも差がありすぎ、服部(彼だけは、鎖を着込んでいました)、藤堂平助、毛内有之介の3人が斬殺されてしまいます。残る泰之進、三樹三郎、加納、富山弥兵衛の4人は囲みを破って脱出する事に成功し、その後薩摩藩邸に匿われます。
彼等は、新選組に対する復讐の機会を待ちますが、12月18日、二条城から伏見に帰る近藤が伏見街道を通る事という情報を掴み、墨染の民家でこれを待ち伏せします。泰之進が放った銃弾は馬上の近藤の肩に命中しますが、命を奪うには至らず、近藤は重傷を負いながらも馬にしがみついたまま駆け去ります。泰之進達は、残った近藤の護衛達に斬り込み、激闘の結果石井清之進と下僕の久吉を倒しています。ただ、このとき近藤を撃ったのは富山だったという阿部十郎の証言があり、おそらくは阿部の言う方が正しいのではないかと考えられています。このあたりのいきさつからか、阿部はその後泰之進との交流を絶っています。
鳥羽伏見の戦いにおいては、薩摩軍と共に戦い、さらに戊辰戦争では赤報隊に参加しています。しかし、赤報隊の偽官軍事件に連座して一時は監獄に投じられるという不運に見舞われ、嫌疑が晴れた後は軍曹として北陸方面で活躍をしています。
明治以後、名を秦林親と改め、永世士族の資格と終身八人扶持、そして恩賞金として250両が与えられました。そして、弾正台の小巡察、大蔵省造幣寮の監察役などを務めますが、明治6年に官を辞して民間に転じています。そして、鉱山業や林業、果ては銀行の設立にまで手を出しますが、いずれも目が出る事はなく、大成する事はありませんでした。
晩年は、キリスト教に帰依し、敬虔なクリスチャンとして生きたと言います。そして1911年(明治44年)6月13日に84歳で亡くなりました。泰之進がその晩年に、妻のチマと初孫を抱いて撮った写真が今に伝わっています。いかにも明治を生きた人らしい頑固そうな風貌の中にも、初孫を得て安らぎを得た好々爺といった趣があり、その晩年が幸せであったことを物語っているかのようです。
泰之進については、このほか松原との交流があったとする「壬生心中」や、谷三十郎が殺された時に斉藤と検分に立ち会い、その言動から斉藤がその暗殺の実行者ではないかと思ったとされる話、武田観柳斎と仲が良かったのだが、その最後の日に斉藤と共に竹田銭取橋まで見送り、斉藤が武田を斬り倒したその場に立ち会ったという話などが伝わっています。しかしそのいずれも根拠が薄く、恐らくは創作されたものではないかと思われます。
私個人の思いとしては、油小路の決闘の際に、どうせ死ぬなら平服で行こうと言いながら自分はしっかりと生き残り、藤堂達を無碍に死なせている所がどうにも引っかかっています。彼が余計な事は言わないで、全員がせめて鎖の着込みでも身に付けてしれば、また違った結果になっていたかも知れません。死ぬ気で行ったのなら、仲間を残して逃げずに戦うべきだし、また最初から逃げるつもりだったのなら行かない方がましですよね。どうにも釈然としないものが残ってしまいます。
子母澤寛「新選組始末記」、新人物往来社「新選組銘々伝」、「新選組資料集」(「新撰組始末記」「秦林親日記」)、別冊歴史読本「新選組の謎」、河出書房新社「新選組人物誌」を参照しています。
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コメント
こんにちは。月間1万アクセスおめでとうございます、プチリピーターのkeyfordです。篠原が孫を抱いている写真からは修羅場をくぐり抜けてきた人物とはなかなか思えませんが、新選組の暗部とも言える油の小路、大河ではこのあたりどんなふうに描くのでしょうね。
投稿: keyford | 2004.09.04 10:41
keyfordさん、コメントありがとうございます。
油小路の決闘は後半最大の山場と言える事件であり、ここをどう表現するのか今から楽しみですね。それに絡んで行く藤堂平助や斉藤一の苦悩が、どう描かれるかも見物だと思います。
投稿: なおくん | 2004.09.04 11:08